下
「逃げよう」
ㅤ言い出したのは僕の方からだった。大して長くもないこれまでの人生で積み重ねてきた恥はもはや思い出せないほどで、後悔しようにもどれからすればいいかすら分からない。
「何処まで?」
ㅤそう僕に訊いたのは彼女だ。僕と同い年、正確には僕の方がやや生まれが早い。僕は今、古ぼけたアパートの一室の玄関に立って、彼女を連れ出そうとしている。
「宛はないんだ。ただ、何処か遠い所に」
「そう」
ㅤ切れかかった誘蛾灯が、明滅を繰り返して僕らを
「いいよ。行こう」
ㅤ彼女はそう言って笑った。正直、断られるかもれないと少し思っていた。「行先くらいは決めておいた方がいいかもね」と呟いて、彼女は身支度の為に家の中へと去っていった。実を言えば、僕自身の支度はもう済ませている。背負ったリュックの中身が全てだ。ここに、現代社会に於ける僕の生命維持の最低限が詰まっている。
ㅤ彼女が出てくるまでは此処で待たなければならない。途中、狭い通路を郵便配達員に譲ったりしながら、扉の前をぼうと立っていた。しばらくして、扉が開いた。それが夜逃げの合図だった。僕らのこれからの行動は、正しい定義としての「夜逃げ」とは違うらしい。夜中にこっそりと引越しをすることが夜逃げであって、行く宛もないのに夜な夜な街を徘徊しようとすることは別に夜逃げとは呼ばない。それでも、「夜逃げ」という言葉が僕らを形容するには相応しい気がした。
「本当に良いの?」
ㅤ自分から誘っておきながら、本当は道連れにする覚悟などは持っていなかった。何も残っちゃいない自分のことは構わないが、果たしてエゴに彼女を巻き込んでいいのか。彼女には未来がある。僕に着いてくる選択をするには思慮が浅いように思えてならなかった。それでも、彼女は構わないのだと言った。
「遅かれ早かれこうなるとは思ってたから」
ㅤ彼女の言葉の意味はよく分からなかった。
ㅤその夜は、住んでいた街を奥の方へ奥の方へと進んでいった。住宅街を抜けて大通り、普段から良く買っていたパン屋を過ぎて隣のコンビニの横にある小道に入った。裏通りだった。看板のネオンが目に刺さった。客引きが騒がしくしていた。
「何だか、ここだけ昼みたい」
ㅤ裏通りに入れば皆言うようなことを彼女は口にしていた。よく言われるだけあって、確かに夜の中にいる風には感じなかった。だのに空を見ればまっくら、十六夜くらいの銀の明かりが寂しく浮かんでいた。珍妙なアンバランスにそこはかとない
ㅤかつて陰鬱だった僕の心も、最近は幾らか改善されている。これも全て彼女の仕業に他ならない。愛だなんて物を身に染みて覚えてしまったから、僕は彼女におめおめ救われてしまったのである。喧騒はいつの間にか消えていた。裏通りを抜けたらしい。僕らはただ歩いていた。
ㅤ水の腐った匂いがした。マンホールを踏み越えて、下水が地下にあるのだと分かった。二人で鼻を摘んだ。なんだか可笑しくなって、揃って噴き出す。夜の高揚感も相まってか、夜行は童心に返ったような胸の高鳴りがあった。それは彼女も同じことだった。それからまたしばらく歩いて、電柱に記された住所がもう隣町を指していることに気が付いた。月がもう随分傾いていた。夜明けはそう遠くなかった。
「お腹空かない?」
ㅤそう言ったのは彼女の方だった。思えば、今はもう深夜だというのに妙に目が冴えている。
「確かに。何か食べようか」
「私、お弁当作ってきたんだよね」
「え? そうなの」
ㅤお弁当を作った、にしては随分準備が早かった気がする。不思議に思ったまま彼女が取り出した弁当箱を開けると、簡易的なサンドイッチが二つ入っていた。
「サンドイッチってそんなに手ごろに作れるものだっけ」
「材料だけ用意してあったから」
ㅤ曰く、タイミングが良かったのだそう。普段から間の悪い男だと痛感する日々を送っているが、こういう時に限っては間が良いのも滑稽だなと自嘲の念が湧いた。昔から、変なところだけは運のある男だったな。
「簡単なやつだけど。食べて」
ㅤ彼女に渡されたサンドイッチを口に入れた。一口で食べれるサイズではないが、
「美味しい。これ、BLTサンド?」
ㅤ彼女は首肯した。遅れて彼女も自分の分を食べ始め、二人で食べ終わったところで眠気が襲いかかった。彼女はまだ平気そうだったが、僕は耐えきれなくなってしまって、公園で休もうということになった。ベンチに腰を下ろした途端、僕の意識は深く沈んでいった。
ㅤ初めて人生に失望したのはいつだろう。目指していた美大に落ちた時だろうか。自分の絵が賞に届かなかった時?親が離婚した時?それとも───。心当たりが多すぎて、遡っても遡りきれない。
ㅤ彼女とは中学からの付き合いだった。人あたりの良い性格と明るい容姿から、男女を問わず色んな人に慕われていた。僕もその一人だった。そして、彼女は僕の絵を好きだと言ってくれた初めての人だった。上手いだのなんだのと言われたことはあったが、「好き」と明確に言われたのはその時が初めてだった。
ㅤそれが切っ掛けで、僕は絵を描くことに没頭した。得意になって、自分は絵を描く才能に関して突出しているのだと勘違いした。振り返るのも嫌になる程に慢心の限りを尽くしていた。それでも彼女は僕に嫌な顔を一つもしなかったのだ。それがどうにも嬉しかったのを覚えている。あっという間に受験期になって、僕は勉強に追われる友人たちを横目に美大に行くことを決めた。結果として第一志望には、受からなかった訳だが。
ㅤ当時の僕は、人生はなんだかんだ自分に都合のいいように進んでいくものだと思っている節があった。なんと愚かなのだろう。あの頃の自分に会えるなら、頬を張り倒してやりたいくらいだ。
ㅤ有り体な言葉を使えば、彼女は太陽のような人だった。彼女の暖かさに触れていると、硬く閉ざしてしまった僕の心が解けていくような気になった。実際、僕は随分彼女に絆されていた。彼女は僕を受け入れてくれた。彼女自身はそれなりの大学に進学して、たまたま通学先が近所だったのもあって頻繁に会った。自分のことを無条件に受け入れてくれているような気がして、僕は彼女の中で溺れた。神の無償の愛にも似た幸福を享受していれば、芳しくない美大での成績もどうにかなると思っていた。つまるところ、僕は彼女に依存していたのだ。そうして成績が中の下を維持したまま、僕は美大を卒業した。
ㅤそこからの人生は単純だった。自信だけは有り余って、下手くそな絵を描くだけの男に仕事なんて回ってくるはずもなかった。最初こそ幾つか依頼はあったが、それもある時パタリと止んだ。安いボロ屋を借りて、バイトを掛け持ちしてダラダラと延命措置を繰り返した。死期を後ろに伸ばすので精一杯だった。安定した生活を送る彼女に、迷惑をかける訳にもいかなかった。
ㅤ人生の過ちを彼女の所為にするのは理性と感情の両方が拒んだ。彼女の一言がなければ僕はこの道を歩んでいないかもしれない。それでも、彼女を責めたてる感覚の一切は湧かなかった。湧かせてはいけない気がしていた。
ㅤそうやって人生を浪費して、今に至る。夜逃げをする為のお金を工面するのも大変だった。いつまで生きられるかも分からない中で世界を見つめる逃避行の旅。その方が、人生にとってよっぽど有益に思えた。
ㅤ惰性で続く人生は美しくない。人生は何かを求める欲求によって紡がれて然るべきだ。
ㅤだから、君の在り方は間違っている。
ㅤ私は君を愛している。私の君に対する行動の全ては、結局はそこに起因する。君への無償の愛情。これ以外に、私は君を考えない。
ㅤ一目惚れだった。君の、絵に向かう純粋な瞳が好きだった。絵が本当に好きな君が私には途轍もなく美しく見えた。私は、どうやら美しいものが好きなようだった。
ㅤ私にとって君の描く絵の全てが美しかった。君は「有り触れた構図の模造品みたいなものだ」と言ったけれど、私は唯一の魅力を感じていた。有り触れた構図だからこそ、才能の差は顕著に現れる。君は才能を持っていると確信していた。
ㅤだけど、世間は君の絵を認めなかった。君は絵で生活出来なかった。私に縋ってくれれば良かったのに、君はそれを良しとしなかった。結果、君の生活は最底辺を横ばいに進んだ。絵を描く余裕もなく、ただただ生活の為にバイトを続ける。私からの援助を何一つ受け入れず、けれど私からの愛だけは確かに受け取ってくれる。そんな君が愛おしくて、それでいて苦しかった。水面に顔を押し付けられて呼吸を許されないような、そんな苦しさが四六時中私を縛り付けた。絵を描かない君に、人生に華々しさを欠いてしまった君に、私は失望してしまったのかもしれない。
ㅤ私は決めた。
ㅤ君がいずれ現実を見つめられないようなことになれば、君がいずれ───人生から逃げ出してしまう時が来たら、私が君から人生を奪ってしまおう。そうすれば、君の美しさは不完全ながらに保存される。君という美しい作品がこの世には残る。私の望んだ「美」そのものが私の手に入る。
「逃げよう」
ㅤ君がそう言ってくれた時、私は嬉しくて堪らなかった。ようやく来た。君が私のものになる時が。そうとも。君がそれを望んでくれたのだ。私の一方的なこの愛は、遂に報われる時が来たのだ。
ㅤ私は喜んで応じる。君を、君の人生を終わらせるために。君が美しさの糧になるために。
「いいよ。行こう」
あの女 お餅 @omochiyadehonmayade
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