最終章 廻りくる季節のために…

       一


 耕助とパティがもとの世界に戻ってから、すでに五ヶ月が過ぎ去っていた。季節は秋も半ばに差しかかり、朝夕はめっきり冷え込む候となっていた。

 そんなある日、山本が会社から帰ると一通の封書が届いていた。裏を返してみると、株式会社創始舎と、いう会社名が印刷されていた。そんな名前の会社には、山本はまったく記憶になかった。急いで書斎に行くと、さっそく開封してみた。すると中から印刷された一枚の文書が出てきた。開いてみると、そこには次のような文章が書かれていた。


謹啓 この度は弊社「小説バッシング」新人賞に御応募いただきまして、誠にありがとうございました。

数多くご応募いただいた中より厳正なる審査を致しました結果、貴方様のご応募された作品『翳りゆく季節の中で』が、最優秀新人賞に選出されましたのでご連絡申し上げます。

尚、詳しくは後日改めましてご案内いたしたいと存じますので、何卒よろしく御願い申し上げます。                                                                                                                                                                                                                                                                                  

                           敬白


「うわぁー、大変だー。こりゃあ、大変だぁ……。ど、どうしよう……」

 山本があまりにも大きな声で喚いているので、奈津実まで何ごとが起きたのかと飛び込んできた。

「徹さん、だいじょうぶ。どうしたの、いったい何があったの…」

 山本は、何やら手紙らしいものを握りしめて震えていた。

「な、奈津実…、こ、これを見てみろ…、大変なんだから……」

 山本から渡された手紙文を読んだ奈津実も、山本よりもさらに大きな声を出していた。

「うわぁー、こりゃあ、大変だわ。でも、やったじゃないの。すごいわよ。これー、新人賞だってぇ、すごいじゃないのよー。ばんざーい」

「奈津実…、オレ…、ホントに起きてるのか…、夢見てんじゃねえのか…、うわぁー」

 山本自身も新人賞に応募したことなど、すっかり忘れていたくらいだから、急に新人賞受賞の知らせを受け取ったのだから驚きというか、その衝撃の大きさはかなりのものだったのだろう。

 腕試しのつもりで応募した作品が、まさか新人賞を受賞するなどということは、普通なら絶対にあり得ないと思っていた山本だったが、現実に受賞という知らせを受け取ったのだから、山本にとっては青天の霹靂という言葉が、まさにピッタリと当てはまるのだった。

 徐々にその衝撃から解き放された時、一気に疲労が押し寄せてくるのをどうすることもできかった。会社に出勤する意欲さえなくしていて、考えた挙句体調がよくないという理由をつけて休みを取ったくらいだった。

 休みを取った以上、きょう一日くらいはゆっくり静養しようと、布団に潜り込んだ。精神的疲労のせいからか、山本はすぐに深い眠りの中に落ち込んで行った。

 そして、その中で山本は夢を見ていた。そこがどこなのか場所はわからなかったが、大きな河の畔を歩いている夢だった。ゆっりくとした足どりで、歩いているのか飛んでいるのかさえ、判然としない足どりで歩いている夢だった。ふと気がつくと、どこからか誰かが呼んでいる声が聞こえてきた。どうやらそれは男と女の声のようだった。

 初めは声が低くてはっきりとは聞き取れなかったが、次第にはっきりと聞き取れる高さになって行った。

「おーい、トオル元気でやってるかー。オレたちも元気でやってるぞー」

「トオルー、わたしも元気たよー」

 それは縄文時代に一緒に暮らしたカイラと、人喰い熊と戦って岩石の下敷きになって死んだムアイの声だった。

「おーい、お前たちどこにいるんだー」

 山本はふたりの姿を探そうと必死になっていた。

「おーい、オレたちはここにいるぞー」

「わたしもここにいるのよー」

 ふたりの声も必死に呼び掛けてはいたが、次第に遠退いて行き最後にはついに聞こえなくなっ行った。

「カイラー、どこだ。どこにいるんだー」

 そこで山本は夢から醒めた。

「徹さん、だいじょうぶ」

 山本が目を開らくと、奈津実が心配そうな顔つきで見つめていた。

「ずいぶんうなされていたようだけど、だいじょうぶなの」

「……うん、大丈夫だ。いま…カイラとムアイの夢を見ていた……」

「そう…、どんな夢だったの。いったい…」

「ふたりして、オレのことを一生懸命呼んでるんだ。『トオル、元気かー、オレたちも元気でやってるぞー』って、オレも『お前たちはどこにいるんだー』って必死に呼びかけるんだけど、そのうち声が遠退いて行ってしまって聞こえなくなって、そこで夢から醒めたんだが…」

「そう…。でも、すごくうなされていたから、心配したんだけど良かったわ」

「ところで、いま何時だ。お、もうこんな時間か、だいぶ寝たな。夕飯にはまだ早いな。よし、少し散歩にでも行ってくるか」

山本は公園までくるとしばらく時間をつぶし、やがてブランコのところまで来ると腰を下ろした。

『もう、あれから五・六年経つのか…。早いもんだよなぁ、月日が経つのって…。たけど、よくもまあ、あれほどいろんなことに巻き込まれたもんだ。われながら感心するよ、まったく…。でも、もうたくさんだな。オレもこの辺でもっとのんびり、ゆっくりと暮らしたいもんだよ』

 耕平や耕助、それに縄文時代の人々、さらにはパラレルワールドの自分たちと、数えれば枚挙に遑がないほどの、多くの人たちと出逢い、ともに語らいある時は励まし合って生きて来た山本だった。その山本も、それらの経験を題材して小説を書いて、世の人に認められたのだから感慨もひとしおだったのだろう。

「さて、行って見るか。奈津実も待っているころだからな」

 ひとり言のようにつぶやくと、山本はブランコから降りて家路についた。

 家に帰ると何やら奈津実が忙しそうに動き回っていた。

「おい、奈津実。お前うろうろ動き回ってるようだけど何やってんだ。それに何だい。この飾りつけは…」

「あ、これ…、徹さんには黙ってて悪かったけど、細やかながらあたしからの、お祝いをしたいと思ったの。それに河野さんご夫妻も呼んであるのよ。いいでしょう。あの人だって、徹さんのこと根っから期待してたんだから」

「オレは構わないけど、迷惑じゃないのかなぁ。河野先輩たち…」

「そんなことないって、絶対に喜んでくれるわよ」

「いや、そんならいいんだけど…」

そんなことを喋りながら、準備を手伝っていると奈津実が約束した刻限が近づいてきた。「あら、もうそろそろ時間だわ。徹さん、悪いんだけど飲み物を運んでちょうだい」

「ん、わかった」

 山本が飲み物を運び終えるのとほとんど同時くらいに、まるでタイミングを合わせたかのように河野夫妻が訪ねてきた。

「こんばんは」

「あ、先輩、いらっしゃい。きょうは奈津実のヤツが、わざわざお呼び立てたりしてすみませんでした。どうぞ、上がってください」

 山本は奥の部屋に宴会用に準備してある、テーブルへとふたりを案内して行った。

「いや、山本くん。今回は本当におめでとう。これは細やかながら、ぼくからのプレゼントだ。いつもは安物ばかりだけど、今回はちょっり奮発してヘネシーのVSOPだから、ぜひ飲んでくれたまえ」

「まあ、どうもすみません、こんな高価なものを頂いて、ありがとうございます」

 奈津実は強縮がって、お礼を言いなから何回も頭を下げていた。

「ありがとうござます。でも、いいんですか。こんな高いものもらっちゃって、先輩もかなり無理したんじゃないんですか」

「何を云ってるんだい。こんな物の一本や二本買ったってどうってことないよ。もっとも、XOクラスになると話は別だがね。これくらいならどうってことないよ」

 こうして「小説バッシング」の新人賞を祝う、山本家の小さな宴は始まったのであった。

「しかし、山本くんも水くさいぞ。そんな賞に応募したならしたで、どうしてぼくにもひと言くらい云ってくれなかったんだい」

「はあ、でも、そんなことを大っぴらに公言して、またボツにでもなったら恥ずかしいですし、それにオレ自身そんなものに応募したをの、すっかり忘れていたもんですから、それでつい……」

「まあ、そんなことはどうでもいいさ。とにかく、きみに才能があることを最初に見抜いたのは、このぼくなんだからね。ぼくにも人を見る目があったってことさ。ハハハハ、いや、実に楽しいね、今晩は。うん…」

 こうして河野は、上機嫌で得意の河野説やら将来の展望などについて、盛んにまくし立てて行った。

「だからだね。ぼくが思うに、きみはこれからもっと精進してどんどん書きまくりたまえ。そして、芥河賞はともかくとしても、直井賞でもなんでも貰えるものはじゃんじゃん取ってしまえばいいんだよ。ぼくは期待してるんだから、頑張ってたまえよ、山本くん。いやぁ、きょうは本当に気分のいい日だな。山本くん」

 河野は自分で持ってきたブランデーを注ぎ足すと、一気に飲み干してしまった。

 それを横で見ていた河野の妻が言った。

「あなた、そんなに飲んだら、身体に毒ですよ。もう夜も遅いんだし、そろそろお邪魔しましょうよ。子供たちも心配だし……」

「何を云ってるんだね。ぼくはこれから山本くんと、文学談議に花を咲かそうしてるんじゃないか。帰りたかったら、きみが先に帰ればいいいじゃないか。そうだろう」

「いいえ、そうは行きませんよ。こんなに遅く、そんな大きな声で騒いでいたら近所迷惑です。さあ、早く帰りましょう。さあ…」

河野は妻にしつこく言われて、やっと帰る気になったらしかった。

「では、帰るとするか。だけど、こんなのはまだほんの序の口だぞ。今度はぼくが本格的に祝ってやるから楽しみにしていてくれたまえ。じゃ、ぼくらはこれで失敬するよ」

 河野は自分でプレゼントと称して持ってきた、ブランデーをあらかた平らげると、妻に小言を言われながら帰って行った。

「やっぱり、河野さんを呼んだのって、間違ってたかしら。あたし…」

「そんなことはないさ。あの人はあの人なりに喜んでくれてたじゃないか。あの人は、ああいう人なんだからさ…」

「そうね。じゃあ、これから改めてふたりだけで、祝杯をあげましょうよ。いいでしょう」

「そうだな、そうするか。やれやれだったな。きょうは…」

 山本は河野のことにゲッソリしながらも、それから奈津実とふたりで祝杯を挙げた。

「はい、それではホントにおめでとうございます。これで、もう変な噂を流されずに済むわね。徹さん」

「ああ、あれにはホント参ったよ。いろんな人に同じようなことを聞かれて、いちいち違いますって、断らなくっちゃいけないんだから、あの時はホントに疲れたよ」

「そうよね。わかるわ、あたしも散々聞かれたから……」

「だけど、新人賞は取ったものの、これから先大丈夫なんだろうか。オレ自信ないんだよなぁ……」

「だいじょうぶよ。徹さんなら、あたし信じてるわ。さあ、呑みましょう。お祝いなんだから」

 こうして、ふたりでしばらく飲んで、寝についたのは午前二時を回った頃だった。


      二


 それから、一・二週間過ぎた頃になると、にわかに山本の身辺は慌ただしくなって行った。雑誌社や新聞各紙の取材攻勢が、山本家に押し寄せてきたからだった。

 まず最初にやって来たのは、『小説バッシング』を担当する創始舎の編集者で、来月号に載せる新人賞受賞の作者にコメントを取りに来たのだった。

「初めまして、私、創始舎で『小説バッシング』の編集を担当しております、笹木野と申します。この度は新人賞受賞おめでとうございます。つきましては、新人賞受賞について山本さんの慶びの言葉なり、コメントなどを頂きたいと伺ったわけですが、何かひと言頂けますでしょうか」

「コメントですか…、一体、何を話せばいいのか判りませんが…、とにかく…、ぼくは学生時代にちょっとばかり詩を書いてたくらいで、今回のような小説なんか始め書いたもので、まさか新人賞をもらえるなんて夢にも考えていませんでした。受賞の知らせを頂いた時には、どうしたらいいのか分からず、パニック状態になったことを覚えています。でも、とても嬉しいです。やっぱり…。

 こんなもので、いいでしょうか」

 山本がコチコチに緊張しながらも、新人賞受賞のコメントを述べ終えた。

「はい、どうもありがとうございました。今後も山本さんのご活躍を期待しております。では、これにて失礼いたします」

 創始舎の編集者は帰って行ったが、それからも入れ代わり立ち代わり、次々と新聞社やら週刊〇△やらがやって来て、日暮れも近い頃になると山本はまたしてもクタクタに疲れ切っていた。

「参ったなぁ、いつまでこんな状態が続くんだろう…。あー、疲れた、疲れた…」

「いいから、もう少し頑張りなさい、徹さん。それだけ皆さん、徹さんに期待してるんだから、我慢しなくっちゃ…」

「とにかく、オレは晩飯喰ったらすぐ寝るぞ。もう、クタクタで死にそうなんだら…」

「でもね。徹さん、もしもよ、もしもあなたの小説が売れて有名なったら、あたし小説家婦人なのね。なんだか、ワクワクしてくるわよね。ウフフフ」

「何バカなこと云ってんだ。早く飯にしろよ。まったく…」

「それじゃ、きょうはすき焼きでもしましょうか」

「何でもいいから、早くしてくれって云ってんだよ。オレは、さっきから…」

「はい、はい、わかりました。すぐ作りますから、待っててくださいね」

 奈津実は上機嫌て台所にいくと、鼻歌交じりで食宅の準備を始めた。

 山本が居間で待っていると、すき焼き用の食材を抱えてやって来た。

「はい、お待ちどうさま。それから、これはあたしの奢りよ。特上吟醸日本酒、これでも飲んでゆっくりと安らかにお休みくださいね」

「オレは死人じゃないんだぞ。何云ってんだ。バカ」

 奈津実からの、思いもかけないプレゼントの吟醸酒を飲みながら、山本は自分は何もしてやれないのに、いつも気遣ってくれる奈津実の心が嬉しかった。それを思えば日中の記者たちの応対による疲れなど、取るに足らない薄っぺらいもののようにさえ思えた。

 今日は今日であって、明日になれば明日の風が吹いて、また違う一日が始まるように、人間も一枚一枚古い皮を脱ぎ捨てて行かなければならないと思った。

 こうして山本は、自らの体力と気力を温存するかのように、いつもより早い時間帯に布団の中に潜り込んだ。

 翌朝、眼を醒ますと昨夜熟睡したせいか、ひさしぶりに爽快な気分で目覚めることができた。起き出して居間に行くと、奈津実が朝食の準備をしていた。

「どう、徹さん。少しは気分がよくなった。昨夜はかなり熟睡してたみたいだったから、いくらかは疲れが取れたのかしら…」

「うん、目が覚めたら昨日の疲れが嘘みたいに無くなってるんで、オレも少々驚いてたところなんだ。今日も取材が二件ほど入ってるから頑張らなくちゃいけないぞ」

「取材もいいけど、あなた会社のほうはどうする気なの」

「それがな。うちの会社は、こういうことにはわりと理解があるんだよ。部長に話したら、『こういうことは名誉なことじゃないかね。

 君、君の名誉はわが社にとっても名誉なことなんだ。わが社の宣伝にもなるし、特例として認めるから大いに頑張ってくれたまえ…』っと、いうわけで比較的自由に時間を使わせてもらえることになったんたけどな…」

「へえ…、案外革新的なところもある会社なのね…、ふーん」

 朝食を済ませると山本は、徐々にインタビューにも慣れてはいたものの、その日コメントを求められそうな内容を想定して、ある程度これなら納得できると思われる言葉を選んで、自分の暗記用にメモを取って準備をして置いた。準備を終えた山本は、インタビューは午後からだったので、気の向くままにブラっと公園まで散歩に出てきた。

 公園のベンチに座ってタバコを吸いながら、山本はこんなことを考えていた。

『いまは新人賞を取ったから、取材だインタビューだと騒がれているけど、こんなことが果たしていつまで続くんだろう……。そして、それにこんな形でオレが小説を書いて、もし作家なんかになっても本当にやって行けるんだろうか…。昔、ある作家が芥河賞を受賞したら、とたんに何も書けなくなったいう話も残っているし、オレなんかもきっとその口だぞ…。自信ないんだよな…。どうすればいいんだぁ…』

 将来的にまったく自信の持てない山本は、来る日も来る日も悩みに悩み抜いていた。

 そんなある日、山本はあることを思いついた。

『そうだ。どうして、いままで気がつかなかったんだろう。アイツに聞けばいいんじゃないか…。アイツ結構いい身なりもしていたし、金も持っていそうだったよな…。よし、これは絶対行ってみるべきだな。確か、住所はオレのところと一緒だったはずだ…』

 思いついたら、すぐに実行しなくては気のすまない山本は、二十三年後に住む未来の自分を訪ねて行くことにした。外に出ると人目のつかないところで、メモリーを二〇四四にセットするとスタートボタンを押した。

 瞬時に山本の体は未来の山本徹邸の前に立っていた。

『へえ、アイツずいぶん豪華な家に住んでんなぁ…』

 山本は恐るおそる呼び鈴を押した。すると、すぐさまガウン姿の白髪の混じった山本徹が出てきた。

「来たね。そろそろ来る頃だと思って待ってたんだ。まあ、未来の自分の家だと思って、遠慮しないで上がってくれたまえ」

 山本は書斎に通された。壁にはビッシリと書棚が設置されていて、そこには数えきれないほどの書籍が並べられていた。

「いま妻が飲み物を持ってくるはずだから、未来の奈津実の姿も見て行ってくれたまえ」

 山本はそわそわしながらも、腰を下ろして待っていると、コーヒーを持った奈津実が入ってきた。

「あら、徹さん、いらっしゃい、お久しぶりですわね。相変わらずお元気そうで何よりですわ。わたしはやっぱり徹さんと結婚して良かったと思っていますのよ。あの頃、わたしが云ったことを覚えてらっしゃいますかしら。わたしはあなたに、もしあなたの作品が売れて有名になったら、わたしは小説家夫人になれるんだって、云いましたわよね。そうしたら、その通りになれたんですもの、こんな素晴らしいことはありませんわ。あら、ついお喋りをしてしまいましたわ。どうぞ、ごゆっくりして行ってくださいね」

 すっかり恰幅の良くなった未来の奈津実は出て行った。それでも山本は、奈津実が昔と同じように何の屈託もない明るい性格であることに、何となくホッとしている自分に気がついていた。

「そうだ。いい機会だから、ちょっとこれを見てくれたまえ。これは、ぼくがこれまでに書いたというか…、きみがこれから書こうとしている本の全部だ。いまのところはね…」

 山本が目をやると書棚の一角に、背表紙に山本徹著と記された書籍が二十数冊も揃えてあった。

「だから、この際だ、必要なところがあれば構わないから、何でもメモするなりコピーするなりして持って帰るといい…、必要ならコピー機もあるから使うといいよ」

「でも、それって歴史というか、未来に干渉することになるじゃないのかい…」

「うん、ぼくも確かに昔は、そんなことを考えていた時期もあったよ。

 しかしだね。歴史なんてものは、縄文時代にしたってぼくがかつて自分で造って、そのまま放置してきた縄文土器にしても、この街の縄文遺跡展示館に行けば、普通の発掘物として展示されているんだから、そんな物はどうってこともないんだよ」

「とところで、オレがアンタののとこを訪ねてきたのは…」

「解っているよ。ぼくはすでに経験済みだからね…。きみは新人賞を取ったものの将来の自分に対して不安になった。そこで、未来の自分であるぼくのところに様子を見に来た……。まあ、そんなところだろう。違うかね…」

「その通りなんだけど…、未来が分かるって便利な反面、オレにはどうしても知らないほうが良かったって云う部分があるんだよ」

「うむ、それは確かにそうかも知れないけど、的確な未来を知るということは、自分がこれから先どう進めば、最善の道が開けるかを知る方法でもあるわけだから、それはあんまり考えないほうがいいと思うよ。ぼくは」

「そうか、そういうことも云えるよなる。確かに…、今日は突然お邪魔してしまったけど、過去のバカな自分が来たと思って許してくれ。じゃ、オレ行ってみるから…」

「あ、ちょっと待ちたまえ。きみにひとつだけ、忠告しておきたいことがあるんだ。タイムマシンは、本日ぼくのところに来たのを最後にして、あまり使わず封印したまえ。そのほうが、きみのためにも絶対にプラスになるはずだから、ぜひ、そうしたまえ。ぼくはあの時、きみに送ったからいいんだけど、思い出してみたまえ、きみにも覚えがあるだろう、マシンを使ったおかげで、さまざまな危険に出くわしたことを。だから、あえて忠告するんだ。そうしたまえ、悪いことは云わないから…」

「ん、わかったよ。帰ったらよく考えてみるから、じゃあ、行ってみる」

 山本は未来の山本邸を出ると、二十一世紀のわが家へ帰ってきた。

 帰ると書斎に行って、話があるからと言って奈津実を呼んだ。

「なーに、徹さん。お話しって…」

「うん、実はな。オレいま二十三年後に行って、未来の自分に逢って来たんだ…」

「え、何で…、とうかしたの…」

 突然の話に、奈津実は目を丸くして聞き返した。

「オレは今回、運がよかったというか、まぐれにしても新人賞を取ったろう。それでもこれから、もし小説なんかを書いても、やって行けるのかどうか心配だったんで、未来の自分に聞きに行ったんだ」

「ふーん、それで……」

「そしたらな、場所はここと同じなんだけど、ものすごい豪邸に住んでいたんてビビっちゃったんだけど、訪ねて行くと本人が出てきて、オレが来るのを待っいたと云うんだ。

 話を聞いてみると、一度経験していることだから、今日オレが訪ねて行くことわかっていたって云うんだよ。そのうち未来の奈津実がコーヒーを運んできて…」

「え、ねえ、未来のあたしってどんな感じだったの…。それに未来の徹さんはりっぱな小説家になって、あたしは小説家夫人になってた……」

「ああ、そうだよ。ちぇ、まったく同じことばっかり云いやがって。あれは、間違いなく二十三問後のお前の成れの果てだったよ。何だい、まったく…」

「何よぉ、何をそんなに怒ってるの…。ねえ、徹さん。何かあたし悪いことでも云った…」

「何でもねえよ。ただ、未来の奈津実もお前と同じようなことを云ってたから、ちょっと頭に来ただけだ」

 山本は未来の奈津実が言った言葉、『あなたと結婚して良かった』という、言葉をまざまざと思い浮かべていた。ここにいる奈津実も、そう思ってくれているのだろうか。確か未来の自分たちにも、子供がいる様子が見られなかったのが不安だった。

「なあ、奈津実。もしもこのまま、オレたちに子供が出来なくても、お前はオレと結婚して幸せだったと思ってくれるかい」

「何云ってるの、徹さん。いまさら、うわぁ、恥ずかしい……」

「いや、未来の奈津実がオレにそう云ったんだ…」

 山本は奈津実の顔を両手で支えるようにすると、その奈津実の瞳をじっと見つめた。


      三


 そして、いよいよ「小説バッシング」最新号の発売日がやって来た。

 山本は朝起きると、ソワソワしながら書店の開店する時間を、いまや遅しと待っていた。

「おい、ダメだあ、待ち切れねえ。オレ本屋に行ってくる。本屋に行って、開店したらすぐ買ってくるから待ってろよ」

 そう言いうと山本は、まるでつむじ風のような速さで、書店を目指してすっ飛んで行った。

「あーあ、ホントにせっかちなんだから徹さんは、あの性格は死ぬまで治らないわね。おそらく……」

 真奈美は半ば諦めたようにつぶやいた。

 書店に着いても、なかなか開かない店の前で、タバコを吸いながらイライラを募らせて待っていると、ようやく親爺がカーテンを開け始めた。

 親爺が鍵を開けるか明けないうちに、すばやく中へ入り込んだ

「親父さん、今日はいつもより店を開けるの遅いんじゃないの」

「いや、うちはいつも通りの時間に開けてますよ。山本さん。そうそう、読まさせて頂きましたよ。あなたの作品、新人賞なんて、素晴らしいですなぁ。はい、これ…」

 店主は最前列に積み重ねられてあった、新刊の雑誌を取って山本に見せた。

「こ、これ、これですよ。オレが買いに来たのは…」

 表紙には、新人賞決まる!受賞作「翳りゆく季節の中で」山本徹と、ゴシック体の文字が印刷されていた。

 山本は慌ただしく五・六冊買い込むと支払を済ませた。

「でも、そんなに買ってどうなさるんですか。山本さん」

「いや、人にも上げようかと思って…」

「そうですか。それではどうも、マイドアリー…」

 いつもの声を背中で聞いて、山本は急いで帰宅した。

 家に帰るなり、奈津実を探していると風呂場の横で、洗濯をしている最中だった。

「あら、早かったのね。買ってきたの…」

「洗濯なんてどうでもいいから、早く茶の間のほうに来いよ、早く…」

 急かせるようにして奈津実を居間に連れて行った。

「とにかく、これを見てみろよ。表紙のところに、オレの作品名と名前が載ってるだろう…」

 と、言いながら、山本は買ってきた雑誌を、レジ袋から取り出して奈津実に渡した。

「まあ…、でもこんなにたくさん買って、どうする気なの…。もったいない…」

「また、勿体ないか…。これはな、河野先輩とか会社の人とか耕平の小母さんにあげるんだよ。何が、勿体ないだよ。まったく、それに今回のことでは、かなり融通を利かせてくれたんだから、これくらいのことは当然だろう」

 奈津実は無言のまま、改めて活字になった山本の作品を読み入っていた。

 ふたりともひと言も口を利かないで、読み返していたが最初に読み終えた奈津美が言った。

「うん、確かに面白いし新人賞を取るだけの力量も持ってると思うわよ。たけど、あたしはちょっぴり不満だなぁ…」

「え、どこだ…。何が不満なんだ……」

「だってねえ、徹さん。この作品、途中まではともかくとして、最後のほうになるとすべてが丸く収まって、みんなハッピーエンドで終わってるじゃない。

 読者の中には、少しぐらいは哀しい部分を含ませた終わり方を好む人だっていると思うのよ。あなたはどう考えてるか知らないけど……」

奈津実は山本の作品を読み終えて、自分で感じた感想を述べた。

「そうかなぁ…、オレはこれでいいんだけど、読んだ人の感想もあるだろうから、それは今後の課題にしておくよ。だけどなぁ…、未来の自分から『きみにはこれだけの実績が残されているんだから、大いに頑張ってくれ』って、励まされたんだけど、オレ正直云ってそんなことやるのって全然自信がないんだよな……」

「あら、だって、未来のあたしは喜んでたんでしょう…」

「それは、そうだけどさ…」

「だったら、大丈夫よ。頑張りなさいよ。このあたしが付いているんだから」

「何だい。他人事だと思って、いい加減なことばかり云ってんじゃないよ。お前は奈津実大明神様にでもなったつもりなのかよ」

「云ったわね。何よ。あなただって山本徹なんていう名前だから、『徹』は『通る』に通じるから、よっぽど話が分かる人だ思っていたら、こんな唐変木のスットコドッコイだとは思わなかったわよ。もう、知らないから…」

「ふん、唐変木でも何でもけっこう。勝手にしろ…」

 そう言い捨てと、山本は外に出て行った。出て来てはみたものの、別に行く当てはなかった。が、ふと思い出して恵比寿神社を目指していた。神社の裏手に廻ると古い切り株に腰を下ろした。

『耕平のヤツは、いまでも自分の出生の秘密を気にしてるというのに、一体オレは何をしているんだろう。あんなつまらないことで奈津実と口喧嘩なんてしている場合かよ……。それにしても、あの小母さんだって坂本耕助が、実は自分の息子の耕平だったということを、わかっているのかどうかもオレには全然知る術もないし、一体なんでこういうことになっしまったんだよ…、まったく。

大体において元を正せば吉備野博士が、数奇だかなんたかオレにはまったく解らないけど、耕平の運命に興味を持って、あんなタイムマシンなんかを置いて行くから、こんなことになっちまってるんだぞ。一番迷惑して、どうしようもなく果てしもない迷宮に入り込んでいるのは、このオレなんだぞ……。そこのところをホントに解っているのかよ。吉備野博士は……』

しかし、そんなことをいくら考えても、何にもならないことは山本にも分かってはいたが、それでもこの迷宮から抜け出すためには、何かを考えずにはいられない山本だった。

『そうだ。オレのマシンにも次元転移装置を付けてもらったはずだから、異次元に行って耕助に相談してみよう…』

 思いついたら最後、自分ではどうしてもブレーキの利かない山本は、居ても立っていられず佐々木耕助のところを訪ねていた。

「…と、いうわけで来てみたんだけど、オレは気が短くってイライラのし通しなんだよ。そこへ行くとお前なんかは耕平と一緒で、わりとのんびりしているタイプだろう。そこを見込んで彷徨える子羊を助けると思って、せめて正確でなくてもいいから何とか解決への糸口でも何でもいい、とにかくオレに協力してくれないか。頼む、耕助」

「んー、そう云われてもなぁ…。雲を掴むような話だし、一体どこからどうやって調べたらいいものなのか、どうしようもないと云ってしまえばそれまでなんだが、うーん、実に困った問題だな。これは……」

 と、言ったまま、しばらく何かを考えていたが、ふいに顔をあげて山本を見た。

「そうだ。これがあったんだ。いいか、山本。ここにはもうひとりの山本徹がいるじゃないか…」

「ん、それがどうかしたのか…」

「まだ、わからないか。アイツはお前と同一人物だろうが…、それにアイツはこっちの世界ではお前と違って、あっちの世界でお前が経験したようなことは、こっちではまったくしてないんだから冷静に物事を判断できると思うんだよ。だから、アイツを呼んで相談すれば、もっと的確に話が進むと思うんだが、どうだい…」

「うーん、そういう手もあったか…、よし、『溺れる者は藁をも掴む』って云うから、呼んでくれ」

「ん…、でも、ここじゃ、まずいな。もし、同じ山本がふたりいるのをおふくろにでも見られたらコトだし、ホテルを予約しよう」

 そう言って、耕助は山本Bとホテルに電話すると、まもなくふたり揃って出かけて行った。

 三人はホテルで待ち合わせてキープした一室に入った。

「来た早々で悪いんだが、さっそく話を始めようじゃないか。どうだい、ふたりとも…」

 耕助はふたりの顔を見ながら切り出した」

「ああ、オレならいいよ」

 ふたりの山本は、同一人だけあって異口同音に答えた。

「それじゃ、何から話そうか…。うーん、まず、こっちの山本は次元の違うほうの山本とは、過去の記憶はともかくとして、いまはまったく違う歴史の中を歩いているんだ。だから、いつも話しているからどんな環境で過ごしているか、大体は知ってるよな」

「ん、大体はな…」

 山本Bは軽く頷きながら答えた。

「それに、オレと一字違いで、ここにいる山本たちと同じでやはり同一の人格を持っている、いまは縄文時代に行ってしまった佐々木耕平も、自分自身の出生の秘密というか、自            分の父親はなぜ自分なのかという、世にも難解な問題にいま以って悩み苦しんでいるいう。

 この辺の問題をどのようにすれば解決の糸口というか、それらの事柄をきれいさっぱりさせるために、どのような手立てがあるのかを一緒に考えたいと、諸君に集まってもらったんだが、誰か意見のあるヤツはいないのか…」

「ん、そっちの山本もそうだと思うんだけど、オレは中学時代からSFが好きで読んでいたから、大概のこと判るつもりだ。そのパラレルワールドもしかり、だが、その佐々木耕平が抱えているタイムバラドックスの、まるっきり逆みたいな話はあまり聞かないし記憶にもないな…」

「うーん、やっぱりな…。オレも読んだことも聞いたこともないから、困り果ててここまで来たんだけど、どうすればいいんだろう…。何とかして、耕平の苦しみを取り除いてやりたかったのになぁ……」

山本Bの言葉に落胆の色を隠せないまま、山本は大きくひとつため息を吐いた。

「だけど、不思議な点もあるんじゃないのか…」

「例えば…」

「どんなことだ…」

 山本Bが漏らした言葉に、今度は山本と耕助がほとんど同時に聞き返した。

「ん、例えばだよ。『メビウスの輪』ってのがあるじゃないか。

 あれを始点からずーっと指で辿って行くと、最後に始点まで戻た時には、始点と終点の位置が反対になっているじゃないか。だから、宇宙の目に視えないところでも、何かの繋がりが逆転してるんじゃないのかなあ…。と、思ったまでで、いまのとこ思いつくのはこんなことくらいかな」

「へえ、しかし、お前もよくそんなことまで思いつくもんだよ。オレなんかじゃ、とてもじゃないが、そんなところまでは及びもつかないよ」

 耕助は感心したように、半ば呆れたような顔で言った。

「いや、そうでもないかも知れないぞ。これは…、なぁるほどな…。オレもそこまでは考えなかったなぁ。でも、どうやって、その捻じれだか歪みを元に戻せばいいんだろう。

 これだって、パラレルワールドと同じように目に視えない世界の話だろうが…」

 それからも三人は熱心に、耕平の秘密の解明について語り合ったが、そうやすやすと答えの出る問題でもなかった。

「このままオレたちだけで、話しをしていてもどうしようもないぞ。ここはもう一度、吉備野博士に相談して、ご意見を伺ったほうがいいんじゃないのか…」

 耕助の提案にふたりの山本も賛成した。

こうして、三人は引き続きこの問題について、定期的に話し合いを持つことで合意して、山本は帰ろうとして時計を見た。時計の針はすでに三時二十分を過ぎていた。

「お、これはヤバイ、早く行かなきゃ。太陽が沈んだらマシンが動かなくなっちまう。それじゃ帰るから、またな……」

 山本は急いで外に出ると、メモリーを合わせながら空を見上げた。太陽ははまもなく沈みかけているようだった。

『間に合ってくれよ…』

 スタートボタンを押すと、周りの景色は揺らぎ始め次の瞬間、ガクーンという大きな衝撃を受けて、山本はその場に倒れ込んで気を失ったようだった。


      四


 どれぐらい倒れていたのか、記憶が戻ると山本は自分がゴツゴツした、岩場のようなところに倒れていたことに気がづいた。時計を見ると八時をわずかに回っていた。辺りはすっかり暗闇に覆われていても、不思議に周りの風景がハッキリと見えていた。よく見ると、そこは昔映画で見たことのある、この世とあの世の境にあると言われる、三途の川の賽の河原のような場所であることが判った。そして、至るところに積石塚と呼ばれている、小さな小石を積み上げた「ケルン」のようなものが置かれてあった。

『あれ、だけど、オレはどうして、こんなところにいるんだろう……。そうだ。思い出したぞ。耕助のところから帰ろうとした時、日没ギリギリだったんだっけ、始動ボタンを押した途端にすごい衝撃を受けて……、それから後は全然覚えていないや…。まさか死んだんじゃないよなぁ。ここが本物の地獄だなんてことはあるわけないよな。絶対に……』

 山本はやっと自分が、ここにやって来た過程を思い出したようだった。

『いまは夜のようだし、マシンは使えそうにないなぁ…。しかし、何だか知らないけど、妙に周りの景色かはっきりと見えるのはなぜだろう…。もしかすると、また違う超空間にでも迷い込んでしまったんだろうか……』

 それでも、ただ手を拱いているわけにも行かず、山本は思いつく限りのことをやって見ようと考えていた。まず、超空間なら自分の思い通りのことが実現できるはずだから、最初に元いた世界に戻ることを念じてみた。しかし、山本がいくら念じようとも何の変化も見られず徒労に終わった。

『これはダメか…。あとは何ができるだろう…。ここがどこなのかも解らないんだから、吉備野博士に連絡も取れないだろうし、これはホントに困ったぞ……』

 だが、その時、山本はあることに思い当たった。

『ん、だが待てよ。このタイムマシンは太陽光エネルギーを使って、時空間やを移動しているんだったよな…。だとしたら、時空間の移動には膨大なエネルギーを使うが、一般的なソーラー発電だっていくつかの充電装置はついてるはずだぞ。これはオレの思い違いかも知れないが、このマシンにだって博士に連絡できるくらいの余裕は残っているはずだ。

 それに七百年先の科学技術と云ったら、オレたちの想像もつかないくらい進歩してるんだろうから、少しでもこちらの波長の片鱗でも捉えてくれたら、ここがどんな場所であってもきっと探し出してくれるはずだ。とにかく、やってみる可能性はありそうだ。よし…』

 山本は岩場にそのまま腰を下ろすと、吉備野博士との連絡用に設定してある送信ボタンを押した。そのままの状態で、しばらく待ってみたが何の反応もなかった。

『やっぱり場所がはっきりしないのかな……。それとも、オレがあの時ほんとうに死んでしまって、ここは本物の地獄なのかよ……、冗談じゃないぞ。奈津実…、そうだよ。オレには奈津実がいるんだから、簡単に死ぬわけには行かないんだぞ。クソ―…』

それでも、ここがどこなのかはっきりとはしなくても、この地獄のような得体の知れない場所を、山本はしばらく彷徨う羽目になってしまった。どれくらい歩き続けただろうか。どこまで行っても小さなケルンのような積み石が立ち並ぶ、果てしもなく続く荒涼とした岩だらけの大地を歩いて行くと、山本は急に云い知れないほどの空腹感と渇きを覚えた。

こんなところでは腹が減ろうが喉が渇こうが、どうすることも出来ないことは山本も充分わかっていた。

『オレは本当に死んでしまったのかも知れないな。そして、多分ここは地獄なんだ。それも空腹に苛まれる餓鬼地獄なんだ。オレはとうとう餓鬼地獄に落とされてしまったんた…。どうしよう……』

 何時間歩き続けたかわからない山本は、ヨレヨレのボロ雑巾のように疲れ切っていて、もう一歩も歩ける状態ではなかった。山本はついに力尽きたように、バッタリとその場に倒れ込んでしまった。

 それから、どれくらいの時間が経ったのか、山本はまだその場所に倒れ込んだままになっていた。しばらくすると、そこに数人男たちがやって来て、ひとりの男が山本が倒れているのを発見した。

「先生、山本さんがここに倒れております。体力がかなり消耗しているようです」

「うむ、これはいかんですな。いますぐ『協力体力補強剤』を投与してあげなさい」

 吉備野が指示を出すと、助手の一人が特殊な機材を山本の額に当てて治療を施した。ものの五分も経つか経たないうちに、山本はすっかり元気を取りもとしていた。

「あ、博士、どうもすみません。オレ、もうダメかと思いましたよ…。助けに来てもらって、ありがとうございました」

「山本さんから送って頂いた、信号の波長があまりにも微量なものだっために、ここを特定するのに時間を要して遅くなってしまいましてな。誠に以って面目次第もございません」

「いや、そんなことはまったく構いませんが、この地獄みたいなところは一体何なんですか。博士」

「いやぁ、それを云われると私も耳が痛いのですが、実のところ私にもまったく理解することが出来兼ねるところでもあります。かつて自然消滅しました『超空間』のようなものなのか、あるいはまったく別種のものであるのか、いまのところ皆目見当もつきません…。いずれにしましても、ここも危険極まりないことだけは確実のように思われます。山本さんは、私がお送りいたしましょう。きみたちは先に戻っていなさい」

 吉備野が言うと、助手たちは一斉に姿を消して行った。

「さて、私たちも参りましょうかな。山本さん」

「あ、それでしたら、オレの部屋まで直接送って頂けませんか。少しお話がありますもので……」

「よろしいでしょう。では…」

吉備野がコントローラーを操作すると、ふたりの姿は一瞬にして山本の部屋にあった。

「少し散らかっていますが、どうぞ、その辺に腰を下ろしてください。博士にはいつも変ことばかりお願いして、ホントに悪いと思ってるんです」

 山本と吉備野は向かい合うように腰を下ろした。

「それで、そのお話しというのは、どのようなことですかな。山本さん」

「はい、そのことなんですが、ひとつには耕平の過去のことなんです。耕平の父親が耕平自身であるいう事実は、どう考えてみてもわれわれの頭では、到底及びもつかないことでありまして、その辺のところは博士が究明されているのではないかと、佐々木耕助ともうひとりの山本徹が云ってましたので、ぜひ博士のご意見をお聞きしたいと思ってました。どうですか、その後の成果のほうは……」

「うーむ…、それを聞かれますと、またまた耳の痛いところですが、私のほうでも懸命に研究を進めているところなのですが、いま以って回答の糸口さえ掴めていない現状なのです。然るにこの問題と云いますか、この課題につきましては、おそらくは永遠の謎となる可能性が高いと思われるのです。われわれの時代の科学を以てしても、これ以上の解明は困難かと考えられております」

「そですか。博士の時代でも不可能なことはあるんですか……」

 山本は吉備野の話を聞いて、気落ちしたようにガックリと言った。

「それともうひとつお話があるのですが……」

「それはどのようなことですかな」

「はい、それは…、今回のことと云い『超空間』のことと云い、あまりにもいろんなことに出くわし過ぎたようにも思うんです。オレも、もうそんなに若くない年齢に差しかかっていますし、もし今回みたいに万一のことがあったら、妻の奈津実が哀しい思いをするんじゃないかと考えました。ですから、この辺でタイムマシンを使用するのは止めようと思ってるんです。タイムマシンは実に素晴らしい機械ですが、これを博士にお返ししようと決心しました。いかがなものでしょうか…」

「そうですか…、しかし、それは山本さん、あなたご自身でお持ちなっていたほうが、よろしいのではないかと思いますよ。使用したくなければ、封印するなり何なりすれば済むことですからな。それに持ってさえいれば、いずれは必ずお役に立つこともりますぞ。付け加えさせて頂ければ、私にはあなた方が決してRTSSを悪用しないことは、歴史的に解っていますから安心しているのです。そろそろお暇いたしましょう。いつでも困ったことがありましたら、すぐにでも飛んでまいりますので、どうぞ。ご機嫌よろしゅうに…」

 そういうと、吉備野の姿は山本の部屋から見えなくなっていた。

「おーい、奈津実ちょっと来てくれ」

 山本が呼ぶと、パタパタという足音がして奈津実がやって来た。

「あら、徹さんいつ帰ったの。さっき覗いた時にはいなかったのに……」

「うん。いましが吉備野博士に送ってもらって戻ったばかりなんだ。実はな、奈津実オレは今日死ぬかと思ったんだ…」

「え、どうしたの。一体」

「異次元の耕助のところに行って、もうひとりのオレ山本Bも加えて、三人で耕平の過去について相談してたんだ。相談とは云っても素人の集まりだから、大した意見も出るわけでなく、オレは日没が近づいてたんで、慌ててふたりと別れて帰ろうとしてたんだ。

 オレが始動ボタンを押した途端に、ガクンと物凄い衝撃を受けて、どこだか判らないけど堕ちて行ったんだよ。気がつくとオレは気絶していたらしく、周りは真っ暗な夜になっていた。普通なら真っ暗で何も見えないはずなのに、妙に周りの風景がはっきりと見えていたんだ。その景色というがなんだと思う、奈津実」

「さあ、何かしら、分かんないわ……」

「それがな。昔、本とかテレビや映画かなんかで見た地獄の三途の川にある、賽の河原そっくりのところだったんだ。オレはどうしようもなくて、吉備野博士に連絡を取ったんだが何の反応なくて、それで仕方なく歩きだしたんだ。どれぐらい歩いたのか、丸っきり覚えてないくらい歩いて、そのうち急に飢えと渇きに襲われて、オレはその場に倒れていたらしい……」

「それで、どうやってこっちに戻れたのよ…」

「ふと気がついたら、吉備野博士たちが助けに来てくれいたんで、オレはこの通り無事に帰って来れたってわけだよ。良かっただろう。オレが死ななくて」

「いやよ。あたし、いまから未亡人になるなんて、絶対にイヤだからね」

 奈津実は泣き出しそうな様相で、山本に縋りついてきた。

「大丈夫だよ。だから、オレは今日からタイムマシンを使うことは止めにしたよ。もしも、オレに万一のことあったら、お前が可哀そうだろう。だから、止めることにしたよ。それでいいだろう。奈津実」

 ふたりは抱き合ったまま、しばらく動こうとはしなかった。

 ふたりの周りにも冬が訪れて、また桜の季節がやって来た。新人賞を受賞した山本の小説『翳りゆく季節の中で』も、初の単行本化されるとたちまち百二十万部という、新人としては驚異的な売り上げを記録して、街でもすっかり有名人になっていた。

 当の山本はというと、あちこちの出版社から原稿依頼を受けて、会社勤めどころではなくなり、この三月で退社することを決め、専業作家の道を進むことになっていた。

 そんなある日、朝からのポカポカ陽気に浮かれたように、山本は今年も耕平の母の亜紀子を誘い、奈津実と三人でいつもの公園で花見をやっていた。

「小母さん、去年も天気がよかっけど、今年もまた格別にいい天気ですね」

「ホントだわね。今年もまた暖かくなって、桜の花が見られるんですもの、神さまに感謝しなきゃいけないわね。それよりも、徹さん。あなたの書かれたご本、あたしも遅ればせながら読まさせて頂いたわ」

「そうですか…。それで、どうでしたか。小母さんの感想は…。オレも感想と云ったって、うちの奈津実と河野先輩のくらいしか聞いてないので、小母さんの感想も、ぜひ聞かせてください」

「そうねぇ…、あたしは難しいことは解からないけど、とても面白かったわ。よくこんなお話しを書けるもんだと感心したわよ。昔は耕平とふたりで鼻を垂らしながら遊び回っていたのにねぇ……」

「いや、小母さん、それは云いっこなしですよ。参ったな……」

「あら、そうだったわね。ごめんなさい、ホホホホ」

「でも、子供の頃って、誰だって鼻水を垂らしてるんじゃないのかしらね…」

 奈津実が間を取り持つように言った。爽やかな風が吹きすぎて行き、桜の花びらが舞いながら静かに散った。

 山本はひとりで立ち上がると、遥かな遠い山並みを見つめながら想った。

『アイツも読んでくれただろうか……』

 山本はタイムマシンを封印する前に、奈津実には内緒で縄文時代の耕平に自分の本を手渡して来ていた。やがて季節は廻り、移ろって行くだろう。そして、また来年も素晴らしい季節が廻ってくるのに違いななかった。いま縄文時代で平和な生活を営んでいる耕平やウイラ、そして、カイラとの間に生まれた娘のライラたちの幸せを、山本は心から祈らずにはいられなかった。


      エピローグ


 それから早くも二十三年の歳月が流れ去っていた。

 山本徹は「小説バッシング」の新人賞を受賞してから、会社に通勤しながら地道に作家活動を続けて、次々と新しい作品を発表して行き、いまでは中堅を通り越しすでにベテランの域に達していた。

 若い頃は気が短くてせっかちだった山本も、いまではすっかり落ち着きを見せて、知らない人が見たらどこかの会社の社長とも、見えるほどの風格も備わってきていた。

 この日も仕事の合間を見つけては、息抜きを兼ねて公園まで散歩に来ていた。山本はブランコのところまでくると、いかにも懐かしいそうに眺めるとひとつため息を吐いた。

『すべては、みんなここから始まっだなぁ…。耕平はいま頃どうしているかなぁ…。最後に逢ってから、どれくらい経つんだろう』

 山本は手帳を取り出して計算してみた。

『そうか…。新人賞の受賞の知らせを受けた頃だから、もう、二十三も経つのか。「光陰矢の如し」とは昔の人はうまいことを云ったもんだ…』

 山本はベンチのところまでやって来ると、いつものようにポケットからタバコを取り出して火をつけた。まだ日暮れになるのには余裕もあり、陽射しほうも充分に暖かさが感じられていた。

「よお、山本くんじゃないか。だいぶご無沙汰だったけど、元気そうで何よりだね」

 声のするほうを見ると、小さな男の子を連れた河野が近づいてきた。

「ああ、河野さんお久しぶりです。お孫さんですか」

「そうなんだよ。うちの長男の息子さ」

「お宅は家族もたくさんいて羨ましいですよ。ぼくのところなんか、女房とふたりだけですから、ひっそりとしたもんですよ」

「いや、そうでもないんだよ。息子ばっかりだから、盆や正月になると息子たちがそれぞれ家族を連れてくるから、うるさくて堪ったもんじゃないんだ」

「でも、いいことですよ。家族が多いってことは…」

「そうかい。ぼくは全然そんなふうには思えないけどねぇ。きょうだって、ぼくが本を読んていたら、うちの嫁がこの子がむずかるから、どこかに連れてっていうから連れてきただけど、大変なんだよ。これでも…」

「でも、いいですよ。やっぱり家族が多いのは…」

「そうかなぁ…、あ、そうだ。思い出した。本と云えば、きみの書いた作品はぼくも読ませてもらっているんだけど、相変わらず面白い話ばかりで毎回楽しみにしてるんだけどね。ぼくの先輩から入った情報によると、きみの書いた作品群はどうやら今年の直井賞にノミネートされそうだと云うんだよ。良かったじゃないか。ぼくも楽しみにしてるんだ。ぜひ、頑張って直井賞を取ってくれたまえ」

「本当ですか、それは…、先輩」

「うん、極秘情報なんで確かなことは判らないけど、まず間違いないと思うよ。じゃあ、ほくはこの辺で失敬するよ。それでは…」

「はあ…、どうも……」

 河野は小さな孫の手を引いて帰って行った。山本は、ひとりポッンとベンチに座っていた。

『このオレの作品が直井賞……、もし、それが本当だったら、今度こそ最後に、本当に最後に縄文時代に行って、耕平にも知らせてやろう』

 あの日、縄文時代に行って自分の本を渡して来てから、タイムマシンは封印したまま一度も使用していない山本だった。

『いま何時だろう……』

 山本は腕時計を見た。三時四十六分を少し回ったところだった。

『もう、こんな時間か…。そろそろ来る頃だな……』

 そんなことを考えながら、タバコに火をつけて待っていると、後ろのほうから誰かが近づいてくる足音がした。

「あの…、ちょっとお聞きしますが、山本…徹さんでしょうか……」

                          完了      

2021.02.19.by haruo sato



       あとがき


 やっとというか、身も心もズタズタになりながら、どうにか完成させることができた。振り返えり見れば、実に足掛け五年という長きに渡って、書き上げることができた作品でもあった。また、いまになって思えば気の遠くなるような、「廻りくる季節のために」「縄文編」「パラレルワールド編」と合わせて、三部作という大長編になってしまったわけだが、一作目を書き終えた時点で、二作目に繋がるような終わり方をしてしまったわけで、縄文編を書き出す羽目になってしまった。

 ところが、縄文編を書き始めてみると終りに近づくにつれて、またまたパラレルワールドがちらほらと出てくるような筋書になって来て、どうしてもこのまま終わってしまうわれけには行かなくなった。

 と、いうようなわけで、パラレルワールド編もついに終わりを迎えたわけで、もうこれ以上は絶対ないと断言しておく。なぜなら、パラレルワールド編の終わり方を見ればわかるとおり、次に繋がるような要因は何ひとつとして残されていないからである。

 私が「廻りくる季節のために」を書き始めた当初、ほんの脇役のつもりで登場させたはずだった山本徹が、縄文編・パラレルワールド編ではついに主役を勝ち取ってしまった。

 このことについて一言書かせてもらえるならば、私にしてみれば山本徹のほうが書きやすいし、動かしやすい人物だったからに他ならない。この物語の中に出てくる登場人物たちは、すべて私が創り出した人物であるから、それぞれに応じた愛着を持っている。それだけにひとりでも無駄死にをさせたくないと思っていたが、それでもここまで物語を進めるために結構数多くの人々を殺してしまっている。

 だからといって懺悔するつもりではないが、一番殺したくなかったのは人喰い熊に殺された縄文時代の山本の妻カイラと、人食い熊と戦って巨岩に押し潰されて死んだ、邑一番の怪力を誇り山本を慕っていた心優しいムアイという男だった。それらの人物もさることながら、耕平の妻ウイラやその息子コウスケ、カイラとの間に生まれた山本の娘ライラについても、あまり詳しい描写はしなかったものの、私なりにやはり愛着を持って書いてきたつもりである。

 実のところ、このあとがきを書いている現在でも、最終章の一を書き終わったばかりなのであるが、間もなく完成する見通しもついてホッとしているところでもある。

 これからも創作意欲が喪失しない限り、新しいものに挑戦していくつもりなので、見守って頂ければ私にとっても幸いである。


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廻りくる季節のために パラレルワールド編 佐藤万象 @furusatoha

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