その、長く幸福な一日【下】

 二人はそのまま、鹿の潜んでいそうなポイントを見極めつつ、慎重に進んで行った。


 川に沿ってしばらく行くと、途中、何物かが水を飲んだような形跡があり、所々で木の枝が削り落とされたりしていた。


 三四郎も大介も、いよいよ鹿の縄張り奥深く入り込んでいるのを確信した。


 やがて、薄暗い崖のような急斜面の岩場へ出た。


 陽の光があまり通らず、周囲はひんやりと静まり返っている。


 崖の上から細い滝のように川の水が落ちかかり、そのせいで岩の表面はかなり滑りやすくなっていた。


 三四郎と大介は二手に分かれ、やや離れた斜面を上っていた。


 渇きを感じた三四郎が水をすくおうと両手を伸ばした瞬間、その頭上で大きな岩の塊みたいなものがのそっと動いた。


 それから、初めはゆっくり、だんだん速く岩の上を飛び移って行った。


 時が止まった一瞬だった。


「いたぞ、大介!」


 それはもちろん岩などでなく、熊とも見まごう実に巨大な、そして見事な角を持った一頭の牡鹿だった。


 鹿は軽やかな足取りで岩から岩へ飛び移り、そのたびに二人の上から小石がぱらぱら降ってくる。


 三四郎は夢中で猟銃を構えた。


 最初に火を噴いたのは、大介の銃だった。


 三四郎も銃口の先に鹿の姿を捉え、慎重に引き金を絞った。


 反動で銃身が跳ね上がり、銃声に驚いた鳥たちは木々の間からいっせいに飛び立つ。


 牡鹿は止まらず、そのまま崖を駆け上がって行った。


 当たらなかったのだ。


 大介の弾も三四郎の弾も、鹿の足元の岩に当たって砂埃を巻き上げただけだった。


 二人は滑る岩場を懸命に上り、鹿の後を追った。


 初弾を外したのは拙かった。


 どんな熟練の猟師だろうと、相手の縄張りにいる以上地の利はない。


 獲物の方が有利なのは明らかだった。


 が、めげている場合ではない。


 闘いはまだ始まったばかりなのだ。


 三四郎は必死でよじ登った。


 崖は次第に緩やかになり、やがて遠くの山々までも見渡せる頂上近くまで到達した。


 所々に低木が生えているだけの禿げ上がった岩場を、牡鹿はまるで熟練のダンサーがステップを踏むような軽やかさで右に左に蛇行しながら駆けて行く。


 かなり遠いが、手が出せないほどの距離ではない。


 銃声が響き渡った。


 大介が撃ったのだ。


 どうやら、鹿を追い込むつもりらしい。


 彼は撃つと同時に、牡鹿を横から狙えるポジションを確保しようと、身体を低くしたまま走って行った。


 三四郎はそれを見ながら、まっすぐ鹿の後を追って駆け出した。


 うめえど、大介。そのまま追い込め!


 大介の姿は、すぐ見えなくなった。


 しかし、その動きが三四郎には手に取るようにわかった。


 牡鹿はほんの一瞬、姿を見せるが、すぐ消えてしまう。


 地形を上手に利用しているからだ。


 たえず二人の視界から隠れるように逃げている。


 引き金を引こうにも、まるでチャンスがなかった。


 岩にぶつかったり枝に引っ掻かれたりして、身体中傷だらけだったが、それどころではない。


 岩が複雑に入り組んでいる辺りで、完全に見失ってしまった。


 どこか岩の隙間にでも身を隠したのだろう。


 三四郎も手近な岩と岩の間の裂け目にすっぽり隠れた。


 それにしても、と三四郎は舌を巻いていた。


 何て頭のいい、利口な鹿なんだべ。ああしておらだぢの出方さ伺ってるに違えねえ。


 風下にいるのは三四郎でその分は有利かもしれないが、牡鹿の方は太陽を背にしている。


 狙おうとすれば、逆光にならざるを得ない。


 鹿はそこまで読んでいるのだろう。


 待つしかねえ、と三四郎は思った。


 こっからは我慢比べだあ。とことん付き合ってやるから、覚悟しれや。


 堪えきれなくなった鹿が、出てきた時が勝負だった。


 身を隠したということは、言い換えれば逃げ場を失ったということだ。


 このラウンドは二人の勝ちだった。


 牡鹿をついに追いつめたのだ。


 さあ、いよいよだべさ。おめが姿さ現した時、おらの弾が当たればおらの勝ぢ。外れればおめの勝ぢだ。


 三四郎は金具を引き、銃の薬室へ弾を送り込んだ。


 ガチャッ、というその無機質な金属音を、鹿はどこかで耳をそばだて聞いているに違いない。


 あれほどの相手なのだ。


 どうせ三四郎たちの動きなど見切っているに決まっている。


 本当に凄い奴だなや。鹿ってのはもともと利口な動物だども、あいつはそん中でも特別だあ。んだばこそ、今までこんな山奥で誰にも知られずこうして生き延びてきたんだべさ。大介はどうしてるべ。奴の居場所をちゃんとわかってるべか。


 猟師としての大介には何の問題もない。


 腕は三四郎と同等かそれ以上だし、自分の受け持ちもきっちりわきまえている。


 だども、と三四郎は考えていた。


 さっきのあいつはどこか変だった。おらに何を言おうとしたんだべ。


 三四郎は、なぜ彼の言葉を最後までちゃんと聞こうとしなかったのか、今になって気になりだした。

 これまでにも何度となく二人で山へ入ったが、あんな彼を見るのは初めてだったのだ。


 三四郎は腰の位置を少しずらし、楽な姿勢をとった。


 くそ、やけに喉が渇きやがる。この暑さときたら……んにゃ、暑いのは奴もおんなじだあ。それにしても、あいつめいやに頑張るじゃねが。


 息づまる時が流れた。


 どれぐらいそうしていたかわからない。


 太陽はまだ頭上にあったが、風は明らかに冷たくなっている。


 心なしか、木々の影も長く伸びたような気がした。


 三四郎もさすがに疲れを感じてきた。


 長いこと同じ姿勢で緊張しきっていたせいだろう。


 時折心地よい風が吹き過ぎると、木立がさらさら揺れた。


 上空を一羽の鷲が悠然と旋回している。


 三四郎はその姿をちょっと見上げたが、すぐにまた視線を戻した。


 足元に一匹の大きなバッタが跳んできた。


 引き金から堅くなった指を引き剥がし、額の汗をぬぐおうとしたその時だった。


 突然、前方に小さな黒い点のようなものが現れた。


 ゆっくり動いたかと思うと、すぐ止まった。


 逆光でよく見えないが、それがあの牡鹿だというのはすぐにわかった。


 三四郎は慎重に銃を構えなおし、そっと引き金に指をかけた。


 彼は実に堂々と岩の上に立っていた。


 両の耳をぴんと立て、前脚で一度岩の上の砂を軽く払うようなしぐさをした。


 それからまた動かなくなり、じっと三四郎を見つめている。


 陽光がその背後から降り注ぎ、皮膚が金色に輝き出していた。


 三四郎はたまらず瞬きをし、銃を構えたまま岩の間から身を乗り出した。


 それでも、牡鹿は身じろぎもしない。


 彼が何を考えているか、三四郎にはわかったような気がした。


 おそらく彼も、三四郎の考えがわかっているに違いない。


 瞳の奥がジンジン痺れる感じだ。


 三四郎はもう一度瞬きをした。


「なあおい、おら、おめのことさずっと待ってただよ。ずいぶん探しただ。どこさ行ってただ?」


 牡鹿の角が陽の光を受けて美しい七色に輝き出した。


 死を覚悟したものの荘厳さが、全身から立ち上っている。


 二つの黒い瞳は、それでもじっと三四郎を見つめていた。


 びゅうっ、と風が鳴った。


「三四郎!」


 大介の絶叫が、山々にこだました。


「やめてけれ!頼むがらそいつさ殺さねえでけろよ!」


 広大な山なみは、強い陽射しに照りつけられ、遥か彼方まで見渡せた。


 三四郎は、漂う雲に向けて一発撃った。


 やがて、大介がやってきた。


 酔ったような足取りでいまにも倒れそうになりながら、彼は泣いていた。


「許してけれ。許してけれや、三四郎」


 三四郎の撃った銃声は、風の音にかき消された。


 そして、すぐにまた静かになった。


 長い夏の一日だった。                         

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その、長く幸福な一日 令狐冲三 @houshyo

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