脱走癖

一ヶ村銀三郎

脱走癖

 どこにでもある安物の黒い背広を着た青年は薄明るい月光を僅かに浴びていたため、その姿に影を造っていた。夜にも関わらず、近くにある、いかにもバケットのように固そうな埃塗れの寝台に寝転がる気配はなく、かと言って外出しようとする状態でもなかった。鍵が掛かっているのだ。ただ突っ立っている青年が置かれている世界は白く清廉で澄んだ清浄な一室であったが、所々に鉄格子が設置されていて、無駄な抵抗ばかり行っていた「先客」の小さな置き土産が床と壁に付けられていた。

 思い出したように白い部屋の中の男は歩き出し、狭い空間を行ったり来たりした。目の下に隈を作っている青年は、ひたすら移動した。その方が、今回彼の身に起こった不可解な現象を解く手がかりを見出せそうな気がしたからであった。しかし、青年の脳裏に浮かぶものは、他愛のない日常風景でしかなかった。とにかく男は回想に務めているようだった。



 ……普段と変わりない部署を見渡しているとすると、その入口の扉にはまっているすりガラスの窓越しに、見かけたことがありそうな人の、ぼやけた姿があったのを、上司は見つけた。それが今朝方話題となっていた本人であるなと、直感で察することはできたが、扉のすりガラスは特徴をぼやかすばかりで、具体的には見えず、そうだとは断定できなかった。

 扉が開き、めずらしく汗だくで、息を切らしている青年が入ってきた。今までの忙しさが嘘だったように、職場は静まり返って、問題の青年の激しい息遣いが響き渡った。

 上司は気にとめないようにと、ゆっくり、強く言って、部下たちはさっきと比べてぎこちなく業務に戻っていった。

「それから、君。ちょっと来てくれないか」

 青年にそう伝え、二人は奥のデスクへと向かっていった。職場は進行速度がまだ回復できておらず、どことなく緊張しているようだった。

「すみません。遅刻しました……」青年はやっと落ちついて、話せるようになったが、いつもの冷静さはやや感じられず、小刻みに震えて、戸惑っているように見えた。

 上司は口を開いた。

「まさか、君が遅れてくるなんてね。連絡の一つくらいよこしたっていいだろうに。……それで、いったい何があったのかな」

 そのような柔らかな口調で、やや緊張しているせいか、力んでいるらしい彼に向って、上司は椅子に座ったまま、尋ねた。

だが、青年は黙り込み、うつむいてしまった。どうも様子が変だと感じながらも、上司は彼に話すよう促した。

「どうしたのだね。何か言ってみたらどうだ」

 汗が涙のように頬を流れたのをそのままにして、青年は口を開いた。汗の落ちる具合みたく、ぐずぐずと、そしておどおどとしながら、「信じていただけますか」と一言だけつぶやいた。

 彼の話を聞いてから判断しようと考えていた上司は、机に置いていた両手をひっこめて、彼の方に向き直し、うなずいて約束した。

「昨晩は、ぼくの住んでいるアパートで寝ていたのですが、朝起きると、ぼくは自分の部屋にいなかったんです。その住んでいるアパートの外にある通路にぼくは、いたんです。そのせいで、管理人を呼ばなくてはならなくなって…………」

 青年の話が終わり、上司はしばらくの間黙り、そうして腕を組み始めた。ざわつく部署に、上司のため息が聞こえた。

「やっぱり信じてもらえませんか」またおどおどし始め、彼は肩を落としたように見えた。汗が再び目を経て、頬を走り、青年の顔から落ちていった。

 上司は目を閉じ、苦々しい顔をしてつぶやくようにこう言った。

「君。嘘はいけないよ……」

 青年はもう一度説明し始めた。

「いえ、本当なんです。合鍵を使うのに時間がかかってしまったんですよ。外に……出てしまったせいで……それに最近は寝相が悪いだけで、病気らしいものにもかかっていません」

 上司は座っていた席から立ち上がって、部署の南側の窓のブラインドを調節し、光を抑えた。

「わたしだって、君のことを信じたい。しかしな、そんな報告では、出勤簿に何とかけばいいのだい。瞬間移動の影響とでも書くかね。まったく……」

 青年は何も言わず、困った表情のまま、うなっていた。上司は頭をかいた。いつもの彼らしくないぞ。どうしてこんな訳の分からないことを……。青年の悩んでいる姿を見ながら、上司は理由を考えた。もう少しましな嘘くらいつける筈だろうに。けれどもなぜ――。

「……体調不良で寝過ごしただけです。それだけの事です……」

 青年は苦しそうにそう言った。困った表情のまま、上司は出勤簿を開いて、書き入れ始めた。慣れた手つきでさらさらとペンを動かし、すぐに書き終わって、内容を確認した。そうしていつもの癖で、出勤簿を勢いよく閉じた。

「今後はこのようなことの怒らないよう、十分に気を付けるように」

 以前、書類の提出を受けたときに似た、やや軽やかな印象を見せながら、青年は席へ向かっていった。隣の同僚が彼に慰めの言葉と忠告をかけていたのが上司にも見えた。その他に目立つことは何もなかった。

 職場は元々のせわしなさを取り戻していた。先ほど青年が遅刻し、それを注意したこと以外に変わった事は起こらず、青年も「先輩のように有能だったらなあ」と羨ましがっただけで、何のことはない日常の風景が広がっていた。

 上司もまた今朝の件には一切触れず、妙な言い訳をした例の青年にも普段と同様に接していた。そうして「アルトの報告書を持ってきてくれ」と、上司に頼まれた通りに、青年は報告書を手にして、上司のデスクへ近づいて行った。

 そのとき、ブラインドから強い光が漏れて、青年の全身に黒いしま模様が浮かんだ。上司は彼のその姿をどことなく不思議に思いつつ、その報告書を受け取った。



 早朝、部長が日課の整頓をしていると、電話が鳴った。この時間帯、職場には彼しかいなかった。滅多にかからない頃合いだったがと、不思議に思いながら受話器を取って、いつも通りに応対しようとした。しかし、相手は例の青年だった。

 上司は驚き、平常心を失いそうになった。

「部長。すみませんが、今日も遅刻してしまいそうなんです」激しい足音と息切れを混ぜて、彼はせわしなく話していた。

 思わず上司は受話器に向かって声をあげた。

「またかね。二日連続じゃないか。どうしてそうなるんだ」耳に青年の音が響いて、よくある朝の静けさが上司の周辺から消し飛んでしまった。

 青年は一瞬間、黙り込んでしまったが、すぐに話をつづけた。

「朝、起きたら、自宅から遠い雅野まさのの町のど真ん中、と言っても交差点の隅にいたんです……」部長はそれに対する言葉が思い浮かばず、受話器を握りしめ、額を手で覆い、頭をかかえ込んだ。それにつづいて、青年は何か喋ったようだったが、やかましい雑音が入り混ざったせいで、聞き取りにくく、はっきりと分かららなかった。

「……君は、夢遊病かね?」上司はため息をついて、青年に言った。駅についたらしい彼は、やっと落ちついて答えた。

「いいえ……」

 しかし、未だに息はあがっていた。上司はきつい口調で青年に言った。

「……もう少しマシな嘘を吐いてくれよ。どうせ酔っ払って、そこら辺で眠り込んだんだろう? その方がまだわかりやすいよ」

「――はい、そうではないんです。本当なんですよ」

 すぐさま青年はくり返して言った。不思議と自信があるような感じがあった。上司はそれに対してきびしい態度で言った。

「証拠はあるのかね。それがなかったら、信じようがなかろう」

 青年はうなり、時間が過ぎていった。そのうちに彼は、交差点にいたとき、何一つ物を持っていなかったこと、昨日今日と、管理人に驚かれたことを話していった。

だが、証言の真偽を調べることはできそうにない。管理人を証人とするのも変な話だと、上司は思った。青年も、説得、あるいは説明が困難なのが分かっていたのか、終始たどたどしく喋っているように、上司には聞こえた。

 部長は頭をかかえながら受話器にこう言い放った。

「……今までこんな事、なかったろう。なのに、いったいどうしてしまったのだい? ……とにかく、遅れてしまうのは分かったよ。しかし、これ以上長く続けると、いろいろ面倒になるからな。気をつけて……」

 上司は電話を切り、やや不機嫌なまま、記録を書いていった。そのゆっくりとしたペンの動きに、部長はなぜか鈍い印象を受けた。

 部署の扉が開き、四、五人がやってきて上司に挨拶をしていった。三十分前だった。さっきの騒動が嘘であったかのように、穏やかな一日が始まろうとしていた。

部長はしばらく考えてから、青年の同僚を呼んで、話を聞こうとした。

「――今日も彼は遅刻してくるのだが、何か話を聞いているかい」

 上司のその問いかけに、同僚は困った顔をして、頭をかいた。思いあたる節を見つけたらしく「あっ」と声を漏らしたが、結局部長は、何の情報も得られなかった。

「――いえ、特に何もなかったですね。……昨晩だって、用があるからと言って帰っていきましたし……」同僚は戸惑いながらもはっきりとそう答えた。

「そうかい、どうもありがとう」その部下が戻っていき、上司も、昨日青年が持ってきた報告書にもう一度、目を通した。とても遅れてやって来るような者が書いたとは思えない資料だった。

「どうも、彼らしくないな」

 部長は、朝から何かが引っかかる気分がした。



 何の変哲もない狭い居間についている裸電球が時々、暗くなる中で、広げたままの布団に座って、青年は首をひねって考えていた。

「しかし、おかしいもんだ。なんで、あんなことになるんだ……」彼は、昨朝と今朝に起きた不思議な出来事を思い返していた。はっきりしていることは、二回とも、目が醒めたら外にいたことくらいしか、分からなかった。そして昨日の朝にいた所よりも、今朝にいた交差点の方がやや遠いことが気になった。

 青年はそこから何が言えるのか、さらにそれ以前に何かおかしなことがなかったか、考えてみたが、何も考えつかなかった。どちらの疑問もまるで、もやを捕らえようとするような推理で、彼の頭の中はこんがらがりかけていた。

「いったい何なんだろうか、あのことは……」そうつぶやいて、気晴らしで畳に寝転ぶと、近くに紐があるのに気がついた。少しの間、それを見つめて、青年はため息をついた。

 青年にはある考えが思いついた。もし、明日もまた、ああいったことがあれば、必ず遅刻扱いされてしまう。それなら荷物を胴体にひもでくくり付け、背広を着たまま寝ればいい。けれども、青年は気が進まなかった。次行かなかったら、ただの馬鹿だ。

 それでもやるだけ損はないと思い、彼は紐などの道具を用意した。「妙なもんだな」青年は、やはり杞憂かもしれない問題の解決策の大部分を終えて、布団の前にっ立っていた。「何もなければいいんだが……」

 かばんの柄にひもをくくり付け、そのひもの先を腕に縛ったのを確認し、ぎこちなさを感じながらも、何とか眠っていった気がした。



 硫黄が僅かに漂う駅の南口近くのロータリーには物産店が軒を連ねていたが、この時間であれば観光客はあまりいない。青年は四つあるベンチの一つを、じっと見つめていた。白い駅前広場に立ちつくす、黒いスーツを着た彼の姿は、目立っていて、朝日のせいで、影が濃くなっているように見えた。

 呆然とするのもよして、青年は好い加減に改札へ歩いていく事にした。目的地のある最寄り駅まで、通常のほぼ倍の所要時間、五十分かけて通勤する事となる。面倒だが、状況証拠として切符を買い、列車を待つ間、青年は不愉快だった。

 社へ向かう途中、ずっと浮かない顔をしていた。そのうちに、本来の最寄りを過ぎた。どうやら乗り込んだのは特別快速だったようだ。彼は嫌気がさし、やり場のない腹立たしさが屈折し、自身に対する嘲笑がこみあがりそうになった。近くの停車駅で列車を降りても、まだ青年の気分は沈んでいた。やり場のない怒りを食いしばって、晴らしていく他なかった。

 しかし、遅刻しそうにはならなかったのは喜ばしいことだと、思いながら青年は、この不気味な事態の原因を知ることが困難であるような気がした。朝日はだんだんと昇り、晴れてきたものの、その日の光は雲に入ってしまった。

 晴れたり、曇ったりする、はっきりしない天気に文句を言っていた上司は、青年が定時前にやってきたことに気がついて、少し驚いたような顔をした。そしてまず青年は、上司に切符を見せた。

「今度は櫛笥坂くしげざかへ行ってしまったんです。この通りです」

 部長は渡された切符を見て、頭をかいた。一瞬、日光がさしこんだが、すぐ雲にひっこんだ。こんな物が一体何の証拠になると言うのか。

「君の家は、たしか烏賊原いかはらの辺りだったな……あまりにも離れているじゃないか……」

 青年は上司の様子をうかがいながら、何とか説明しようとして、真剣に正直に話そうとした。日が雲から抜けた。

「証拠としては、あまり良くないと思いますが、今日はこれしかありません」

 青年はそう言って、変な発言だと後で感じた。

「つまり、今朝も外にいたと、言うのだな」

 上司は淡々と言い、それに続いて青年はうなずいた。光がまた雲に隠れた。そのまま部長は渋い顔をしながらデスクにある引き出しを開け、何かを探し始めた。

「まあ、遅刻じゃないのだから、何ら問題はないよ。……それから、……言いにくいのだが、君。……何か、悩んでいることが、あったりしないかい」

 青年はかぶりを振った。思い当たる節はなかった。

「そんなことはありません。仮に夢遊病だったとしても、あまりにも遠い距離ですし……」

 それを聞いてか、上司は低い声でうめいた。日差しが戻ってきた。

「しかし、だとすれば、何だと言うんだ……」

 引き出しに入れた手が止まって、部長はつぶやいた。

「いったい何だと言うんだ」

 青年も気まずい雰囲気に飲まれて、顔をしかめた。それでも青年は、何とかして受け答えようとした。

「前に、部長が冗談でおっしゃったように、……その、瞬間移動が原因だと、ぼくは思います」

 青年は言いながら馬鹿らしいと思ったが、その他に考えられなかった。職場にいる人々の視線が、青年には背に刺さっている風に感じられた。曇り空が僅かな晴れ間をむしばみ、とうとう暗くなった。上司は鼻で笑った。

「それでは、何か。この二、三日間、超常現象が立てつづけに起こっていたとでも言うのかい。へん、悪いがね。そんなにばかすか、異常事態が起きてたまるかい」

 上司は叫ぶようにそう言ったが、すぐに冷静さを取り戻した。

「……すまない。やや言い過ぎたが、しかし、君は本当に大丈夫なんだろうね」曇天へと変わっていた空には、さらに黒い雲が集合し始めていた。

 青年は、通勤中に思いついた原因をつかむ手段を言って、建設的な発言にしようとした。「はい。家にカメラがあるので、今晩にでも、夜にどうなっているのか、撮ってみようと思うんです」

 それを聞いてか、上司はため息にも似たうめき声を出した。この部署の誰かが、外の暗さに耐えかねたらしく、蛍光灯の電源を付けたようだった。無機質で冷たいくらいに白い光が青年に鋭く刺さり、影を作り出した。

「まあ、何かあるのだったら、一度、ここに行って診てもらうといい」そう言って上司は、ようやく引き出しから名刺を取り出し、青年に渡した。

「なぜ、こんなものを……」

 その青年の質問を無視して、上司はつづけて言った。

「――あまり詮索するな。とにかく、話は分かったよ。それにだな。今日、君は遅刻していない。いつも通り、来たじゃないか。だと言うのに、このような会話をするのは、変だと思わないかね」

 しかし、青年の気分はいつもより優れているとは言えなかった。黒い雲は空を覆い、色のない電灯の強い光のみが職場にある中、青年の影は白い床の上で、今の天気のように真っ黒になっていた。



 昨晩と同じように備えつつ、青年は録画の準備をした。そうして、自分を映すように配置し、荷物を離さないよう、縄で固定し、背広を着た。

 今までになく面倒極まる支度を終え、彼は部屋の照明を消した。久しく聞いていなかった起動音が暗い部屋の中に響くのを感じながら、青年は一連の出来事について考えた。初日の移動先は、アパートの外廊下。二日目は、よく見かけるが、近くはない交差点。そして昨日の、櫛笥坂駅前……だんだんと移動する距離が延びているように思えた。いったい自分の身に何が起こっているのだろうか。今までにこんな訳の分からないことは起こったためしがない。いきなり、妙な能力か何かでも得たか、あるいは誰かが動かしているのだろうか。まさか……。

 耳から、機械特有の独特な声が徐々に遠のいていった。



 雨音も、雨足も弱々しかったものの、青年を叩き起こすには充分だった。今朝も遅刻しそうにはなかった。しかし、櫛笥坂よりもあまりに遠く、運賃も四桁に膨れ上がっていた。

 それでも満足しなければ。青年は自分に言い聞かせたが、やりきれそうになかった。四日前と比べて、場所は非常に遠く、そうしてやはり初日よりも、二日目、二日目よりも三日目という具合に、移動距離が長くなっているのを、青年は再認識した。

昨日の櫛笥坂発でも、立ち寄る暇はなく、今度も青年は腹立たしい気分で、元々の最寄りを通過していった。さらに急行して、ぎりぎりのところで間に合った。雨は少しずつ強まっていた。

 青年は改札を出て、社へと向かった。傘を持ってきてはいたが、ちっとも差す気が起こらず、青年はそのまま無気力に歩きながら、濡れながら向かっていった。彼はもう疲れきっていて、落ち込んでいた。

 社に着くと、上司は心配したようで、雨水を受けた青年をとがめた。

「……またかい」

 部長はかすかに震え、青年の方を眺めた。直視しているようには見えなかった。

「部長。静寂山しじまやまをご存知ですか」

 青年のかすれた声の大きさは、外で降っている雨音に、かき消されそうであった。

「ああ、隣の県だが、比較的都会だね」

 上司は平穏そうに反応したが、すぐに深刻そうな顔をして、つぶやいた。

「……なんだ、今度はそんな遠くに行ったとでも言うのかい……」

「……こんな事を言うべきではないですが、何かとんでもないことが起こっている気がするんです」

 そう言って彼は、起、終点の書かれている切符と特急券を見せた。

「……確かに、今日の日付だ」

 雨雲からごろごろと音が鳴り、雨音がだんだんと強くなった。

「昨日言いました通り、自宅にカメラを設置しました。それで夜中に何が起こっているか、調べられると思います」

 稲光が起こり、上司は黙ったまま席から立ち、雨が激しく降り始めた空が広がる窓のブラインドを閉めた。そのまま、後ろを向いてうつむいた後、部長は青年の方をゆっくりと振り返った。

「……これ以上、悪くならないといいな……すまないが、そうとしか言いようがない。それから、他の者にそのことを決して話すんじゃないぞ。それじゃあ、気をつけて……」

 上司のその言葉を聞いて、青年はどこかよそよそしい印象を受けた。つづけて、上司のつぶやく声が聞こえてきた。

「……いったいどうしたと言うんだ? いったいどうしたいんだろうか? 彼はいったいどうしてしまったといううんだ?」

 静かな口調だった。当然、青年は受け答えることができず、何となくしこりを抱えたまま、自席へと向かっていった。雷の鳴る中、蛍光灯の白い光が青年の影を濃くしていた。光は弱くなったり、強くなったり、その繰り返しだった。

「今度は静寂山にいたって?」

 同僚が心配そうに言った。青年はいつもと同じように振舞おうとした。

「そうだよ。でも、大丈夫さ。今日は遅刻していないからね。そんなに深刻そうにするなよ……」

 雨が窓を、いつもより強く叩き始めた。

「そうは言ってもなあ。……本当なのか? 瞬間移動しているなんて、考えてるのは……」同僚の顔はいつになく真面目そうに見えた。

「ははっ、少しだけさ……」

 青年は微笑んだが、稲光で自身の顔が一瞬、おどろおどろしくなっていたのを、窓の反射越しに見て、思わずのけぞった。

「やはり変だよ。まあ、何があったかは分からないが、気をつけろよ」同僚のその言葉に、少し腹を立てて、「だいぶ前から、気をつけてるんだがね……」と青年は言った。けれども気で、どうこうできることでもないと、青年は思った。この蹴速川けはやがわしかない住宅地から、静寂山なんて内陸まで、遠すぎる距離を寝ている間に移動するとは、……何故だか分からないが、言葉にできないものの、ものすごく嫌な予感がした。そんなことを思うと同時に、大きな雷鳴が轟き、部署が一瞬だけ暗くなった。



 近頃忘れかけていた残業が現れてしまい、青年は不運だと思いながらも、部長もいなくなった職場で一人、処理していった。朝方から降り始めた大雨は止んだものの、辺りはすっかり暗く、いやに風が強く、空気はじめじめと湿っていた。

 訳の分からない現象に振り回されて、ここ数日疲れていた青年は、やっと仕事を終えて、天井を仰いだとき、もう日をまたぎそうな時間になっていることを知った。

もうすぐ終電が出るころだろう。……もしもこの職場でが起こったら、次はどこへ行くのだろうか、まったく分かったもんじゃない。今まで、北へばかり行っていたから、次も北だろうな。前例が「証拠」になるのなら、きっとそうなるのだろう。そう「信じたい」な。……「しかし」、そんなのが「証拠」になるのか? もっとはっきりとした「証拠はあるのかい」……ひょっとすると、あの「アパート」が悪いんじゃないか。管理人は「こんなこと、初めてだ」なんて言ってたが、――どうすればいい――「夜」になると「移動」してしまうんだろうか。いやいや、そんな「とんでもないことが起こっている」と言えるのだろうか。でも、「変だと思わないかね」「今までこんなことはなかったろう」そう、そうだ実際に「本当」に起こっていることなんだ。もし「夢遊病」だったとしても、「とんでもない」ことだ。あの距離を行けるなら、ここであれば簡単に戻れるさ。「ふざけるな。どうせ……そこら辺」に行くだけだろう。いやいや、分からないぞ、そんなこと。「つまり」どういうことだ。「信じようがないぞ」まるで。「しかし」、……「どうしたんだね」さっきから、なんだ。分からない。「何か言ってみたらどうだ」い。不思議だ。「いったいどうしたんだい?」……こっちが聞きたいよ。「証拠はあるのかい」、「夢遊病」なら「証拠」が多い。あの部屋の玄関を開けるたびに、扉がぎいぎい、ぎしぎし、きしんで音がうるさくて仕方がない……隣り近所に尋ねれば、その音も愚痴も耳障りなこと、耳障りなこと……。

 穏やかな波の音が、彼を眠りから醒まさせた。青年はゆっくりと起き上がり、周りを見回した。先ほどの職場ではなかった。きれいな白砂の海岸ばかりが広がっていた。視力がいきなり、むりやりに調整させられて、対象が強調されていく感覚が、彼に起こった。青年は、南国風の平和極まりない白浜に伏せて、絶叫した。その声は、虚しいほどにこだまし、水平線の向こうまで届くようだった。小雨が降り、辺りはすっかり静まり返った。

 自然豊かな所に似つかわしくない、背広姿の青年は、白浜を激しく歩き回った。手つかずの浜辺には、足跡が大きく残っていった。

 やがて、海に背を向けて、青年は内陸に進んでいくことにした。見たことのない険しい林をつき進んでいくことにしたが、その熱帯雨林を思わせるような場所で、青年は人の通った僅かな道の痕跡を、見つけることだけはなかった。



 電話が鳴った。上司はいつもと同様に、受話器を取った。すると相手はたどたどしく、抑揚が妙であると感じさせる口調で話し始めた。

「そちらにいたという男が、ここにいます。三、四日前からいなくなったと彼は言います。お心あたり、ありますか?」

 やや奇妙な調子の発言であったが、部長は「はい、あります」と答えた。受話器から「本人が、これより話します」と声がして、しばらくすると、久しぶりに青年の声がし始めた。

「部長、ご無沙汰しています……」

 今まで平然と応対してきた上司は、いきなり声をあげた。

「二日も無断で休むとは、何のつもりだ! 連絡くらい寄こさないか!」

 忙しく動いていた職場は静まり返ってしまった。部長は慌てて、何も心配することはないと、言った。青年の方は謝りながら、かすれた声で淡々と、青年の置かれている状況についてしゃべっているようだった。

「実を言いますと、今、ぼくは国外にいるんです……」

 聞き慣れた声だったが、あまりに現実離れした話で、上司は何も言えそうになかった。そうして、次にすべき行動が引っ込んでしまった。

「どういう事だ。じゃあ君は今、外国にいるとでも言うのか……」

 遅れて、はいと言う青年の疲弊した声が聞こえてきた。

「この前の二日間は、両方とも休日ではあったが、大旅行には適さないぞ。昨日と、今日の平日、二日を合わせた四日間、この四日もの間……。一体、君は、どうしてしまったんだ? さっきの人だって、彼は何者なのかね? 教えられた肩書きだって……」

 上司は青年が以前口にしていた言葉、瞬間移動を思い出した。だが本当に、現実に起こり得るのだろうか、このようなことが。嘘やいたずらのたぐいにしては、随分酷い出来栄えだとは、ずっと前から分かっていたが……。

 青年はゆっくりと答えた。

「やはり目が醒めたら、ここにいたんです。こんなことを言うと。お気を悪くするかも知れませんが、部長。もう、ぼくはだめだと思うんです。……この件の当事者であるぼくでさえ、この出来事がなぜ、どうして、どのように起こっているのか分からないんです。きっと、……いや、必ず何かが起こっているとは思うんですが、それが…………」

 向こうの方で「×××××××」という呼びかけを言ったような気がして、次の瞬間、再び現地の職員が慣れない調子で話を始めた。その内容は、青年には不法入国と、二度の拘置所脱走の三つの容疑が、現地の当局から掛けられていることの報告が主だった。他にも、青年の自宅の捜査依頼を検討中のこと、それと関連して、上司に対する事情聴取を今月中にも実施したい旨を、彼らは報告してきた。



「――なぜ、あなたは二度も不法入国をし、五回も脱獄したのですか。もう一度、理由を言ってください」

 裁判官はそう命令したが、青年には通じなかった。今までに耳にしたことのない言葉に、ただ戸惑うばかりだった。

「ええと、その……」

 弱り切っている彼を見ながら、通訳は言った。

「なぜ、不法入国と脱獄をしたのですか?」

 青年はアヤフヤな記憶を頼りに答えていった。

「ど、動機は、……ありません。き、気がつけば、ここにいました。……なぜ、そうなってしまったのか、私にもさっぱり……」

 それをすぐに翻訳して、通訳は裁判官にその内容を伝えていった。どうも、裁判官らは、困惑しているようだ。

 青年は、今いる法廷をもう一度見渡した。彼の発言を聴いて、弁護士はうつろな目で、被告である青年を見つめ、たまに睨んでいるだけで、何もできていなかった。検察側はひたすら資料を見るだけだった。どうやら無理難題にてこずって、皆頭をかかえ、やはり証拠が不足していることを嫌々ながら言い合っている。こんな間の抜けた裁判に、傍聴人たちはついていけなかった。開廷から僅か二十分で、過半数がこの法廷から逃げた。今、残っている連中は、ただ単に面白がっているだけで、まともに聞いてはいそうになかった。

 裁判官の苦々しくゆがんだ顔を見ながら、青年は申し訳なく思いながら、もう一度今までに起こった出来事を、海辺の辺りから振り返ってみた。

 最初は海辺で、歩いても町にはつかなかった。途中の森で足を滑らせて、穴に落ち、このあと、気を失ったのだろうと思う。気がついたら、日が昇っていて、そこが郊外であるのが分かった。そこから町の中心部へ行くにつれ、周辺の雰囲気といった特徴が、自国とだいぶ異なっていることが分かり、とにかく警察署へ向かった。そこでなんとか身分を証明し、その町が国境の町であることを知った。その後、パスポート不携帯で拘束されたが、翌日に脱獄してしまった。しかし、どうやら国土が広いらしく、同じ国の警察によって、逮捕。注意を受けるものの、次の日も脱獄した。その次の日は厳重となり、会社にも連絡した。できることなら、迷惑はかけたくなかった。しかし、その翌日にも、また脱獄。そのせいで、とうとう裁判の強行が決定してしまった。前代未聞のことだったらしいが、人のことは言えそうにない。この広大な国土から抜け出したのは、今朝だった。国境から程近い、この簡易的な裁判所に向かっていったことも、はっきり覚えていることだ。しかし、このような事態を招いてしまった理由なぞ、つきとめられそうになかった。

 それと同時に、この法廷にいる全員が、現在直面している、訳の分からない、どうしてそうなったのかさえ不明な問題に困惑しているんだ。納得できないんだ。どうすることもできないんだ。と、青年は思った。

 やがて、裁判官はため息をついた。

「――弱ったなあ。今まで見てきた中で、最も奇妙な被告だ。現行犯で逮捕されていて、本人も犯行は認めている。それなのに手口については、被告さえも知らないとくる。だのに嘘発見器はびくりとも動かないとくる。証言もほとんど皆無だし、証拠らしいものだって、実際に入国しているというのに、まるで痕跡がないのだ。彼の所持品だって、その大半が犯罪性とは程遠いどこにでもある荷物ばかりで、挙句の果てには、音楽用語が題名の意味不明な冊子まで出てきた。……まったく不思議だ。いったい彼は、何なんだ……」

 ぶつぶつと独り言を言う裁判官を見て、不安に思った青年は通訳に尋ねた。

「これから先、ぼくはどうなってしまうんでしょうか……」

「聞いてみましょう」

 これ以上続けても、無駄であるため、一度裁判を中断するだけだということが分かったが、それから先のことは、皆目見当がつかなかった。

「君には悪いが、もう一度、拘置所に戻ってもらう。……どうか今度は脱走しないでくれよ……」青年もそう願いたかったが、もはやどうしようもない。手の打ちようもなかったのだ。



 かくして鉄格子の中に青年が入る事となった。スーツではない服もあったが、どうにも着る気にはならなかった。背広姿で監房にいる様子は、どことなく場違いな雰囲気を醸し出していた。

 歩き回るのに疲れて、しばらく室内にあった硬い椅子に腰かけていたが、再び立ち上がって、その狭い部屋をぐるぐると歩き回り、再び座ったり、また立ったりと、繰り返していた。

 そのうちに何一つ光のない外の夜景を鉄柵越しに眺めて、青年はため息をつき、考えた。ひょっとすると、おれは、無意識のうちに瞬間移動しているのではないだろうか。――こちらの意思に関わらず、勝手に体が――何にせよ、こんな状態になってしまった以上、もう元の暮らしを送ることなんか絶対にできない。……なぜ、おれがこんな目に合うんだ。こんな、いやか? どちらにせよ、酷いもんだよ。どうすることもできず、たった一週間程度で、平穏な日々が崩れ去ってしまったんだからな。……しかし、おれは非常に無力だな。……現に、今までのせいで、おれはとてつもなく面倒なことに巻き込まれつづけてきてしまった。そして、何の対策も、手段も、立てられずじまいだった。今もそうだ。けれども、おれの持つ「能力」は以前からそうだった。その程度だった。だが当時は、何一つ深刻になるほどのことは起こらなかった。おれは何をしてしまったんだ? ……とにかく、おれはこの、不気味で得体の知れないのせいで、人生を滅茶苦茶にしてしまった訳だ。……おれは、ついこの間まで、才能ある者をうらやんでいたな。人々があこがれを抱く、「能力」や「素質」というものも、結局は制御が効かず、人間にとって都合の良いものでなければ、何の役にも立たない。それどころか、人を苦しめるものに成り下がり、「能力」とさえ呼ばれない。ひょっとすると、今のおれのは、「能力」がもとから持つ、自身や他人を苦しめる負の影響が増大した形なんだろうな! ……もう、ばかばかしい。今まで、あれほど欲しがっていたものを、無価値なものと思っているおれは、いったい何を考えているんだ。……そんなことを考えるだけ無駄だ。何も解決しない! おれはこれからどうなってしまうんだ! 今からどうすればいいんだ! どうしたって、もう手遅れじゃねぇか! ああっ、もうぐちゃぐちゃだ! いっそ、もうおれは消えてしまえばいいっ……。

 いよいよ青年は思考の収拾がつかなくなったのか、その場で意味もなく叫ぶ事となった。

「もうっ、どうにでもなれぃ!」

 立っている状態から、いきなり身を投げ出すようにして、頑丈なコンクリート製の床へと寝転んだ。その拍子に、青年は硬い地面に頭を強く打ちつけてしまった。

「――×××××××!」

 看守が声を聞いて、様子を見に来たのだろうか。青年はそのようなことをぼんやりと思った。意識がだんだんと薄れていくなか、そんな大きな声が頭に響き、さらに近づく靴の音が変な感じに、かんかん、からから、さらさら、ざあざあと、妙な具合に、耳元でこだましていった。びくともしないはずの冷たいコンクリートが少しずつ、軟らかく、そうして徐々に温かくなっていき、頭や身体しんたい全体がその地面へ沈み込み始めたように感じられた。



 闇に紛れ込んでいた看守が問題の牢屋に来た時、もう青年はどこにも居なかったと聞き及ぶ。今まで長々と書いてきたが、わたくしにとって、この消滅こそ最も気にかかる事案なのである。

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脱走癖 一ヶ村銀三郎 @istutaka-oozore

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