「好きなモノ:ヤンデレ」についての論考

綾波 宗水

ヤンデレについての最終講義

 この頃、私はめっきりヤンデレコンテンツを創作することも減り、それに伴って消費する機会も減少していった。それ故に、かつてのような当事者的意識がやや薄れた考察となることをまずは述べておく。だが、それによって、幾分か客観性を保持できたものと自負している。


 さて、ヤンデレという存在が、極めてキャラ(属性)的発展を遂げたことは、ここカクヨムと『note』での先行考察において先述済みである。多くの消費者は、ヤンデレの攻撃性や信頼関係を築く方法の微妙なる差異を楽しむのであって、キャラクター(性格・人格)的であるかどうかはただちに要求されなくなったと感じている。


 その第一の理由は黎明期からあった「ヤンデレ的台詞」に加えて、ハイライトが消え、見開かれた眼という「ヤンデレ顔」の一般化である。

 日本の漫画・アニメーション表現の特徴として、眼の大きさと器官としての重要性が挙げられる。目は口程に物を言うをまさしく体現している訳だが、ヤンデレ像はまさしく一目でヤンデレであると認識できるようになっていったのである。

 それをして、私はキャラ(属性)的発展であると考えた。ここでキャラクター(性格・人格)的発展があまり進まなかった原因として、文章(ライトノベル・小説等)に対してイラストの優越が起こったものと推測する。漫画がいわゆる大手商業誌によるものから、かつてはサブカル的とされたマイナーなものも各種SNSによって流通し、加えてインターネットで活躍していた「絵師(イラストレーター)」が、Twitterなどイラスト投稿の専門ではないサイトサービスにも気軽に投稿するようになったことが、ヤンデレという存在を飛躍的に知らしめるきっかけではないかと考えらえる。

 また、ほぼ同時期に「メンヘラ」という語の一般化と、「地雷系」というワードの台頭が類似的イメージとして「ヤンデレ」を引き上げた。「地雷系」は今日では人物を指すのみならず、ファッションスタイルにも多く使用され、「ファッションメンヘラ」がやや揶揄的なニュアンスを含んでいるのに対して、「地雷系ファッション」は、着用している本人が精神疾患的な人物、もしくはそれに近い精神的問題を抱えている(≒「地雷」)必要はない。狭義のコスプレは、アニメ等のキャラクターを記号的に模した服装であるわけだが、ロリータやゴスロリのように、少女趣味的見た目(過度なフリルやリボン等)と、「それを着ている私」という内面を表現する手法であり、「地雷」と「地雷系」の区分けが暗になされているのも、そういった広義のコスプレ的意味合いが内包されているからだ。

 もし何らかの運動を目的として着ているとして、一体幾人のゴスロリ着用者が、ゴシックならびにゴート族についての研究を行っているだろうか。こんな指摘はうんちくのある者のニヒリスティックでしかない。彼ら彼女らはファッションなのだから。


 このように、メンタル的な問題を抱える人物を、分析的というよりもイメージ的消費を繰り返してきたことで、メンヘラや地雷は往々にして忌避されるものの、地雷系やヤンデレには比較的好意的であることが少なくない。

 これは、具体性と理想性に違いに基づくと私は考える。今日、メンヘラや地雷は他者からの評価であるのみならず、自認するものでもある。またリストカットやオーバードーズ等の自傷行為であるなど、具体的な行動も確認できるケースがある。

 加えて、これらの人物は精神医学的な症候も有している可能性が高く、そういった状態を羨望することは少なくとも日本における道徳的観点から考えて容易ではなく、不謹慎であるとされる。それ故に「ファッションメンヘラ」には批判的な評価が下されるのである。


 一方で、地雷系はファッションとして昇華し、ヤンデレはもとより作品・コンテンツであったことから、非現実的存在であるといえる。両者は視覚的な享受がなされており記号化されていることが分かる。

 現在の私たちはそれらを簡単に模倣することが可能であるのみならず、その属性を実際の人間関係にも引用することができるようになったのである。例えば、地雷系ファッションを身にまとえば、その人は事実「地雷」であるかは問わず、そのキャラを得るに至り、その服装に見合った(と共有されている)言動を振る舞うことができるのである。

 当然のように聞こえるが、服装ひとつで、地雷系に付与されたイメージ、例えばわがままや自由勝手に振る舞っても、ある程度の水準までは容認されるようになるのである。その点において、地雷系ファッションは極めて機能的であると言えるだろう。イラストイメージでも、お酒はいわば換喩的に近いものであり、地雷系はある種、堂々と酔い、そして他者に絡む権利さえも得るのである。

 ではヤンデレはどうなのか。

 かつて私はヤンデレコンテンツを享受することの意義として、他者評価からの離脱、文化資本的価値観からの脱退を挙げた。だがそれはキャラクター(性格・人格)的な視点も多分に含まれており、昨今のように、キャラ(属性)としての消費がメインとなった場合、若干ながら様子が異なると思われる。

 それが「好きなモノ:ヤンデレ」という一文に繋がるのである。

 Twitterをはじめ、各種SNSでは上記のような文言を、自己紹介として載せている人は少なくない。だが、これは先述した内容と反しており、むしろ他者評価を要求していることは明白だろう。

 そうなると、ヤンデレが好きと述べることの対人関係上の利得が何であるかを、今一度考える必要がでてくるのである。繰り返しになるが、ヤンデレは再び、文化資本となったのだから。

 ここで一つ述べておきたいのは、漫画等のコンテンツの情勢の一つの特徴「シリアス過多≒リアル」という図式だ。およそ今日の読者は少なからず、ともすれば残酷なまでのシリアス展開や描写に現実味を感じている。戦前、国文学においてそういった現象ならびに主義思想は、「悲惨小説」や暴露的私小説となっていった「自然主義文学」などで形成されていった。リアリティを負の側面の強調によって体感させるという手法や考え方が、類似しているように少なくとも私は感じている。

 だが、異なっているのは、やはり性格ではなく、ヤンデレがキャラ化したことだろう。これにより、私はヤンデレ小説が、異世界転生小説のような文芸ジャンル足り得なかったのではないかと考えている。

 いずれもフォーマットは比較的、読者に明瞭であるが、優れた(評価を受ける)異世界転生小説は、前世(人間社会)での不遇さや不甲斐なさへの反省をカルチャーショックによってすすめるという「教養小説ビルディングスロマン」の如き構造と関心がある。

 ヤンデレはラブコメではしばらくサブキャラ、つまりマイナーな属性であり、今でもさほど変化はない。しかし認知度の向上により、メインキャラとして描かれることが多くなる一方で、それを主体とするに辺り、視覚的イメージばかりが先行し、その内実が曖昧なままであったことが、メンヘラとの差異の有無という議論を生みだし、やがてメンヘラの自傷行為に対して、それまでに存在した「男を誘惑し苦しめる女(≒他傷行為)」という、類似的ニュアンスを持つ「魔性の女(ファム・ファタール)」との混同を招いたのである。『School Days』がよくヤンデレの元祖として挙げられるのもその一例であろう。


「ヤンデレ」

 →メンヘラとの接近と離反を繰り返す(病み)

 →ファム・ファタール的キャラとの混同(暴力性)

 →地雷系の台頭⇒文脈から視覚的イメージへ(属性化)


 なお、ファム・ファタールはその前史として「魔女」文化とも近く、そういった視点を取り入れると、ヤンデレもまた理解しやすくなるのではないだろうか。つまり、魔女裁判などでも知られる異端者の代名詞としての魔女。それがファンタジーとしての魔法使いへと変容し、やがて魔女はファッション化した。これを促したのが絵画や映画であることは言うまでもない。海外のみならず、日本でのハロウィンコスプレにおいて、デフォルメされた、すなわちキャラ化された。

 上記のように、人の病みについてがその名の通り重視されていた当初は、あくまでもキャラクター(性格)的であることが多く、多少なりとも動機や因果性が作品内にあったのが、暴力性によってヤンデレという枠組みをしたことで、メンヘラのような精神的な不安等に関する病みではなく、病的な狂気的なニュアンスとしての「病み」がスポットライトを浴びることとなり、ファム・ファタールを私は挙げたが、むしろ「サイコパス」としての側面を強めたのがこの頃なのである。

 本人にしか通用しない意味付けによって、理不尽にも監禁されるといったようなストーリーが形作られたのだ。悲しいかな、それを助長するイメージとして、現実社会での「ストーカー」事件が影響を及ぼしたとも考えられる。

 やがて「(デート)DV」が浸透するにあたり、暴力性のあるヤンデレキャラが社会的に受け入れにくくなり、ファッション化した地雷と同様に、視覚的なイメージとして保持されるようになったのである。それを機にヤンデレは、ASMRなどを土俵に「セリフ化」していった。掘り下げていく小説ではなく、表面的な台本・シナリオとして移り変わり、不愉快さを感じさせずに、不気味と恋愛感情とを混濁された表現が追求されるようになったということだ。

 そして音声コンテンツとなったそれらは、静止画としてのヤンデレを要請し、言動の属性化が達成されたと私は考える。

 更に言及するならば、地雷系は飲酒による泥酔を許容する効果があると述べたが、これは、メンヘラ・地雷の薬物過剰摂取オーバードーズのメタファー。そして、ヤンデレキャラが包丁などの刃物を持ち、時として(ハイライトの消えた眼をしつつも)笑顔であり、服装や顔に返り血を浴びている、という基本的ないで立ちは、同じくメンヘラたちの自傷行為のメタファーなのだ。

 そもそも、愛する者(一般的には主人公)もしくはその友人を殺すという行為は、現象ならびに法的に他傷行為であるが、愛する者から得られた(かもしれない)純粋な好意を損なうという常識的な仮定を検討した場合、ヤンデレは損をしており、その意味で自傷行為とも呼べるのではないか。愛する者の恋愛評価のみならず社会的・心理的安定を損なう。それすらも厭わないという歪んだ価値によって、ヤンデレは笑みを浮かべる。それはまさにリストカットと同じ心理現象である。


 まとめると、地雷系ファッションは言動の自由性を保障するアイテムとして有効である。そしてヤンデレは、思想上の自由性を保障する価値観として有効である。

 前者は同様のファッションを着ている者同士のコミュニティを形成することが可能であるのみならず、異性との交流も、地雷系という属性の持つある種の奔放さを利用して、コミュニケーションのフォーマットを得る。

 ヤンデレの暴力性をただちに体現するのはハードルが高いようだが、恋愛に対する「重さ」の保険・肯定として、愛する者と出会う以前から「好きなモノ:ヤンデレ」と表明しておくことは極めて有用であろう。


 ここで再度、属性的だと考える理由は、先天性と後天性の違いなのだ。「サイコパス」的な意味合いを過去に含んだヤンデレ。それによって、愛する者と出会う以前から、ヤンデレ足り得るという不文律が醸成されているように私は感じる。

 勿論、そのような節は元々持っているだろうことは想像に難くないが、愛する者と出会ったが故に、病んでいったという後天的な文脈が失われているのは、まさにサブキャラとしてのヤンデレがそうであったように、属性でしかないのだ。

 お笑い芸人が「ボケとツッコミ」やその他様々なキャラを模索し、視聴者もそれを知った上で鑑賞する現代と同じように、人々は時に「ヤンデレ」キャラを、もしくは「ヤンデレ」好きを選択するようになったのだ。

 いわゆる「不思議キャラ」を選ぶよりもずっと自然体でいられる上に、専制的な決断を恋愛の場で下す免罪符さえ得た、といったところか。これは何も特異なことではなく、かつて蔑称であった「おたく」を「オタク」として普及した結果、マイナスと思われてきた側面さえも何のはばかりなく公言するに至ったのだから。


 私は先ほど「保険」という語を用いたが、これらのキャラに与することはまさしく本音を妨げる詭弁・建前をある程度退ける立派なリソースであるのだ。多様化が掲げられて久しい今日、あくまでも大衆世間の中にあって、それでいて本音を述べることが重要とされている。十人十色というが、言ってしまうと現代は何とか色相環を工夫して、その色を作り出そうという社会である。

 この頃注目されている「メタバース」で期待されているのは、そのアクセス性や経済性という実社会的なものだけでなく、どの媒体・空間においても、自身のアバターが保持され、通用する点である。Aというプラットホームで使用しているアバターが、Bでは使用できないようでは、メタバースとしての条件は甘く、完成とは程遠い。

 そしてここには、キャラクターとしての自分があっても、キャラが維持されていなくてはならないという考えを垣間見ることができる。すなわち、属性はファッションから身体化しつつあると推測される。


 先の「オタク」と絡めて言えば、趣味は嗜好へと移り変わったと感じている。その最たる例は「推し」だ。大量消費的なコンテンツ享受により、オタク像はゼロ年代以前以後、そして現在、急速に変化していることは明白。思えば蔑称としての「おたく」もイメージとして誕生しており、視覚的なキャラを社会は持っていた。

「推し」文化とヤンデレはさほど無関係ではなく、親和性は高いともいえる。

 推す対象と私という構図。残念ながら多くの場合、本人が望んでいるかは別として、恋愛関係へと発展することは極めて稀であるようだ。そのため「推しのため」という標語の如きフレーズもあるのだろうが、ともかく半ば自己犠牲的な幸福感を得ているのが今日の推し文化圏、ならびにオタクである。

 そして特に近いのは「同担拒否」と呼ばれるもの。これは他者が自身と同じものを「推し」ていることへの嫌悪である。未だファン層の心理として多数派ではないようだが、二次創作文化との段階的離別が想定されても無理はない。

 また興味深いのは「同担拒否」を公言するにあたって、その者がヤンデレ好きかはいざ知らず、地雷系ファッションと思われる服装を着ていること。やはりわがままさの肯定が社会通念としてなされており、ファンとしての「地雷」であることの論拠として効果があるものと推測される。

 同様に、ヤンデレを愛好していることを公言することもまた、人間関係の中で相応の働きがあるものと予想されるのだ。事実、自己紹介に選択しているのだから、それを個人の内に留めるのではなくて、むしろ伝えたいという欲求を感じ取らせる。あえて誤解を招くかもしれない例えをするならば、『徒然草』などの隠者文学に親しむのは、その思想に惹かれているだけでなく、むしろその大方は社会に迎合できないことへの肯定的な意味付けであろう(私はこの語がいささか好ましくないと感じているので本文には使用しなかったが、あえてレトリック的に述べると「陰キャ文学」か)。


 これらの現状を踏まえてみると、なるほど、ヤンデレの定義は時系列的にみてみるのも一つの手ではあるが、例の後天性云々ではないが、矛盾のようなものにぶつかってしまう。つまり、ヤンデレキャラ(キャラクター)は、自身をヤンデレであると自認しているのか否か。

 ここが愛好者とキャラクターとの大きな差であり、愛好者は白紙状態でないことから、いわば学習的に属性を取り込んでゆくこととなるのである。

 ちなみに単に好きであるという当事者の意見も聞こえてくる気がするので、参考としてフェチというものを軽く考えてみる。ヤンデレ好きはヤンデレフェチか。この問いは重大な欠陥を潜ませている。

 フェチシズムとは、生命のない対象物に対する強烈な性衝動のことであり、かつては呪物崇拝の意でもあったのだ。例えば「眼帯フェチ」などは問題ないが、ヤンデレ好きをしてただちにヤンデレフェチとは少なくとも定義の上から言って誤りがある。

 だがしかし、先ほど確認したように、「自認」性があることで、「ヤンデレ好きだから」という一言に多様な意味を含ませることができるのも、ヤンデレ好きというものが成立する要因である。

 すなわち、自己肯定の言葉という側面を多分に持ち合わせているのだ。なるほど、ヤンデレキャラは、自分が「選んだ」愛する者への言動に、極めて高い自信が求められるのだから、強烈な自我があるのは間違いない。それを享受することで、メンヘラにも通ずる、ひとつの自尊の道しるべが現れてくる、それがヤンデレ愛好の大いなる効用と呼んで差し支えないと考える。


 ここまで、私はヤンデレがキャラ(属性)化したこと、そしてヤンデレ好きと公言することの人間関係上の意義と影響について考察してきた。

 サブカルチャーについても非常に造形深い精神科医・斎藤環氏は「共感不可能な対象ほど可愛い」と主張されているが、「ヤンデレ」もまた、自由恋愛社会と多様性の極端な例として、その存在感を示していると思う。

 あくまでも恋愛という枠組みを共有してはいるが、世間一般では考えにも及ばないようなヤンデレキャラの台詞が、共感の不可能性を担っているのだ。


 なお注記しておきたいのは、いずれも現代日本、それも変わりつつある現状を切り取った上での「ヤンデレ」批評であることだ。海外での受け入れられ方は、実際のところ筆者には全くと言ってよいほど分かっていない。

 Wikipediaで「ヤンデレ」を検索すると、英語をはじめいくつかの外国語ページもあるようだが、英語Englishを選択した際には「Glossary of anime and manga」という題の中での数行にとどまっているなど、一つの特集を組まれるほどの位置を大衆・市場では得ていないのではないだろうか。

 例えばドイツ語版ではヤンデレは「ツンデレ」の反対にあるものと紹介されている。だが、少なくとも私には現代感覚として、日本のアニメ等の市場には「クーデレ」があり、その他個人的にはそういった名称は認知していなかったものの、インターネットで検索すれば「キリデレ」などというものもあるようだ。

 そして当然のことながら、しかしかえってので昨今では減少傾向にあるのかもしれないものの、「デレデレ」も存在する。

 ここでキャラが弱いという部分を強調したのは、とりもなおさず、社会が属性を求めている事、そしてヤンデレはその要請にマイナーながらも応えてきたからだ。「デレデレ」は「推し」として普及したことで、より強烈な印象を残さずして、対人関係の中で存在感を示すことは困難なのだ。


 したがって、ヤンデレとは自己表現のツールなのである。

 ヤンデレコンテンツに親しむことは、メンヘラのオマージュとして現状ならびに自我を肯定する作用があり、また、ヤンデレコンテンツを創作することは、より直球に言動として想いを表現する構造性があるのだ。そのため、ある意味、ヤンデレが病的であるのはその手段であって、思惑とは言い難い点に、消費者に不快感を与えず拒絶されないサブカル的な魅力があるのだ。

 それを推し進めた要因は、ヤンデレが美少女を指すにとどまらず、同性愛作品でも登場することが増え、「純愛」という要素が注目されるようになったからであり、オタク文化が「推しへ貢ぐ」という形態へ大規模的に移行しつつあるのに合わせて、ヤンデレキャラならびに対象者の社会的・時間的・肉体的・精神的リソースを捧げるという、現象としては結婚に類似した純愛性を、病的なまでに高めたのがヤンデレ作品。

「好きなモノ:ヤンデレ」と公言・明記することで、発言者はそういった文化資本を有するに至るのであり、他者との実存をかけた闘争において、マイナーであることが、ただワガママな人とは一線を画す存在として維持させてくれるのである。いまやヤンデレキャラは「二人だけの世界」よりもずっと身近な社会的存在であると言ってもいいのではないだろうか。



 最後に、私は拙論を総決算や最終講義などと題してきたものの、ヤンデレという語が今後も変容していくことを触れておく必要があると思う。

 ここでの定義は、過去としばらく先までは通用するものと自負しているが、それはほぼ同程度の受容がなされている、あるいは廃れていった場合である。

 だが、もし仮に、ヤンデレコンテンツが一大ジャンルへと上りつめたとすると、より曖昧なものとなる。これが大衆化だ。

 かつて私は、信頼表現の仕方として、評価経済上、ヤンデレというものを参考にしても良いのではないかと主張した。だが、ジャンルの拡大は、「ヤンデレと主人公の二人だけの世界」への描写を異なるものへと変えていく可能性があるのも事実。そのとき、再びキャラクター(性格・人格)化されなければならいないのは確か。すると、過度にイラストイメージを固定化されることは、ジャンルの発展を妨げるのではないかと感じてしまうのだ。

 つまり、現在のヤンデレ美術は「イコン」の段階にあり、ヤンデレコンテンツという殿堂に描かれた形式的な絵画である。

 ルネサンス期にあたるのは、キャラから再びキャラクター化が推進されることであり、そして様々な主義が登場する。暴力的なものや、過度に甘やかすものまで、多種多様。血みどろ劇が必ずしも描かれることはない一方で、サイコミステリー的な作品もある。ASMRや台詞の上では既に達成されているからこそ、その先に待ち受けるであろう、キュビスムやシュルレアリスム、現代美術のような、およそ古典的クラシックではないヤンデレコンテンツの到来も、より作品性の向上と、そして個々人における自己表現の幅を生みだすと私は信じているのである。


 そしてその分岐点は、消費者にとってのコミュニケーションについての比重だろう。

 コミュニケーション能力がまさに必須にして至上の価値として君臨する昨今、考察してきたように、キャラとして享受することに利益があるのだから。「考えるな、感じろ」の社会では、まさに強烈な自己意識の現れは学ぶところがあるはずだ。ヤンデレに「どうせ私なんて」という自己否定はほとんどの場合無いのだから。

 だが、「感じるな、考えろ」と言い換えた場合、集団内で固定された私たちのキャラは、たちまち歯車が狂いだす。

 その時、ヤンデレ作品には「教養小説」の如き力が残っているのか。いくつかヤンデレものを書いてきた私は、この評論の結論を経た上で、いささか注意しておかねばならないと感じている。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

「好きなモノ:ヤンデレ」についての論考 綾波 宗水 @Ayanami4869

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ