無事に出られる病院

只野夢窮

本文

 ふと目を開けてみると、真っ暗で何も見えない。それどころか……体が丸ごと袋に入っているようで、腕も足も袋の中で動かすことしかできない。寝袋の中で寝た覚えはないのだが、と思ったけれども、そもそも寝る前の記憶がない。つまり今目を覚まして袋の中でもぞもぞしているのが、私の持つ全人生の記憶である……まったくトンデモナイことだが、不思議と焦りや恐怖と言う感情が湧かない。記憶を失う前の私は、こんなことにも慣れっこだったのだろうか。もしそうなら、奇想天外な奴に違いない。

 何にせよずっと考え事をしながらもぞもぞしていたところで仕方がない。寝袋のような内側のチャックはなかったが、袋の内側から爪を立てたり布を引っ張ったりと四苦八苦していると、どうにか袋を破いて外に出ることができた。

 起き上がってみると、シングルベッドぐらいの大きさの台の上にいた。しかしマットレスが敷いてあるわけでもなく、人が寝るというよりはむしろ物を置くための場所に見える。そしてこの部屋は袋の中に負けないぐらい、真っ暗で狭い。窓がなく、四方が壁に囲まれていて、だというのに何故だかひんやりとしている。冷房の稼働音もしないのにこうも涼しいというのは妙だ。あるいは外は雪なのかもしれない……もしくは服が薄っぺらいからかもしれない。手探りしてみると、いわゆる患者服と呼ばれるような服で、ポケットの中には何も入っていない。

 暗闇に目が慣れてくると、一方の壁にドアがあるのがうっすらと見えた。錠や電子ロックの類は見当たらない。ドアノブをひねってみると、自分が年代物であると主張するかのようにギイイ、と音を立ててドアが開いた。


 はだしの足裏から無機質な塩ビ床の冷たさを感じる。今しがた私が出てきた部屋は廊下の突き当りにあり、目の前にまっすぐ続く廊下には非常灯の病的な緑色も窓から差し込む月明かりもありはしない。さて……部屋から出てみたものの、どこに行こうというアテがあろうはずもない。あの寒い部屋に戻っても仕方がないから、まっすぐ歩いてみる…………脇にドアが現れた。ドアの横には「解剖室」と書かれている。

 カイボウシツ……ちょっと怖いな……入りたくはない……

 そうだ、ドアの横に室名が書いてあるならば、私がいた部屋がなんだったかもわかるだろうか。さっきはそんな発想がなかったから……自分では冷静だと思っていても、やはり動揺していたんだろう……おもむろに引き返してドアの前まで歩く。するとドアの横には「霊安室」と書かれている。

 レイアンシツ……さすがにガツンと衝撃を受けた……じゃあ私はもうとっくの昔に死んでいて、入っていた袋は死体袋ってコトじゃないか……いやいや、それはおかしい。現に私はこうして生きているじゃないか……なんだって霊安室にいなきゃいけない……じゃあ仮に私が死んだ後、何かしらの理由があって生き返ったとする……そうだとしてもおかしいじゃないか……さっきまで死にかけてた人間がどうしてこんな元気に歩き回れるんだ……外傷がない、何かしらの病気で死んだとしても、こんなに体が軽いわけがない……それにここが霊安室を備えるような、入院患者を受け入れるぐらいには大きな病院だとして……だとすれば夜勤の医者や看護師がいるはずだ。非常灯だって点いてなきゃおかしい。それにさっきのうるさいドアノブだって、日常的に使われていたらあんな音は出さないだろう……つまりここは現役バリバリの病院ってワケじゃなさそうだ……じゃあ廃病院かしらん……私は何かしらの……例えば犯罪を犯したとか、何かしらのもめ事でしばらく身を隠す必要があるとかの理由があって……ほとぼりが冷めるまで身を隠しておく必要があった。それで廃病院に逃げ込んだのはいいが、疲労や心労から一時的に記憶を失っている……いやいや仮にそうだとしても、わざわざ霊安室に行って死体袋に入って寝るというのはあんまりにも悪趣味すぎるじゃないか……

 記憶がない以上何を考えても憶測にしかならないけれども、少なくともここは普通に営業している病院で、私は霊安室で昼寝していた不届き者、という単純な結論にはならなそうである。明かりも音もない異様な廊下がそれを無言できっぱりと告げている。

 ひとまず……靴とまでは贅沢を言わずとも、スリッパと懐中電灯が欲しいと思った。廃病院という予想が正しければ、割れた窓ガラスなどの危険物が散乱している可能性もある。誰も助けてくれない状態で血が出るような怪我はしたくない。それに周りが見えないと不安で不便で仕方がない。

 懐中電灯はわからないが、スリッパなら玄関にあるかもしれない。ひとまずは玄関を目的地にしようと思う。


 いくつかの部屋を通り過ぎた。「MRI室」「待合室」「手術室1」等々。ドアを開けてみても何かしらに使えそうなものは一切合切搬出されていて、がらんどうの空間になっているかガラクタが積みあがっているかのどちらかだった。部屋を開けることに何も期待しなくなってきたころ、ほんの少しだけ変わった部屋を見つけた。ドアには何の変哲もないが、室名が掲示されていない。少しは変わったものがあるかなと思ってドアを開けてみると、なんと畳が敷いてある。畳が6枚と少し、奥の方には小型の冷蔵庫、電子レンジ、電気ケトル、小さな棚などが雑然と押し込まれている。

 ナルホド……ここはスタッフ用の休憩室だったに違いない……この病院がバリバリ現役で多くの人を癒していた時節には、医者従事者たちが布団を敷いて仮眠したり、冷凍食品やカップ麺を胃に流し込んだりしていたのだろう……

 そう考えると急にお腹が空いてきて、私のお腹はグウウと大きな音を鳴らした。その上喉もカラカラだ。起きてからは何も口にしていないし、そもそも最後に食べたのがいつなのかすら定かではない……こんなに空腹なのは辛い……力が出るはずもない……それにしてもやはり私は人間だ……こんなに立派に腹を鳴らす生き物が……生きていないはずがないではないか……生きている人間だから立派に腹が減るんだ……私が死んでいるはずがない……あり得ない……

 いや待てよ。棚の最上段をガサリと開ける。ビンゴ。埃をかぶったポテトチップスの袋だ。即座に開けて中身を貪り食った。口の中に刺さるのだって構うものか。水なしの、それも袋が埃をかぶるまで放置されていたようなポテトチップスなんて旨いわけがない……選べるならこんなものとても食わない……けれども湿気て塩気もほとんど感じないような塊がこんなにも旨くて仕方がない……袋をさかさまにして粉まで食べて、ようやく落ち着いた。いやいや、まさか。そのまさかだ。冷蔵庫を開けてみると未開封のミネラルウォーターのボトルが一本きり入っている。引っ掴んでボトルを開けてがぶ飲みする。ペットボトルをさかさまにして一滴残らず……イヤ有難い……こんな有難いことはない……こんな廃病院で水と食べ物が手に入るなんて有難い……たとえこの後お腹を壊そうが有り難い……

 水と食べ物でお腹を満たすと、意識が段違いにシャッキリするのを感じた。その途端。


「あーっ、田中さん。いましたよ、こっちです。田中さん発見しました。うわあ、僕のポテトチップス食べないでくださいよ」

 背後から聞き覚えのあるような甲高い声がすると同時に、ぐわんと周囲の光と音が襲ってくる。まるでノイズキャンセリング機能があるヘッドフォンを渋谷のど真ん中で外した時みたいに……或いは異常な酷暑の日に汗を拭こうとサングラスを外した時みたいに……一瞬で世界がもんどりうったような……いったいこれはなんだ……

 振り返ってみると白衣を着た30代ぐらいの男性が立っている。これは……医者だろうか……

「さっきの霊安室は……私が入っていた死体袋は……真っ暗な病院は……」

「霊安室? 霊安室がどうしたんですか。それにご遺体を袋に入れたりなんてしませんよ。そもそも太郎さんは亡くなるようなご病気じゃないですし」

「田中……それが私の名前ですか」

「あー、ええ、そうですよね……」

 私が狼狽しているのをよそに、看護師たちがアッという間にわらわらと集まってきて連れていかれてしまう。

「大丈夫ですよ、太郎さん。部屋に戻ってお薬を飲めば楽になりますからね」

 私はナニもわからぬ異常者ではない……そんな子ども扱いするような声色は止めてくれ……けれども抗議の言葉は声にならなかった。こうされるのが悪い意味で板についているのかもしれない……そうするとこんなことも初めてじゃないことになる……


 連れていかれたのはベッドが一台にサイドテーブル、それにイスが二つ置いてあるだけの寂しい個室だった。部屋には「田中 太郎」と書かれていたから、なるほどそれが私の名前らしい。私物らしきものは何も置いてはいないし、下着や服に至るまで全て病院の備品だ。殺風景で退屈な部屋だが、少なくともさっきまで歩いていた廃病院と比べれば極めて清潔とは言える。

 暴れても仕方がないから、ベッドに横たわって考えを巡らせる。私はただの狂った人間で……これまで見たものは全部つまらない幻覚だったのだろうか……でも普通の人間が霊安室をあんなにはっきりとイメージできるだろうか……それに休憩室もポテトチップスもミネラルウォーターも間違いなく現実に存在したのだから……だからさっきまでの出来事に幻覚が混じっているにせよ、全く……全く荒唐無稽な頭の中だけの異常妄想だとは思われない……

 それに私はさっきふと頭に浮かんだように……ヘッドフォンも渋谷のど真ん中も酷暑もサングラスも知っている……どこでいつ知ったかはわからないけれども……とにかく体験している……すると私は生まれてからずっと病院に閉じ込められているということは決してなくて、かつてはこの病院の外で、少なくともヘッドフォンやサングラスを使うような歳になるまではまともに暮らしていて、それが何かの因果でオカシな頭になっちゃってこんなところにいるということだろう……それなら病状がよくなれば出られないことはないだろう……決してあってはたまるものか……外で暮らしていたんだ……それが病気で入院してるだけなんだ……治ったら出られない理屈なんかあるもんか……


 ノック音がした。反射的に「どうぞ」と返すと、初老ぐらいの医者と看護師が一人入ってきた。彼は私の前に座り、優しく声をかけてきた。

「田中さん、気分はどうですか」

「どうもこうも、何も覚えていないし、気分は最悪ですよ」

「そうですよね、失礼しました。私はあなたの主治医の安本です」

「はあ」

「まあ、そうなりますよね……早速ご説明させていただきます……その前に、この錠剤を呑んでいただけますか」

 後ろで控えていた看護師から差し出されたのは何の変哲もなさそうな白くて丸い錠剤が2個と、飲み下すための錠剤。

「先生、これは」

「田中さんが日常的に飲んでいる持病のお薬ですよ。実際、これを毎日飲んでいれば治る病気なんです」

「それじゃあ先生、私は治るんですか。この病院から出られるんですか」

「もちろんです。このお薬を毎日三回飲んでさえいれば、完治して退院できる病気ですよ」

「ああ……ありがたい……」

 もちろん飲み干す。あんまり大きくて飲みづらいが、何、この病院から出るためなら気にするものか。

「それで、田中さんのご病気ですが」

「はい」

「まあ、複雑な病名を抜きに説明しますと、いわゆるトラウマと呼ばれるものを極めて強烈に拗らせたものになります。治療としては、十分に自由で広くて安全な場所で、ほんの少しずつトラウマの原因になっているものに近づいていく、というのが理想とされています。これは“解放治療”と呼ばれる方法です」

「理想……というと、実際に私がやっているのはそうではないんですか……」

「ええ、少しでも加減を間違えると些細なきっかけでトラウマが噴き出してきて逆効果にもなりかねないなかなか難しい治療法なんです。そこで開発されたのが、今飲んでいただいたお薬なんです。今飲んでいただいたお薬は、飲んだ方のトラウマをもとにした特殊な幻覚を見せることで、簡易的な解放治療を行うことができるんです……幻覚の中を移動しているだけだから場所も取らないし、本当に見たくないと思ったものは見ないで済むように幻覚側でつじつまを合わせてくれるので、暴発の危険性も少なくて安全性も高いんです。ただ幻覚の中を歩き回るので、本来は鍵を閉めた部屋の中で行われるんですけど、今回は鍵の閉め忘れが起きたという次第で……そこは本当に申し訳ないです」


 じゃあ私が落ち着き払っていたのは、記憶がなくとも無意識下で、何度も経験してきたことだとわかっていたからだろうか。イヤイヤそもそも、もっとおかしくて気にするべきことがあるだろう……

「けれども先生、それじゃあ記憶がなくなってるのはおかしいじゃないですか。薬の副作用なんですか?」

「いい質問ですね。正確には副作用と言うよりは、薬の作用の一つというほうが正しいでしょう。記憶があったら、自分からトラウマになっているものに近寄ったりしないですよね。逃げ回るばかりで、冷静にトラウマと向き合うことなんてできなくなってしまう。だから、生活するのに不要なエピソード記憶は思い出せない様になってるんです。もちろん、治療が終わって薬を飲むのを止めれば少しずつ記憶は戻ってきますよ」

「先生……さすがにそんなの信用できないですよ。記憶が一旦なくなって、そっくりそのまま戻るだなんて」

「……実をいうと、この説明も毎日しているんです。記憶がなくなった田中さんに、薬の説明をして、なんとか飲んでいただいて、また説明をする。田中さんは覚えていないでしょうけど、もう毎日やってることなんです。だから大丈夫ですよ」

 それにね、と医者が続ける。

「いずれにしたって、私が完治したって判断しなければ退院できないんですから、田中さんが外に出たければ医者に言われた通りに治療に励むこのクスリを飲むしかないんですよ」

 それともこの簡素な部屋で一生を過ごしますか。という問いが裏側にあることは明白だった。

「……何年したら出られるんですか」

「そうですねえ、この問答も何度もやってるんです。どうせ薬が効き始めたら忘れてしまうのですが。まあ、前例からすると後五年ぐらいでしょうかね」

 ショックすぎたのか……薬が効いてきたのか……頭がグワンとして世界がクルクル回っているような気分になる……これから……あと五年? 違う。あと五年なのは、現実世界での話だ。一回の服薬で体感としては数時間過ごしたぐらいの長さがあった。それを一日三回となると、私のトラウマの中では何年になるんだ? あの廃病院で? あの霊安室で? いやだ、そんな、やめてくれ。

 意識を手放すまいと力を込めてみるが、私の自我と記憶はするりと指の間から抜けていってしまった。

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