犬が死んだ

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ありがとう

 犬が死んだ。

 齢は十三、心臓病だった。

 時間は十二時頃だろうか。三十五度を超える日々では珍しく、三十度を切った過ごしやすい曇りの中、特に暴れることもなく僕の枕元で死んでいた。

 思えば昼寝の中で生臭い犬の吐息を嗅いだ記憶があるが、妙な鼻息をしていた。もしかしたらあの瞬間彼は死に向かっていたのかもしれないが、今となってはそれを知ることは出来ない。


 彼と出会ったのは東日本大震災の一年前だ。

 とはいっても何か感動的な出会いをしたわけではない、学校から帰って来たら見知らぬ妙に細い、何処か恐ろしい風貌の彼が見慣れた我が家の廊下に仁王立ちしていた。

 犬種は珍しいウィペット、ドーベルマンだとかと同じ狩猟犬の一種だ。今となっては行方知らずで犬の苦手な兄が、両親と共に牧場で唯一触れられたこいつを買ったらしい。


 僕ははっきり言ってこいつが苦手だった。


 正直柴犬が良かったのもある。

 しかし何より来て一か月も経たず、買ってもらったばかりの卓球のラケットをガジガジと齧り、見るも無残にされてしまったからだ。

 それにいやに賢くて、犬用に飽き足らず人間用の隠していたお菓子すら引きずり出して食べてしまうし、逃げぬようしっかりと囲った犬用の檻は飛び越えてしまうし、心臓病で元気がなくなっても隙間からするりと抜けだし近くの草むらで昼寝をしたりもしていた。

 賢いのだがしかしそれ故に悪戯も多く、両親はそれを笑って流してしまうので説教役はやはり僕だ。そしてその度、僕は彼の薄く毛の少ない耳をぐにぐにと弄繰り回し、バカ犬と呼んでいた。


 だが人というものは情が湧くものだ。

 十三年という僕の人生の半分以上を占める時間の中、人より多めの挫折を繰り返した僕の横にいたのも、やはりこのバカ犬だった。

 受験に失敗した時も、なろうを自業自得でBANされた時も、ゲームで負けた時も、学費が払えず大学を諦めた時も、仲の悪くなったクラスメイトから嫌がらせを受けた時も、両親に叱られた時も大体こいつの首に手を回し、その獣臭い……いや、聞こえが良い言い方ならばお日様の臭いがする首元へ顔を擦り付け背中を撫でた。


 そんなバカ犬が死んだ。

 前触れもなく、昨日だってモリモリと二食分の老犬向けドックフードを平らげたのに、昼寝中の僕の枕元で。


 いつも大体半目だったが、今日は耳を触っても動かなかった。

 胸を触っても上下しないし、いつもは少しでも弄ればだるそうな半目でするりと逃げ出してしまう尻尾すら、今日はピクリともしなかった。


 こんなひっくり返った声を出したのはいつ以来だろう。

 いや、初めてだったかもしれない。


 我が家にはクーラーがない。

 だらんと持ち上げられた首から、暑さに弱い彼の為毎日巻いていた保冷剤入りのバンダナが滑り落ちる。


 少しでも腐らない様にタオルで巻いた保冷剤をあちこちに置き、家族三人で彼を囲った。

 撫でて、弄って、その胸がまだ上下しているのではないのかと何度も何度も何度も何度も見まわし、でもやはり動かないので撫でた。

 三時間だ。十七時から彼をペット用の簡易的な葬式に連れていくので、家で彼を撫でていられるのはそれだけ。

 数分しか撫でていないはずなのに、その時間は目前までやって来た。


 好きなものを入れてあげよう。


 母の提案を聞き、僕はもう一年は使っていないであろうシフォンケーキのアルミ型を引きずり出した。

 別に市販の生クリームたっぷりな甘いケーキでもよかった。犬は甘いものが好きだ。いや、犬に限らず生き物は大体甘いものが好きだ。

 でもパッと思い浮かんだのはシフォンケーキだった。

 イチゴもチョコも……勿論犬にチョコは厳禁だし……入っていないシフォンケーキを焼く。


 シフォンケーキい大切なことは一つ、メレンゲをしっかりとたてること。

 でもメレンゲなんてまず失敗しない。お菓子作りを趣味としている僕だが、今までメレンゲで失敗などしたこともない。


 でも失敗した。


 本来ならボウルをひっくり返しても落ちることがないほどピン、と立つはずのメレンゲが、今日はだらだら、でろでろとして一向に上手く行かなかった。


 全てを洗い流し、綺麗な布巾で中を拭い、新しい卵を割って卵白に分け、またミキサーの轟音に顔をしかめて泡立てた。


 また、だめだった。


 また洗い流す。

 そして卵を割る。

 これで卵黄が六個余った、何個かは割れている。いったいこれをどうしようか、余った卵白や卵黄を焼くだけで喜んで食べてくれたバカ犬はもういない。

 更にラップを貼り再び卵白を泡立て……ようと思ったが、砂糖がない。それにサラダ油もない。

 仕方ないのでバターと蜂蜜で代用したところ卵白は漸く泡だったが、しかし焼き上がりは普段より少し縮こまったシフォンケーキになった。


 両親の買ってきた鳥、豚、牛の肉をじゅうじゅうと焼き、時々出すと喜んで食べていたマグロも今日ばかりは生で、四分の一に切り分けたシフォンケーキも、それぞれをジップロックに分けて包んだ。

 犬は共同で祀ることになったらしく、遺灰を確保することも出来ないということで、最近買ったばかりの爪切りで爪を四つ、そして一番長い尻尾の毛を結構切った。


 廊下から歩いてくる音がする。


 もう時間だ、と告げる父の顔は見えなかった。



 バカ犬を車に連れて行くのは、体格も力もある僕の役目だった。

 よく寝転がっていたあいつ用のベット、そのシーツと共に彼を持ち上げ、車の後部座席へとそっと置く。

 硬直した腕がピン、と正面へ伸びていて、尻尾の付け根にある肛門から茶色い排せつ物が見えた。


 そういえば聞いたことがある。

 首吊りをした死体は肛門が緩み、尿や汚物が垂れ流しになっていてそれは凄惨な光景だそうだ。

 どうやら首吊りをしなくとも、人間ではなくとも、死んでしまえば漏れてしまうらしい。


 いやに冷静に観察している自分が激しい頭痛と共に脳内で状況を読み上げた。


 普段は少し荒々しい運転が抑えめになっている車内で、吐き気と共に横で寝ているバカ犬の首筋を掻く。

 こいつは首筋と、背中と、そして尻尾の近くの臀部を、このストレスで嚙み過ぎて異常な深爪になっている手で力を入れて撫でまわすと尻尾をぴん、と伸ばして喜ぶ。

 でも今日は尻尾が立たなかった。

 いつもは柔らかい首元も、保冷材のせいで早く進んでしまった硬直のせいで、なんだか知らない手触りだ。


 行きずりの道で花束を買った。

 小さなひまわり、白百合のつぼみ、白いアルストロメリアが束ねられていた。

 好機と愛慕、純潔と威厳、凛々しさがそれぞれの花言葉らしい。一分も経たずに表示されたスマホの上の文字を何度も往復して、似合わないと唇を噛んだ。


 無言で車が走る中、ぽつぽつと雨がフロントガラスに粒を作り始めた。

 全く都合が良い。

 誰かが死んで、雨が降るなんて実に劇的で出来過ぎている。


 どこを眺めたらいいのか分からない中、右手ばかりがそこに存在する塊を撫で続け、目的地にたどり着くころには実に土砂降りの雨に変わっていた。



 小さな場所だった。

 あまり気の利かなそうなおばさんが、バカ犬をどれにいれるかと父をせっついていた。

 段ボールを抱えた中年の女性が横を通る。


 まさかアレに入れるのか?

 まるで物だろ。


 同じ事を思ったのだろう。父が選んだのはメルヘンだと歌う犬用の箱だった。


 しかし頷き帰って来たおばさんが抱えていたのは、やはり紙製の折り畳み式ケースだった。

 ちょっと飾りが増えただけで段ボールと何も変わらない。


 しかし言った手前直ぐにチェンジすることも出来ず、バカ犬を抱えてその中にそっと入れた。

 やはり保冷剤で先に硬直してしまった手足がピン、と伸び、箱の外へと突き出している。

 少し困った顔で皆が見た後、おばさんが持って来たのは何か蔦らしきもので編まれた大きな籠だった。


 ああ、ああ、これの方が良い、断然いい。

 少し脚こそ突き出しているが、まるで昼寝でもしているみたいじゃないか。


 白い布でくるまれたバカ犬の元に肉だとか、お菓子だとか、マグロだとか、花だとかを添えた。

 全然足りない、埋め尽くすほどに本当は置きたかった。

 犬に甘いものは良くない、だから今までお菓子は上げても特別な日に一口だとか、そんな大した量は挙げなかった。

 勝手に食べた時は取り上げて、だからもういくらでもあげられるのに。

 でも三時間じゃシフォンケーキしか焼けなかった。

 クッキーや、マドレーヌや、フィナンシェなんてのも食べさせてやりたかったのに。


 線香を一本差して、控室へ歩いた。

 恐らく同類なのだろう、二人組の女性がぺちゃくちゃとうるさい。

 わざとらしい静かで、物悲し気な曲が五月蠅い。

 何もかもが僕を馬鹿にしているような気がした。


 きっと骨を持っていても悲しくなるし、それに骨を届けられるのは数日後、もしかしたら別の犬の骨も混じってしまうかもしれないと父が言い、共同で祀ることになったのはさっき聞いていた。

 恐らく管理人なのだろう、先ほどのおばさんとは変わって丁寧なおじさんの後をついてあちらが共同墓地、こちらがなんだと聞いた気がするがよく覚えていない。


 一つだけ考えていたのは、ゴロゴロと頭上で唸る雷が今にも真っ直ぐ飛来し、ここで間抜けな顔を晒しているバカの傘へと突き刺されば一番楽なのに、くらいだ。


 また控室に戻り、金を三万円ばかし父が払って全て終わった。


 最後にまた挨拶を、とバカ犬の元に行ったが、やはり編まれた籠の中にあいつはいた。

 これだけだ。

 何か大掛かりな事をするわけじゃない。たった三十分足らずの紙に文字を書いて、よく分からない紹介をされて、線香を添えて、金を三万円取られて全てが終わった。


 ざあざあと絶えず雨が降る中両親が車に戻るのを目で追い、消えていた蠟燭を横に転がっていたガスライターで火をつける。

 僕が一本、父も一本、母は三本。

 先程備えた線香が根元まで燃え尽きているのを横目に、余っていた線香を五本ほど引っこ抜いて炙り、灰へと差し込んだ。


 優し気だったおじさんが言い辛そうな顔でこちらを見ていたが、総て無視。

 両手を馬鹿みたいに擦り合わせ、額へぶつけてバカ犬の顔をじっと眺め、車へと戻った。



 帰り道も雨は止まなかった。


 フロントガラスに叩き付けられた雨粒たちが、前の車の真っ赤なテールランプの輝きを受け、血の様にだらだらと滑り落ちていく。


 何か食べたいものがあるかと質問が飛んだ。

 何も返せなかった。

 灰色の空を眺め、だるさと頭痛と吐き気を抱えて椅子をへし倒し、先ほどまでバカ犬が包まれていた布団を撫でていたら家についた。


 家の前、暑い日に風通りを良くするため玄関を良く開けていたが、バカ犬が逃げぬように動かせる檻がある。

 かつて容易く飛び越えたり、しっかりおいても隙間からするりと抜けてしまう檻だ。

 錆びたそれをじっとみて、見て、見て、頭にバスタオルが乗っけられて家に入った。


 玄関のすぐそこ、バカ犬が良く寝ていた手作りの犬用ベットが折りたたまれていた。

 風呂に入れという父の声がする。

 後で入る、そう言って部屋へ戻った。


 布団に座り、そう、あいつが死んだところを撫でた。

 何もない。当然だ。

 たった六時間前までそこにいて、僕はあいつの体を触った。


 涙はもう出なかった。

 何も感じなかった。寂しさも感じない。不思議だ。


 ただ頭の中で考えていたことがあった。

 今日会った事を書こう。ずっとそれだけを考えていた。

 書いて、投稿して、公開しようと思った。


 多分これを見た人は嫌な気持ちになるだろう。

 僕の事を悲劇の自分に酔ってるだとか、慰めてほしいのか? とか色々思うだろう。

 何なら直接色々言われるかもしれない。

 分かってるけど書く。

 というか今ここまで書いて、さっきまであったひどい頭痛だとか、鼻水だとか、ダラダラ出る涙だとか、随分落ち着いた。

 やっぱり何かで気を紛らわすのが一番いいんだと思う。


 きっと僕は忘れる。

 辛いことなんて大体数日がピークで、だから一週間もすれば今日の感情を僕は忘れてしまうだろう。

 だからこれは記録だ。きっと忘れるものを、一つでも残しておくための記録。

 もしもっと早くにボクが起きて気付いていれば、もし病院に行くのがもっと早ければ、もっと経済的に裕福で手術とかも出来ていれば、もっともっともっと生きてたのかも。

 後悔しても多分意味はない。


 ありがとう、ちゃお。

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