秘文、全文

不透明ふぅりん


 休日登校――そんなものは昔の世代以降ほとんど無くなっており、今の学校は土曜日曜の二日休みがデフォルトとなっている。


 例外を挙げるとすれば、それは部活動に所属している場合。

 運動部の場合はほとんど、文化部でも大半が休日に登校して部活動に勤しんでいる。

 そんな、当たり前というには言い過ぎな、でもほとんどの学校がそうであるという事実がある。

だがとある高校に通うある一人の男子生徒の場合、完全にその常識から外れた例外であった。


 『異例』とすら言えるだろう。


 そんな男子生徒が通う学校――昼間高校には今、夏が訪れていた。

 耳をすませば、一年間待ちに待ったと言わんばかりに蝉たちの声が四方八方、正確に言えば、学校の周りに等間隔で木が植えてあるが故に、包囲される感じで声が聞こえてくる。

 そして、それに合わせて、もう近くまで迫ってきているらしい甲子園のために練習している吹奏楽部達の気合の入った演奏が、廊下まで響き、窓から漏れ出て、学校の中や外など関係なく聞こえていた。


 そんな学校。

 夏にしか出会えないそんな環境。


 そして、いつも生徒たちが授業を受けている教室には勿論、一つとして影はなく、もしこれがいま平日であったならば、移動教室などでしか起こりえない状況であるために、怖さや不安さえ抱えそうになっただろう。


 しかし、今日は休日。

 それが当たり前の世界であり、聞こえてくる音もいつもと違っていて興味深いというか心地よいというか。

 そんな学校の、誰もいない教室には一人、机に宿題やワークや辞書を並べて真面目に勉強している男子生徒がいた。

この男子生徒はというと、周りからは真面目というものを擬人化したようなそんな性格と評されていて、優等生で温厚な性格、だけど異性とのコミュニケーションは苦手で、それでいて素朴で純粋な男の子。

 そんな男子生徒は今、机の上の課題にかじりつかん勢いで集中して手を動かしている。

 そして、それが故に彼は気付かなかったのだ。


 一つの影が教室に忍び込んでいるということを。


「……おーい」


「わっ!」

「何してん?」

「び、びっくりしたぁ……今、課題をやってたけど、そ、そっちは?」

「えーっとね、私は……忘れ物したから取りに来た!」

「あぁ、そうなんだ……」


 ――偏見。


 基本的にギャルと言われる人種はというと、自身が属する友人関係のグループが一番大事であり、その他の人間はいわゆる『モブ』と同じだという思考で世界が回っている。


 しかし、彼女は違った。

 稀に見る『例外』であった。


 立ち振る舞いは言わずと知れたギャルである、ということは自明の事実ではあるのだが、彼女の場合はその立ち振る舞いを人を見て変えないのだ。


 いわゆる誰にもでも優しいギャル。

 オタクにも優しいギャル。

 誰とでも仲良くなれちゃう人気者のギャル。

 それが彼女。


 そんな彼女を『ギャル』と一言で言い表すのは、あまりにも粗雑じゃないか思う気持ちが心を巣くう。

 事実、ギャルというほどけばけばしているかと言われればそうではなく、これは僕の目から見たらというフィルターを通しての印象――もとい偏見である。


 というか、僕の目を通してしまうとほぼほぼの女子が『ギャル』に含まれてしまうので、信頼性という意味では全くと言って良いほどないし、むしろ邪魔まであった。客観性のかけらもなかった。


 そんなことより。


 彼女はどこら辺に座っていつも授業を受けていたっけな。

 確か、えーっと廊下側だった気がするけど、うーんよく思い出せない。

 それと名前が今、喉まで出かかっている感じがするけどうまく出てこない。この現象って確か、ベイカーベイカーパラドックスってやつだったか。

 でも、本人を前にして名前が出てこないのは、そんな現象の名前とか関係なくただ失礼なだけな気もする。

 そんな失礼な事を考えていることは露知らず、彼女は僕の隣の席(隣はあまり知らない野球部らしい男子生徒の席である)に座って、机を寄せてくっつけてきた。


「えっと、あれ? 忘れ物取りに来たんじゃ……」

「あー、それなんだけど、さっきクローゼットにしまったことを思い出したからもう解決しちゃった」

 微笑みをたたえて、という表現がしっくりくる笑みを浮かべて、彼女はそう言った。

「あぁ、そうなんだ、ははっ……」

「そうそう! だから、暇になっちゃったの」

「へーっ、そうなんだ……」

「だからさ……私が勉強見てあげるよ!」

「え」


 ――強引な提案。

 見られるとあんまり集中できない、でも断るのも怖いしそれに彼女は……。


「あのー……これ、聞いていいのかわかんないんだけど、前の中間テストって何位だったの?」

「えーっと、まぁある意味一位だったかなぁー……なんて?」


 要は最下位だったということで、すなわち、順位が一桁だった僕にとって彼女の手伝いはいらないということと同意であった。


「お断りします」

「えぇっ!? じゃ、じゃあさ、隣で応援してあげる! あと、飽きたり疲れたりしたらお話もできるし、何なら私飲み物も買ってきちゃうよ? どうかな?」

「……」


 ――何故?

 どうして彼女はそんなに一緒にいてくれようとするのか、どうしてそんなに献身的なのだろうか。


 どこをどう探しても理由が分からない。

 だけど、悪い気はしない。

 どころか、嬉しい。


 今まで生きてきてこの方、女の子=怖いもの・めんどくさい生き物、という先入観があって苦手だったのだが、彼女はどこか違った。

 まるで、誰かが生み出した理想に生命を宿したような、欠点すらも愛おしいと思ってしまうような、そんな無欠な女だった。


 だからこそ、彼女に告白しようとするものは後を絶たないらしい。風の噂でそんな話をよく聞く。

 だけれど、付き合ったという話は聞いたことがない。

 それって要は……彼女が思わせぶりな態度をとっているのか、あるいはこっち側が勝手に勘違いを繰り返しているだけなのか。


 「最近のラブコメはさ? 『恋愛は高度な心理戦である』なんて固定概念を植え付けようとしてくるんだよ? ひどいよな……」と、友人が昼休みにがっかりした顔でぼやいているのを思い出した。


 そしてその後、彼はそれに関連付けて少子化問題とか昨今の恋愛事情の分析を披露してくれた。

 ……もしかしたら、彼は将来優秀な学者にでもなるのかもしれない。


「ダメ?」


 上目遣いでお願いしてくる女の子、姪っ子がお父さんにお菓子ねだっている以外で初めて見た。

 これは……確かに揺さぶられるものがあるかも。


「……勝手にしてください」

「やったー! じゃあ、飲み物買ってくる! 何欲しい?」

「……カルピスウォーターをお願いします」

「了解しました! ……へへっ!」


 彼女はお茶目な敬礼をこちらに向けたかと思ったら、クルリと振り返ってパタパタという足音とともに教室を去っていった。

 あ、あざとい……。



 しばらくして彼女は戻ってきた。

 それから、勉強をする僕と応援なのか邪魔なのか分からない行動をする彼女との不思議な時間が流れていった。


「あ、これこの前先生が言ってたやつだ!」

「あれ、そうだっけ?」


「おー! 私がトイレから戻ってきても姿勢が変わってない!」

「集中しているからね」


「頑張ってるねぇー、頑張ってるねぇ」

「あ、ありがとう……?」


「ねぇねぇ、そろそろ休憩しない?」

「……確かに。そうしようかな」

「わーい! 休憩だー!」


 ぐぐっと一つ背伸びをして立ち上がり、もう空になったカルピスのペットボトルを片手に教室から出る。


「どこいくの?」

「トイレに行ってくるついでに、これ捨てに行ってきます」

「いってらっしゃーい!」

「……はい、いってきます」


 まるで、ここが自分の家であるかのようなやり取りに困惑し、とりあえずそれっぽい返答をしている自分にもっと困惑する。


 そして、一人になった途端、ひどく冷静になる。

 どんな因果があってこんな状況になっているのか。


 彼女はどうして僕なんかにかまってくれるのか、優しさを向けてくれるのか。

 これは卑下ではなく、客観的に見た単なる疑問であり、思考することで冷静になるという為の単なる手段に過ぎない。


 ペットボトルを専用のゴミ箱に入れ込む。

 カランカランという音が響く。

 僕はその音を聞いて一人納得する。

 そんなささやかな納得ももうすぐ無くなるのだろうか。

誰もいないであろうトイレの扉を開く。

疑問も緊張も納得も水と一緒に流れて消えていく。

静かな音を立てて流れていく。




ガラララ……。


ペットボトルを捨てて、トイレに寄ってから教室に帰ってきたが、そこには誰もおらず僕たちの痕跡がそのままそこにあるだけであった。


そこには誰もいなかった。


一瞬頭に心配が浮かんだが、邪魔とも取れる応援を思い出すと、何故か頭から心配が消え去っていってしまった。

僕は再び机へと向かう。

頭の片隅に彼女のことが引っ掛かりながらも、何とかシャーペンを動かす。


 集中し始めて数分が経ったある時、突然教室の扉がゆっくりと開く。


 ガラ、ガララ……。


 開かれた扉には、うつむいて前髪がたれ、目が隠れて見えない状態の彼女が立っていた。


 しかし、その様子は休憩する前と見るからに違く、雰囲気もどんよりしていて暗かった。

 そして、特筆すべき点として、夏用の制服という名で着ているワイシャツが、体にぴったりと張り付いていて。

 じっとりとした雰囲気は比喩ではなく、その体は本当に水気を帯びていた。

 髪もシャツもスカートも靴も何もかもが濡れていた。


「えっ……どうしたの」

「……」


 彼女は何も言わない。

 そして、そのまま、自分が濡れていない然とした足取りで、僕の座っている席の近くまで歩いて近づいた。


 ぎゅっきゅっ、ぎゅっきゅっ。


 机のすぐ横に立ち止まると、スカートの端を掴み僕を見下ろす。

そして、座っている僕よりも高い位置にある彼女の顔には蠱惑的な笑みをたたえていた。


「ねぇ? 君って女の子のスカートの中見たことある?」


 その第一声は、何の予兆も脈略もなくぽつりと吐き出された。

 そしてその一言を口火に、握り込んでいたスカートの端をゆっくりと上げていく。

 するりと上がって行く垂れ幕の内情は白くて美しく、すね、膝、太ももと順々に健康的な肌を晒していく。


「どう? 綺麗でしょ?」


 その光景は危なっかしくもあり、同時に美しくてロマンを感じるようなものだった。

 そして、『それ』から目を離した瞬間、今にも吸い込まれてしまいそうだった。


 ――宇宙。


 すべてを吸い込む暗黒の中に点々と輝く星々がそこにあった。

 そう、これは比喩でも何でもない。

紛れもない本物の宇宙がスカートの中に広がっていたのである。


 そして。


その時点でもう、何かを考えるという冷静さなど残されておらず、僕にできることは目の前に広がる自然の壮大な神秘に身も心も捧げることしかできなかった。


 あれがデネブ――あれがアルタイル――そして、あれがベガ。

通称、夏の大三角形。

そして、その三つが作っている星座がはくちょう座、こと座、わし座。

その中心にあるのが……。

 そこで、僕は気が付いた。


 ――いや、気が付いてしまった。


 そこにあるはずの『や座』があるべきなのに見当たらないということに。

 その代わりに、その位置にあるのは、ゆっくりと渦を巻く白い円形の何かで……。

 

「そんなにじろじろ見られると流石に恥ずかしいよぅ」

「はっ! ……ご、ごめん?」


そう言われて僕は反射的に顔を下に向けた。

そして、今はそれどころではないので空返事をしてしまった。

 だけど、本当にそれどころではないのだ。

 さっきまで、傍から見たら変態認定まっしぐらな秘部に釘付けになっていた視線が、今はただただ古くなった木目調の床を見ている。

 それを自覚したとたんに、僕は大量の蝉の声と湿っぽくてむわっとした熱気に気が付いた。

 汗が額を伝って落ちていく。


 そして、僕は……再び視線を戻したのだった。






一瞬の浮遊感ののち、僕は手、足、体に力が入らないことに気が付いた。

それは立ち眩みにも似た感覚で、思わず目を閉じてしまった。


そして、再び目を開いた時、僕の眼前――瞳に映る空間のすべてが、夜空というか宇宙というかになってしまっていた。

そう、僕は今、何もない空間――強いて言えばプラネタリウムで見たような輝かしい光景の臨場感百倍バージョンが存在していて、宇宙みたいな空間にただ一人ポツンと浮遊していた。


……僕がなぜと表現したかというと、それは僕が宇宙服を着ておらず、さっきまで着ていた学生服のまま宇宙にいるからである。


暑くもなければ寒くもなく、息も苦しくない。

そして、まだ状況を脳が処理していない。

疑問が浮かんではただただ脳の容量を埋めていくだけである。


――それと。


そんな中でも一つ確かに言えることがあるのだとしたら、下手に宇宙の知識があるおかげで、この状況がただの絶望でしかないことが理解できるということだろうか。

 というか、どこを見ても地球と思しき星は無く、あるのはやっぱりプラネタリウムみたいな微かに輝く点のみで……ん?

 生存のために仕方なく、天体観測に勤しんでいる僕の目に飛び込んできたのは、あの時、彼女のスカートにた白いリングであった。


 あるはずのない場所に存在した白いリング。


 それがあるということは、ここは彼女のスカート宇宙の中である、ということになるのだろうか。

 ということは、犯人は彼女なのか……?

 その考えは仮説だが、それでもふつふつと怒りが込み上げてくるのが醜い当事者意識というもので。


「なんで僕がこんな目に遭っているんだ! というか、あの女はいったい誰なんだ。馴れ馴れしい感じで話してきたけど名前も知らないし顔だって。帰ってきたときなんかびしょびしょだったし、応援とか言ってその実やっていたのは雑談だけだったじゃないか。そのせいで全然課題進まなかったし、集中すらできなかった――全く何が何なんだってんだよおおぉぉ!」


 一人抱えた怒りの声は、黒くて高性能な吸音材に、漏れ一つ無く吸い込まれていってしまった。


「はぁ、はぁ……はぁ。」


 湧いてきた怒りは全て吐き出した。

 そして、僕の中に残ったものは単なる虚無だけである。

 疲れた果てに視線を上げると、そこにはやっぱり白い円があった。

 最初に見た時よりも二倍ぐらい大きく見えるそれは、天体に存在するにはあまりにも異質というか何というか。

多分、あれは絶望と信仰を混ぜて造ったおぞましく抗いがたい何かなのだろう、そうにしか見えない。


 そして、その円はみるみるうちに大きくなっていって……。

 いや、何かが違う……?

あっ、分かった。

これ、大きくなっているんじゃなくて、僕自身がこの円に近づいているんだ。

 近づいているというか、これは、引き寄せられている?

 そう思って、最近のニュースを思い出す。


『次のニュースです。研究チームがブラックホールの撮影に成功したようです。研究チーム曰く……』


 あぁそうか、これブラックホールか。

 写真とは全然違う色だから気が付かなかったけど、そうかこれがあの……。

 すべてを飲み込む暗黒の中心部は渦を巻いておらず、ただ奥も手前も分からなくなる程の黒が広がっていた。

 その時である。


「うっ……あぁっ、くかっぁ……」


 息が……できない! 全身が熱すぎる!


「っ……」


 意識が遠のいていく。

 僕はその大きくて暗闇と表現するにはあまりにも足りない、深い黒に飲み込まれていく。

 もがいても無駄とわかっていても、今の僕にはそれしかできなかった。

 ――。




「――はっ!」


 がっしゃあぁん!

 思いっきり机の裏に膝を強打しながら目覚めるという、一番心臓に悪い起き方で目を開いた。

 慌てて周りを見渡すが、そこには、相変わらず誰もいない空虚な教室が広がっているだけだった。

 上体を起こすと、肘に張り付いてくるプリントにイラつきながらも、破れないよう慎重に取り外す。

 あぁ……どうやら僕は眠ってしまっていたらしい。

 なんかすごい夢を見ていた気がするけど……果たしてどんなのだったか、頭がぼんやりしてうまく思い出せない。

 ……まあいいか。


 がら、がらら……。


 恐る恐るといった様子で教室の扉が開く。

 そこには、元気一杯! 笑顔満開! 一人の女子生徒が立っていた。

 ……。

 はたして、どうして。

 何故なのだろう。

どうして彼女はびしょびしょなのだろうか?

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