あの女
お餅
上
ㅤ”俺”は知った。あの女は人を殺したのだ。そうして、殺した
ㅤだってそうじゃないか。人を殺す程でもなければ、あの女の美しさは説明がつかないのである。桜の美しさと埋まった屍体とが釣り合っているように、あの女の美しさもまた殺された屍体とで釣り合っているのだ。女は今、ぼうとしたまま月を見ている。光のない
ㅤ女は夜が好きらしい。雨も好きらしい。見目の麗しさに反して、その美しさを晒しがたい場に居座るのを好んだ。俺はそれが妙で仕方がなかった。女は己の容姿に拘る姿勢を見せなかった。他の女が鏡に己を映して前の髪をミリ単位で調整していても、女は変わらず窓の外を見ていた。よっぽどその方が人らしくなかった。
ㅤ女は笑わなかった。長い
ㅤ一般に、女性は海のようである。月に機嫌を左右されて、大抵おおらかな性格が一変する。これも、著名な誰かが書いていたことだ。女もまたそうであった。ある時は月を物憂げに見つめ、ある時は虫の居所を悪くして、何かを睨んでいた。白状しよう。俺はその様に
ㅤ俺はある時、女の美貌の正体を暴きたくなった。夜を見るその眼が何を望んでいるのか、噤んだままの口は何を語ることが出来るのか。その
ㅤ女は普段、決まって朝には近くの公園を訪れた。特段広いということも無く、住宅街の閑散の中で錆びたブランコの金切り声を聞くだけの、常人が来るような場所とは程遠い公園だった。だがあの日は確かに違った。子連れの親が二人、子を走らせて談笑していたのだ。だが、他に人影はなかった。違ったのはそれだけだ。子供が球遊びをしていた。打ち損じた球が転がって、女の座るベンチの側へと落ち着く。女はそれを拾い上げて、子供に返してやった。俺はその時、初めて女の声を聞いた。
ㅤ女は春を好んでいるようだった。俺にはそれがどうも女らしくないと思えてならなかった。女は街の外にあるにある桜並木の川沿いを目指した。それから幾らか歩いて、道を川の向うへ渡す橋の真ん中へ着くと、女は
ㅤ俺はそれが不気味で堪らなかった。美しいはずの女の微笑みは、美という枠の中に収まろうとしなかった。畏怖だとか、戦慄だとか、一般に神仏に向けるような感情を覚えてさえいたのである。女はなおも微笑んでいた。そうして、木の下にしゃがみこんで、大地に散らばった花びらの小山から少々を掬ってみせた。今にもそれを呑み込んでしまうように見えた。
ㅤそれから、女は徐に木の近くを掘り出したのだ。掘る為の道具を持っている訳でもなく、ただその両手で以て、薄紅に覆われた地面を掘り進めるのである。薄紅の中から土が現れてなお深く、深く掘り進める爪には土が詰まり、硬い土に当たっても痛い顔一つもせずに、ただ恍惚と掘り続けている。一分ほど続けた所で、硬いものに爪の先が触れた。乾いた音がした。
ㅤぞっとする様な寒気がした。この瞬間に於いてだけ、世界は
ㅤ女は、誰のとも分からない
ㅤ俺は知った。あの女は人を殺したのだ。そうして、殺した屍体を桜の樹の下に埋めたのだ。女ほどの美貌を持ち、人生の幸福を約束されてなお、女は人を殺したのだ。誰かを殺して享楽に陥ったのだ。
ㅤ恐ろしくなって、俺はその場を離れようとした。しかし、女が声を発したことで俺の動きは止まった。女が、俺に気付いたからである。女は胸の内に隠していた恋慕をひけらかすように、愛おしげに頭蓋を抱えていた。そうして、俺に見せつけるように向き直った。女に俺を殺す気はないようだった。俺は一先ずは安堵していた。それでもこの状況があまりにも奇妙なことに変わりはなかった。女の気がいつ変わるかさえ分からなかった。俺は逃げ出した。どこに宛がある訳でもなく、ただただ走り逃げ出したのだ。川を埋め尽くす桜の鮮血が、三途の川を渡るように錯覚させた。橋の向こうを超えれば現世には戻れないのだろうという変な気を起こした。
ㅤその日の夜はなかなか訪れなかった。時計を持っていた訳でもなし、体感では先刻から八時間は経っていた。闇に飲まれた街は喧騒を失って、孤独を際立たせた。何かも分からない虫が鳴いていた。鼓膜を潤すそれだけが俺に休息を与えた。女は俺を追うことをしなかった。ただ笑って、俺が逃げ
ㅤ俺は何かおかしかったに違いない。そうでなければ、俺があの公園に向かったはずがない。そうでなければ、俺がまたあの女に会おうなどと思ったはずがない。そうだ。俺は疾うに狂ってしまっていたんだろう。だからこの異常を受け止めている。何事もそういうものなのだと、大波を前にした海藻のように、為すすべもなく流されている。
ㅤ女はやはりいた。俺の姿を認め、夜闇に口角を上げていた。先刻恐ろしかったその顔に、美貌以外の何物も伺えなかった。つまりは、これが女の平生なのである。俺はまた安堵を覚えた。しかし、平生と違うのは相変わらず骨を抱えていることだけだ。
ㅤ違う。俺は何故、女の笑みに違和感がないのか。女は平生表情を変える人間ではなかった。俺が見慣れているのは、無感動の瞳と、大人しく噤まれた口。無表情を他人に見せつけるようなあの顔。平生とは明らかに違うはずの女の顔に、俺は何故か懐かしささえ感じている。不気味が俺の腹の奥に堆く積もっているようだった。
ㅤ女が何かを囁いた。俺は女と近い距離には立っていなかったから、何を言ったかは聞き取れなかった。ただ、敵意はなかった。俺はまた逃げようかと思って、止めた。魔性の女に絡め取られる前に、俺自身が女を断ち切ろうと思ったからである。
ㅤ俺は女に近付いた。女は笑ってこちらを見たままである。俺は近くに桜の散っているのを認めた。このちっぽけな公園でも春は終わりを告げつつある。樹の根の周りを染める薄紅がやはり血溜まりのように見えた。俺は、女が座るベンチに腰を下ろした。
ㅤ女は俺より後ろに何か透明なものを見ている。
ㅤ俺は理解した。女には眼が見えていない。初めからだ。初めから、女には何も見えてさえいなかったのだ。それでも俺を捉えて離さないその双眸は、確かに光を失っている。俺はますます気味が悪くなって、懐に仕舞われていた小さなナイフを取り出した。
ㅤ女は俺より後ろに何か透明なものを見ている。女は初めから俺を見ていない。俺の背後にある、俺の形をした何かを見ている。女は何故何も見えないのに歩けるのか。何故杖も持たずに生きているのか。分からない。無理解は恐怖を込み上げるだけだった。
ㅤ女は笑っていた。微笑んでいた。俺が殺しに来るのを待っていたと言わんばかりの表情で、得心して腹を据えている。俺は女の腹の辺りをナイフで一思いに突き刺した。肉を貫く確かな感触があった。
女は幸せそうに、それでいて虚しそうに血を吐いた。髑髏に薄紅色の染みが付く。力をなくした両腕からこぼれ落ちる。乾いた音を立てて、骨は地面に転がった。血が池となって広がっていく。女は空虚を優しく抱いて、ベンチに横たわって眠りについた。
ㅤ俺は屍体を見ていた。ナイフの刺さった腹部が赤く滲んでいた。足元には散らばった桜が血を受けて赤を鮮やかにしていた。
ㅤ髑髏を拾い上げた。女の着ていた服から携帯が落ちた。見ると、何故かそれは俺の携帯だった。盗られていたのだろうか。しかし、何故俺なのだろうか。
ㅤ月光が雲間から姿を現した。白い光が公園を照らしていた。光を受ける髑髏の裏を覗くと、頭頂部の辺りに何やら文字が書いてあるのが見えた。
ㅤ骨には俺の名前と一年以上前の日付が刻まれていた。
ㅤ夜は更けていく。風が錆び切ったブランコを揺らしている。そこには、自らの腹をナイフで刺した屍体が眠るだけである。髑髏が地に落ちる。転がって、転がって、血染めの桜に埋もれていく。
ㅤ春が終わる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます