夏の呪い

想空

夏の呪い

 それは、ジリジリと太陽が照りつける、それはそれは暑い夏の日だった。


 俺は会社からの帰り道を、真夏日だというのに徒歩で家に向かっていた。よりによってまだ太陽の昇っている時間帯に今日の仕事が片付いてしまったため、ワイシャツも髪も汗でぐしょぐしょになっていた。絶えず額から滴る汗をハンカチで拭いながら、俺は憂鬱な気分で歩みを進めていた。


 ふと、視線の先に小さな黒い物体があった。歩道の真ん中に転がるそれは、もうすぐここらに降り立って一週間ほど経つであろう、蝉だった。無様にもひっくり返ったそいつは、迫り来る死に抗おうと手足をジタバタさせて必死にもがいていた。見たところそいつはもうすぐ寿命らしかった。何故かは分からないが俺は、その哀れな姿に目が止まった。


 こいつでいいか、と思った。


 というのも、俺にはとある能力がある。先祖代々、うちの家の長男が受け継いでいる能力だ。


 ――自分以外の誰かをひとりだけ不老不死に出来る能力。


 一体全体どういう原理でそんなことが可能なのかは知らないが、とにかく俺や親父、そのまた親父にはそういう不思議な力が備わっている。


 この能力を得た全員がまず初めに思うことは、どうして"自分以外"なんだ、ということ。不老不死になりたいと思ったことはないが、自分以外なんて如何せん選択肢が多すぎるだろう。過去には優秀な政治家や占い師にその力を使ったり、絶滅危惧種を存続させることに使った動物好きがいたりという噂を聞いたことがある。どれもこれも、あくまで噂だが。


 そして俺は今、そんな一度しか使えない大事な大事な能力を、そこの虫けらに使おうとしている。全く、暑さで頭までやられてしまったのだろうか。そう思いながら俺は蝉の前にしゃがみこんでしっかりとそいつと目を合わせた。そういや蝉には目が五つあるらしいし、そのうちの大きな二つの複眼もどこを向いているか分からなかったが。


 目を瞑ってもう一度考える。結論は決まっていた。


 次の瞬間、急に吹いてきた冷たい風が額の汗を冷やし、その拍子に蝉は身体を元の向きに戻してどこかへ飛んでいった。どうしてこんな奴に俺の特別な力を充ててしまったのかなんて俺にも分からない。もしかしたら、こんな力どこかで使ってしまいたいと、この一家の重苦しい伝統から逃れたいと、心のどこかで思っていたのかもしれない。俺はどこかスッキリとした気分で帰路に着いた。足取りは軽かった。


 しかしまさか俺も、その時助けた蝉が後々になって俺の元へ帰ってくるなんて思っていなかった。昔話の鶴じゃあるまいし恩返しなんて有り得ないだろう、そう思っていた。ある日、蒸し暑い部屋に新鮮な空気を入れようと窓を開けた時、俺は見覚えのある蝉を見つけた。ただの蝉に見覚えも何もないと思うかもしれないが、俺には直感で、あの時のあいつだと分かった。


 次の日も、その次の日もそいつは俺の目の前に現れた。昔話と違うのは、そいつが機を織ったり米俵を持ってきたりしなかったということくらいで、そいつは俺の近くで常に鳴いていた。それもあのうるさい耳障りな鳴き方ではなく、まるで人間が喋る時のような、変わった声で。俺は自分の力のせいで、そいつに殺虫剤なんかをかけることも意味が無いと分かっていたし、何か愛着のようなものを感じて特に手出しもしなかった。


 そんな出来事から数ヶ月、夏が終わり秋が訪れ、冬になった。あの蝉もここまで寒くなると流石に姿を見せなくなった。どうせ死なないのだから冬は越せるのだろうが、もうどこか遠いところへ行ってしまっただろうか。いや、多分俺の知らないところで永遠に生きるのだろうな。そう思うと、少し寂しい気がした。やっぱりこんな時に窓を開けるのは馬鹿だったと、凍える手で窓とカーテンを閉めた。


 季節は巡り、あの蝉に出会ってから二度目の夏。あいつは、俺の隣にいた。冬を越して春になると知って、どういう訳か俺の元に戻ってきたらしい。そいつはその夏もずっと、あの変な声で鳴いていた。周りの蝉が一週間で死んでいく中、そいつだけはずっと変わらぬ調子で鳴いていた。その姿には、人間が弱者を煽る醜い姿と同じものを感じた。俺は、蝉でも優越感を抱いたり傲慢になったりするのだな、と勝手に思った。


 そして――あれから何度夏を終えただろうか。二十回、三十回……いや、もっとかな。今俺は、白髪混じりの頭とシワシワの手、淡い緑色の入院着でベッドに横たわっていた。実を言うと俺はここしばらく病気で寝込んでいる。それがいつからだったか、何の病気だったか、娘に教えてもらった気もするが、よく覚えてはいない。手には点滴を繋がれ、常に何かの機械音がピッ、ピッ、と規則的な音を立てている。窓辺にはあの蝉がいた。


 俺は急に、根拠はないが直感で、俺に残された時間がもう僅かだと悟った。それもほんの数分。俺は声を出して人を呼ぶことも出来ず、視線の先の蝉をじっと見つめた。そいつはパタパタと、最初に会った時と変わらず元気な様子で俺の枕元まで飛んできて着地した。あの時と同じように、俺はしっかりとその二つの複眼を見つめた。またいつもの同じ鳴き声が聞こえた。


 しばらくすると、その変な鳴き声が急に大きくなった。今度はいつもの変な声とはどこか違う、何かを訴えようと叫んでいるような、金切り声だった。俺はもう一度そいつの目を見て、その時初めて気づいた。


 俺がこいつにかけたのは、永遠に生きられる魔法でも何でもなかった。

 それは、永遠に死ねない"呪い"だった。


 こいつは今、目の前で勝手に生涯を終えようとしている俺に強い憎悪を持って、叫んでいるのだ。頼んでもいないのに勝手に不死身にしておいてお前自身は数十年生きて満足したまま死のうと言うのか、と。そのことを理解した俺は突然、今まで一度も感じなかったというのに、大きな罪悪感に駆られた。せめてこの手で殺してやれないかと、そんなことはできないと分かっていながらもそいつの羽に手を伸ばした。


 結局、伸ばした手がそいつに届くことはなかった。さっきまでピッ、ピッ、と音を立てていた機械は、今度はピー……と同じ音を平坦に伸ばしている。俺の意識はもうそこには無かった。


 俺は一匹の蝉に呪いをかけて、自分の一生を終えた。

 やはりあの日の俺は暑さで頭をやられていたのだと、そう思った。

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夏の呪い 想空 @vivi_0301

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