第10話

「おーい! 塚田みれーい!」

 いやいや、授業中だ。

 美麗はびくり、と身体を震わせた。授業中に来るとは聞いていないのだ。

 でも、間に合った。

 この前、美麗の手が彼女の腹に当たったのだ。彼女は怒っているはず。

 昇降口の辺りで三つの色が揺れていた。

 数学の先生が、皺を寄せて美麗を見る。日頃優等生の美麗だからこそ、困惑しているのだろう。

 彼女は凄い目つきで美麗を見ている。

「おい、塚田、どういうことだ」

 先生は皺の寄った顔で美麗を見て、また外を見た。美麗は顔を青褪めさせて外を見たが、教室の中を見て、全部捨てた。

「っ……! ごめんなさい! 早退します…………!」

 少し逡巡した後、バッグを引っ掴んで走って教室を出る。

 まだ出会って間もない人たちだけど、こんなところよりましだ。絶対、絶対にあんな馬鹿たちよりもいい人だろう。

 スカートを揺らしながら階段を駆け下りて、靴に足を押し込んだ。正門のあたりに、三人が立っている。そこへ向かって思い切り走った。

 はぁはぁと肩で息をしながらへたり込んだ。

「塚田、おつかれ」

「頑張ったねー」

「良かった」

 三人に労われていると、理生が昇降口に目を向けてにやっと笑った。

「せんせー来ちゃったよ」

「逃げよ逃げよ」

 美麗を立ち上がらせて、三人一斉に走り出す。美麗も引っ張られながら、必死に走る。三人とも、何故か笑っていた。

 こんな状況なのに、明るく、楽しそうに笑っていた。美麗もおかしくなって、笑った。そんな美麗の顔を見て、理生はもっと笑った。

 ―――学校から逃げるなんて。

 ある程度逃げて、自販機の前で立ち止まった。

「はい、今日は奢り。何飲む?」

「……サイダー」

 理生にもらったサイダーをありがたく頂いて、爽快な音とともにキャップを開ける。炭酸が強いのと甘さのダブルパンチで顔を顰めた。

「思ってた、より、甘い」

「文句言うなよ」

 ふっと笑って、理生が言う。

 誰からともなく海へと続く道を四人はゆっくり歩いた。

 理生が真っ先に靴を脱ぎ捨てて、海へ入って行く。次に迅、彩華と続けて、美麗も海へ入った。

 ふと、冷たい海に、美麗は我に帰る。学校のこと、親のこと。

「私、学校から逃げちゃった。どうすれば良いの……?」

「お前の親は?」

「共働き」

「学校から連絡行って、多分すぐ帰って来るだろ。そしたら、転校したいとでも言えば良い。あんなとこ、お前が行く必要ないんだって」

 その手があったのか。でも、親はどう思うのだろう。

「…………」

「そんな心配そうな顔すんなって。もしものときは助太刀いくから」

「うん、あの、どこに、行けばいいの」

 三人一斉に目を合わせた。それを考えていなかったらしい。しばらく頭を寄せ合って考えて、美麗の方に向きなおる。

「俺らの高校来れば? 西高坂高校ニシコー

「西高坂……。お母さんに、話して、みる」

 海で三人と解散して、家に帰る。一人の帰り道は、普段感じないような緊張感で、心臓が変な動きを始めた。いっそのこと学校へ戻ろうかとも思ったが、せっかくのチャンスだった。もう二度とないかもしれない。

 自分の家に近付いてきて、タイルの家が目に入った。黒の玄関ドアに手をかけて、息を吸い込んでから掴んだ取手を引いた。

 玄関を開けると、母が駆け寄ってきた。

「ちょっと美麗! どういうこと!?」

 案の定、怒っている。最初は不安が襲ってきたけれど、次には無性に腹が立ってくる。

「お母さんには、わからないよ」

 多分、すごく苛立った声音をしていたのだと思う。普段の美麗ではありえないことに、母がぐっと押し黙った。

 母の前だと、口がよく回る。

「私は、中学の頃から、いじめられてたの。高校も、川谷っていう、私をいじめたやつと同じになっちゃった。物隠されたり、椅子だけどこにも無かったり、殴られたりもした」

 父も母も、自分のことを愛しているのは知っていた。美麗を苦労させないために、共働きで家にいないのも知っていた。

 けれど、お金なんていらないから孤独にしないでほしかった。

「私が辛かったの、知ってた? 知らなかったでしょう」

 やっと言えた。それなのに、責めた口調になってしまった。

 これも、八つ当たりだ。辛い思いをずっと人に言えなかったから。

 母は、すごく驚いた顔をして、美麗を見つめていた。もう涙が出なくなった美麗よりも、泣きそうになっていた。

「え……? 本当に、本当に、知らなかったの。気付けなくて、ごめん」

 戸惑いに声を震わせて、美麗に頭を下げた。

 母の目が潤んでいるのが見えて、美麗も涙が出てくる。

 やっと、やっと言えた。

 鼻を啜って、涙を抑え込みながら、母を見つめる。

「私、転校したいの。我儘だけど、せっかく入れた高校だけど、別の高校で勉強がしたいの」

 母はうんうんと頷いて、美麗の話を聞く。

「ごめんなさい、普通に学校に通える娘じゃなくて」

 自分で言って、劣等感が溢れ出てくる。黒くて悲しい感情。

「どうして、どうして美麗が謝るの。そんな人のいる学校なんて、行く必要ないから」

 母は泣いていた。母の泣いている顔を、初めて見た。なるべく、悲しませたくなかったのに。

 母と話し合った結果、転校することにした。

 一週間くらいの間、美麗は学校に行く必要が無くなった。

 早速彩華に連絡して、その旨を伝える。

 一緒に理生と迅もいたらしく、喜ぶ声が電話越しに聞こえてきた。

「……ありがとう」

 世界が、急速に進み出した。

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青を駆けて 天音あおと @aototty

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