稚魚推し

eLe(エル)

第1話

 私は十歳にして百回ほど地獄に落ちている。


「またアンタは!!!!!」


 それが口癖の母親だった。金切り声とセットでビンタが飛んでくる。


「ごめんなさい」


 対してこれが、私の口癖だった。


御本尊ごほんぞん様の前で立ったまま食べ物を食べたら罰が当たるって何遍言ったら分かんの。アンタ、地獄に落ちるよ本当」


 そうして百一回目の地獄に落ちた私は、いそいそと床に飛び散ったアイスクリームを片付けた。


 家にある謎のタンスは、御本尊という神様だった。けれど私にとってそれは言い伝えられてきた神様であって、天誅てんちゅうを下すのはいつも母親だったから、母親が神様みたいなものだった。


 父親はそれを黙ってやり過ごしていたが、父親は父親で信仰が根深かったから、見えないところで母親に圧力をかけていたのかもしれない。


 成人するまで私は延べ千回以上の地獄経験者だったが、成人してからは一転して晴れやかな人生だった。


 *


 初めて付き合ったのは高校生の時だったが、その頃は形式的な付き合いだけ。彼氏としては三人目の彼とは職場で知り合い、告白されて今に至る。


 過去のことは、正直言えなかった。それに、実家にはまだ両親がいる。昔よりはずっと丸くなって、今はとても優しい両親だった。


 彼と何回目かのデートで、流石に気持ち悪くなって声を上げた。


「あ、あのさ! 研二けんじくん」


「え、どうしたの、由夢ゆむ


「その、ずっと思ってたんだけどね? 食事の前に手を合わせるでしょ?」


「う、うん」


「曲がってるの」


「え?」


「真っ直ぐにしなきゃ意味ないから。それ、すっごく怖くって……ごめんね、二回くらいならばれないかもって思ったけど、あんまり続くと見られてるかもしれないから」


 彼はそれを聞いて、とりあえず分かった、これでいい?と聞いてくれた。私はなんとかそのくらいの角度なら許されるかなと思って、承諾した。


 けれどその後も、彼の角度は治らなかった。その度に私が怯えているのが分かって、彼はとうとう痺れを切らした。


「何が気になってるのさ」


「だって、頂きますってしてるんでしょ? なら、ちゃんとしなきゃ」


「ちゃんとって、何に対して?」


「研二くんは何に対して頂きますってしてるの?」


「そんなの、食べ物の命に対して、とかじゃないの」


「違うよ!! 全然違う!!! 嘘、そんな風に考えて今まで祈ってたの?」


 私は血の気が引いた。この人は何も知らなかったんだ。常識を教えてもらってない? もしくは、誤魔化して生きてきてる人?


 その答えが出る前に、彼は不満そうな顔をした。開き直ったみたいに、逆ギレしてきて。


「なんだよそれ、じゃあ何が正解なんだよ」


「神様に決まってるじゃない。誰の許しを得て、こんなことが出来てると思ってるの?」


「……なんだよ、由夢。お前、何かの宗教でもやってんのか?」


「なんでそういうこというの……やってないよ。私はただ、常識を伝えただけで……」


「じゃあいいよ、俺には常識がない。別れよ」


 そう言って彼は、離れていった。最初はショックで辛かったけれど、あんなにも当たり前のことができない人だから、今更一緒にいても仕方ないと思った。


 *


 二十二歳の時、彼に誘われて同棲することにした。二十歳の時に付き合って以来、案外そういうことが出来ない男性が多いと耳にしてから、私から丁寧に教えればいいのだと分かって、実践してきた。


 やはり逆上してしまう人がいたが、今の彼は全て聞き入れてくれて、常識もある。ようやく理想的な人に出会えたと思って、彼の家を訪れた。


 けれど、寝室を見て私は愕然がくぜんとした。


「……ねぇ祐馬ゆうまくん、この部屋の方向ってどっち?」


「ん? 確か北向きだった気がするけど。あ、もしかして北枕が気になる?」


「気になる、っていうか……もしかして、今までずっとこのまま寝てたの?」


「まあ、そうだけど。確かに気持ちはあれだけど、実際何もないし良いかなって」


「良くないよ……それって、いつ地獄に落ちても良いって言ってるんだよ? 私も一緒に地獄に落ちろって言いたいの?」


「え、ちょ、由夢ちゃん?」


「変えて。今すぐ。じゃなきゃ私、寝られない」


 南側に足を向けて寝るなんてこと、絶対に許されない。外で寝ていて気づかないならまだしも、自宅からしてそんなことになるなんて。本当に、男性はこういうところに無頓着むとんちゃくなんだと呆れてしまう。


 その後彼との生活でも、度々ストレスが掛かっていた。けれど彼はなんとか対応してくれようとしていたが、それも限界だった。


 初詣に行こうと言われ、正直分からなかったが、初詣という名前だけは聞いたことがあったので彼についていくことにした。車で近くの神社に着くと、そこは聞いたことのない場所。彼が言うには、一年がより良いものになるために祈るんだとか。


 それなら私も、経験がある。毎年決められた場所で繰り返しやってきたことだ。また彼に教えることができる。


 あぁ、私が知らない本尊ほんぞんだ。どう考えても、”偽物”だ。


 祐馬くん、勘違いしてるよ。こんなところで何をするつもりなんだろう。待って、そこは危ないって。だって、それは。


「ああああああ!!! 何やってるの!!!!!!」



「え?」


 間一髪だった。彼が真っ赤な門をくぐり抜けようとした。私は心臓が止まりそうだった。


 周りの人が一斉にこっちを見ていた。けれど、他の人がどうなろうと知ったことじゃない。


「はぁ、はぁ、良い加減に、良い加減にしてよ!!! もう、何も知らないんだから……」


「ちょ、ちょっと落ち着いてよ、由夢ちゃん……何がどうしたの?」


「だって、危なく門を潜ろうとしたから……死んじゃうところだったよ、祐馬くん」


「……え?」


「ほら、見て。何も知らない人がどんどん門を潜ってるでしょ。でも、この仏閣は偽物だから。本物と偽物の区別がつかない人は、神様から救ってもらえない。振るい落とされるの」


 私は正直、もう説明するのもうんざりだった。折角あんな苦しい思いをして地獄から解放されて、これから幸せになっていくって言うのに、何も知らない人たちのせいで巻き込まれるなんて。


 けれどやっぱり彼は納得していない様子で、ゆっくりと問いかけてきた。


「……由夢ちゃん、ってさ。何か宗教やってたりする?」


 瞬間、私は思い切り彼の頬を引っ叩いた。


「最低。もう無理……別れて」


「……こっちから願い下げだよ、こんなスピリチュアル女」


 去り際に彼が何か言っていたが、もう沢山だった。何も分かっていない。彼もどうせ、このまま反省せずに悪行に手を染めて、地獄に落ちたまま救われないのだろう。けれどそれも、彼の自業自得だ。


 *


 二十六歳になった私は、仕事を辞めていた。


 何故か職場で、陰口を言われるようになった。それとなく理由を調べると、以前の交友関係から逆恨みをされていることが分かった。


 私が数珠じゅず勤行要典ごんぎょうようてんを持ち歩いていることを指摘したり、日々の発言を持ち上げて宗教者呼ばわりしていたのだ。


 あぁ、なるほど。この会社ごと穢れているのだ。私としても見る目がなかった。何もかも都合の悪いことは宗教か、悪い集団に騙されているのだと思い込みたいのでしょう。企業としてそう盲信しているのは、滑稽極まりなかった。


 だが、特別なスキルを持ち合わせていない私にとって、再就職は難しかった。適当なアルバイトを転々としながらも、やはり私自身への偏見はつきまとっていた。


 だんだんと周りが敵だらけに見えて、疑心暗鬼が深くなると、私は憔悴し始めていた。そんな時だった。


「そこのお姉さん」


「……え、私ですか?」


「そうそう、ちょっとだけお話いいですか?」


「……ごめんなさい、急いでますんで」


「最近、宗教者だとかなんとかって、嫌がらせ受けてませんか?」


「……」


 それは若いスーツの男性で、感じのいい人だった。胡散臭さもあったが、その言葉に引っかかって、仕方なくついていくことにした。


 近場の喫茶店で、改めて彼は名刺をくれた。


「改めて私、NPO法人非神仏人改定補強団体ひしんぶつじんかいていほきょうだんたいの代表を務めております、天志島てしじまと申します」


「私は、柚木由夢ゆずきゆむです。あの、私の情報はどこから」


「それは追ってお話しします。ただ、柚木さん。お察しの通り、今こういう情報が私みたいな者の所にも当たり前のように流れてしまっているんですよ。これはあまりよろしくありませんよね。おそらく、お困りだと思います」


「……まあ」


「私どもの団体は、見るからに怪しいのは否定しませんが、要は”宗教者”と難癖をつけられている人たちの名誉を取り戻す活動をしています」


「は、はぁ」


 彼は相変わらず爽やかな笑みを浮かべながら話を続けていた。


「たまに、こいつは異常者だ、とか。障がい者だ、宗教でもやってるんだ、なんて暴言がありますよね。でもこれって、都合の悪い人がレッテルを着せて、迫害したいだけだと思いませんか」


「まあ、そうですね」


「もちろんその主張に筋が通っている場合もあります。何もしていないのに殴りかかってきたら、それは異常です。けれど、柚木さんはそんなことしていませんよね?」


 私は食い気味に首を振った。


「えぇ、もちろん」


「そして、宗教者という言葉は元々、ネガティブな言葉じゃありません。けれど、今やそれが異常なものとして認識されている。これってどうしてだと思いますか?」


「……さぁ、わかりません」


 彼の言葉は真に迫るものがあった。そして彼は続けて言う。


「正しく神仏を理解している人が、少ないからですよ」


「……正しく、理解」


「えぇ。教育の中でも神仏というのは本来、この国の根底にあるものですから、正しく教える必要がある。けれど、今や新興宗教が台頭してきたおかげで、”カルト”という言葉が注目を浴びてしまいました。要は、宗教イコールヤバイ人たちだという認識が、漠然とこの世界にはあります」


「それは、どうしてなのでしょう」


 彼は少し考えてから、手振りも合わせて説明してくれた。


「それこそ、正しく理解しようとしないからでしょうね。今の宗教はビジネスです。お金が入るから、宗教に入ってくれ。そのために新しい宗教の教祖という名前の経営者が、いろんなことをしています。今風の若者にわかりやすく、メリットがあるように見せかけてね。すると、昔からある宗教や、元々の風習としての文化は廃れていきます。古臭い、胡散臭い、気持ち悪いと、風評被害を流されてね」


「なるほど……」


「ですから、柚木さんのように正しく学ばれた方の方が、少ないんです。人間、理解できないもの、コントロールできないものは、淘汰しようとします。私たちはそれを無くし、できる限り元ある神仏への理解をこの国に取り戻していきたいと考えているんです。そうでないと、普通の日常までおかしくなってしまいますから」


「……なんとなく、理解できました」


「よかったです」


 彼の言っている言葉で、胸に支えていたものが落ちた。そうか、そういうことだったのか。だから彼らはずっと、私の言葉を疑問に感じていたんだな。


 けれど、だとしたら大勢の人たちが盲目状態にあるということ。それを解決しようとするのは、大変な労力が必要だろう。


 と、そんな思案を巡らせていると、彼は優しく微笑んで。


「聡明な柚木さんならもうお気づきかと思いますが、私たちは人手が足りていません」


「人手、ですか」


「えぇ。何しろこの背景を理解してくれている人材が必要不可欠ですから。そこでどうでしょう、私たちと共に働いて見ませんか?」


「私が、ですか?」


「はい。非営利団体とはいえ、我々はお互いに協力関係を結んだ企業と連携し、この活動を水面下で進行しています。その協力金の一部を、我々団体の職員に分配しているので、しっかりとお給料も出ます」


「……でも、本当に私なんかでお役に立てるかどうか。何もスキルもないですし……」


「いえ、あるじゃないですか。柚木さん、昔からずっと、いわゆる”お利口な子”だったと聞きました」


「……母から?」


「えぇ、大変不躾だとは思ったのですが」


「いえ、それはいいんです」


 母親に触れて欲しくなかったのは、やはり母親は異常だと思ったから。けれど、母親たちはその団体には入れないということだろうか。その選定基準も気になったが、私にできることであるのなら。


「柚木さんの経験してきた正しい考え、正しい教えを、広めていく。今までは常識だと思っていたことが、今や壊れつつあるんです。その先生役として、手伝って頂くわけにいきませんか」


「……わかりました。もし、私にできることであれば」


「ありがとうございます。では、こちらにサインを」


 思えば私は、ずっと否定されてばかりの人生だった。


 生まれてからの地獄、そして成人して解放されても尚、男運に見放され、やがて仕事にまで飛び火してしまう不運。本当に地獄の連続だった。


 けれど、それに耐えてきたからこそ、こうして良縁が巡ってきたのだ。私のしてきたことは、やはり間違いではなかったんだ。そう思うと、涙が出てきてしまって。


「大丈夫ですか」


「えぇ、大丈夫です。ごめんなさい」


「いいんです、きっとここまでご苦労されてきたのだと思います」


「……そうですね」


「でも、これからは報われます。柚木さんのお陰で救われる人がたくさんいるのですから」


「そう、ですよね。そうなるように頑張りたいです」


「では、早速今日からでもお願いしたいのですか」


「もちろん、私にできることであれば」


「えぇ、柚木さんにしか出来ないことがありますよ」


 そう言って私は、ようやく地獄から抜け出せたのだ。


 *


 *


 とあるハンバーガー屋での会話。


「ねぇ、マキ。マジ聞いて欲しいんだけど」


「何々」


「元彼、ガチの信者だったっぽい」


「うえぇえ、マジで!? ヤバない、え、シオン大丈夫だった? なんもされてない?」


「いや、勧誘とかはされたけど、普通にヤバかったから逃げてきた」


「うっわー、怖いって。あれでしょ、身長高めの写真の」


「そー、インスタにも上げたやつ。もう消すけどな」


「マジかー。結構ショック……ってか、今多くない、信者とか宗教とか」


「なんか聞くよね。別にいいんだけどね、うちらまで巻き込まないでくれって感じ」


「いやそれな。てか、うちのばあちゃんも宗教入ってたけど、無理やり母親が辞めさせたらしいよ」


「え、そうなん?」


「そそ。なんかやばいとこだと、小さい頃から洗脳されて、成人してから心弱ったところ捕まえて、一生働かされるとかって言ってたわ」


「何それ本怖じゃん。そこまで行くと漫画の世界じゃない? てかなんで一回放つん?」


「いや、ガチなんだって。なんかね、大人になってからじゃ気づけないから、一回放置するらしいよ。そんで完全に洗脳が解けなくなった奴集めて、金儲けとかしてんだって」


「うわー、怖。え、金儲けって何、人身売買? 風俗?」


「知らんけど、まあそう言う感じじゃね」


「無理無理!! そう言う話はウ○ジマくんだけでいいんだって、超怖いから。ウチも元彼に売り飛ばされるとこだったってことっしょ? もうそれ聞いてウチ宗教滅べって思った」


「滅べは無理だろ笑 ……あ、ねぇ待って!! やばいシオン!!! エグザのチケット当たってんだけど!!? 二人一組!!」


「え、やっばマジで!!? マキ最高! はー、エグザの理央に会えるなら内臓売られてもいいわ」


「いや、それは思うけど、むしろそっちの方がガチ宗教じゃね笑」


「確かにこのまま大人になっても抜け出させなさそうだしなー? でも仕方なくない? 推ししか勝たんよ」


「だな。うちらはそれで幸せだし」


「案外そういう人たちも、心の底から信じちゃってんなら、ウチらと同じで幸せだったりすんのかもね」


「まーねー、知らんけど。ってなわけでグッズ揃えにいこーぜ」


「っしゃー! エグザ教神! むしろ仏! うし、次いつ行けるか分かんないから全グッズ注ぎ込むわ。マキも道連れな?」


「いや、それは地獄かよ」


 *


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