その、長く幸福な一日

令狐冲三

その、長く幸福な一日【上】

 夜が明けたらしく、テントの外が明るくなり始めた。


 森のあちこちで蝉が鳴き出し、三四郎は表のさまを確かめようとテントから這い出した。


 地面が朝露で濡れている。


 昨夜のうちに集めておいた焚き木をまとめ、マッチを擦って火をつけた。


 川べりまで立って行き、バケツに水を汲み、それから指が千切れそうに冷たい水で顔を洗った。


 大きな鱒が一尾、銀色の鱗を輝かせながら水面に躍り上がった。


 見ると、川面のあちこちに同じような波紋がついている。


 テントへ戻り、そばの枝にぶら下げておいた紙袋から握飯と卵、ベーコンを取り出すと、フライパンに油を薄くひき、四つに切ったベーコンと生卵を二つ割り入れた。


 汲んできた川の水をポットへ移し、湯を沸かした。


 湯が沸き、ベーコン・エッグが焼き上がるまでの間、三四郎は握飯を頬張りながら辺りの景色を眺めていた。


 柔らかな朝日の下、こうして平和な森の気配を感じることが、彼はとても好きだった。


 ふいに、背後で草を踏みしだく音がした。


 振り返ると、双眼鏡を手にした大介が立っている。


「この怠け者があ。人をさんざ働がせといて、一人でいつまでも寝くさってからに」


 彼は丸太に腰を下ろすや、いきなり熱したフライパンからベーコン・エッグをつかみ上げ、口の中へ放り込んだ。


「熱くねえだか?」


 と、目を丸くした三四郎を一瞥もせず、今度は握飯を取り上げて、いっしょにムシャムシャやっている。


「茶はいらねが?」


「おう、くで」


 三四郎は二人分のカップにティーバッグを入れ、ポットの湯を注いだ。


 緑茶の香りが立ち上った。


「でよ、三四郎。この先に、奴の足跡さ見つけただ。姿は見らんねだども、相当な奴に違えね」


「だら、さっさと片付けて行ぐべ」


「慌てっこねえだ。どうせ、おらだぢは奴の縄張りのど真ん中さいるだからな」


「……だなや」


 大介は手についた脂をズボンに擦りつけ、


「缶詰ねがったか?」


「ほれ、ここに」


 次第に陽射しの強まる中、二人はデザートの桃缶を空け、茶を啜り、山へ入って初めての煙草も三本ほど吸った。


 そして、別段急ぐでもなく、ゆっくりと後片付けをした。


 テントを移動させるつもりはなかった。


 ここより良いキャンプ地などないことを、二人ともよく知っていたからだ。



 1時間弱、うっそうたるけものみちを掻き分け掻き分け進んで行くと、今朝大介が見つけたという鹿のものらしき足跡が泥の上にくっきりと残っていた。


 三四郎は猟銃を肩から外し、その場で膝を折った。


 まさしく、新しい足跡だった。


 今朝、二人がテントの中で夢見心地だった頃、こいつは辺りを勝手気儘に闊歩していたに違いない。


 足跡の大きさからして、これまで出会ったことのない大物であるのは疑う余地がなかった。


 三四郎は顔を上げ、そばに立っている大介へ言った。


「こいつはどうも……とんだ奴と鉢合わせだなやあ」


「んだんだ」


 足跡を最初に見つけた大介は得意満面だった。


「もし首尾よくこいつを仕留めでみろ。おらだぢは立派に自叙伝の一冊も出せるってもんだあ」


 その通りだった。


 この足跡が確かに牡鹿のものだとするなら、その角はゆうに子供の身長を超えるほどもあるに相違ない。


「だども、まずはそいつを見つけねばなんめ」


 三四郎が自らを落ち着かせようとつぶやけば、大介はスッと目を細め、


「なあに、奴はいる。この森のどこかに潜んどって、おらだぢをじっと見てるに違えねえ」


「んだば、先さ急ぐべ」


 立ち上がった三四郎は猟銃を肩にかけなおし、大介の後について、足跡の続く方へ歩き出した。


 太陽はどんどん昇り、いまや遠くの山なみまでもあかあかと照らし出している。


 今日も暑くなりそうだった。

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