その、長く幸福な一日【中】

 太陽が真上に来るまで二人は歩き続けた。


 深い森を抜け、ごつごつした岩場へと、テントを出てから4時間以上歩いた見当だが、途中何度か休憩したせいか、行程は思いのほか捗らなかった。


 猟銃をかついだ三四郎も大介も、大鹿の姿を見つけ出そうと躍起になっている。


 どこかの日陰で涼んでいるかもしれないが、もはや姿どころか足跡すら見失っていた。


 やがて、崖の向こうの視界がサッと開け、峡谷を縫って流れる緩やかな川の岸辺に出た。


 白樺並木がずっと続いていて、大地は一面緑に覆われている。


 二人は猟銃を木の幹に立てかけ、涼しそうな日陰を選んで腰を下ろした。


 蝉が鳴き込め、二人とも上着は汗でびっしょりだった。


 蒸し暑い昼下がりだが、木陰には涼しい風が吹いている。


 三四郎は草に寝転び、空を見上げた。


 抜けるような青空だった。


 草の匂い。


 土の匂い。


 山へ入ることを許された彼らだけに嗅ぐことのできるその豊穣な匂いを、彼は胸いっぱいに吸い込んだ。


 脳裏からは、巨大な牡鹿の雄姿が一瞬たりとも去らなかった。


 おどに連れられ初めて猟に出だのはもう10年以上も前だっけが、それからっちゅうもん一通りの経験は積んできたし、時には命からがら逃げ延びたこともあったべさ。だども、こったらわぐわぐするんは初めてだあ。あったらでっけえ鹿なんておるもんだべか。本当は鹿じゃなくて、鹿の姿した森の化身かもしんね。おらだぢはそんな奴とこれから勝負しようっちゅうんだ。誰にでも訪れるチャンスじゃねえ。問題は、奴がどこさ隠れでるかだ。なじょしても見つけねば、話さなんね。確かに奴はいる。もうとっくにおらだぢの存在を察してるはずだ……。


「おい、三四郎」


 という大介の声で、三四郎は我に返った。


 大介は岩の上に座り、ズボンの裾を捲り上げて両足の先を川の流れに浸していた。


「寝てるかと思っただよ」と、大介が煙草に火をつけながら言った。「何考えてただ?」


「何って、そりゃ鹿のことだあ。決まってるべ」


「だべな」


 言ったきり、大介は口を噤んだ。


「おめは違うんか?」


「おらは……おめのことさ考えてただ」


「何だあ?」


「おら、この頃おめんことさふと羨ましくなるだ。特に、獲物さ求めて血眼になってる今みたいなおめを見るとな。おらはもうどこへも行けねえんだ。こげな気持ち、おめにはわからんべさ」


「馬鹿こくでねえ。こったら時に何言い出すだ?」


「んにゃ、おらはもうどこへも行けねえんだ。おめにゃわかるめえ」


 川の流れは穏やかだった。


 遠くで鳥たちがさえずり、枝を差し交わした木々たちは、風が吹くたびにさらさらと涼しげに歌った。


 降り注ぐ陽光も、枝が揺れるたびにその位置を変えた。


 とても静かな夏の昼下がりで、目を閉じると自分がどこにいるのかさえわからなくなりそうだった。


 何一つ問題のない、素晴らしい夏の一日。


 地表すれすれを吹き抜ける風で、時折草が頬を打つ。


「何頓珍漢なこと言ってるだ。ユリっぺと喧嘩でもしただか」


「こげな気持ち、おめにゃわかるめえよ。おめはいつだって何か探さねばおれん奴だあ。おらはそうじゃね。違うんだ。前から一つ聞きたい思とったがよ……」


「勘弁してけれや、大介。おらだって必死だあ」


 三四郎は敢えて苦い顔を作って会話の打ち切りを示唆すると、素早く立ち上がり、猟銃を肩にかついだ。


 優しい風はやや冷たさを加え、日が少し傾いてきたのを感じられる。


「さあ行ぐべ、大介。早いとこ靴さ履け。もたもたしてたら置いてぐぞ」

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