神田さんと岩根君

 

 放課後、私は真っすぐに家に帰り、母にただいまと言って手洗いうがいを済ませ、部屋に上がった。怒っていた。神田さんと岩根君は付き合い始めていたのだ。うげえ、オボボロロロロオロロオロ。心の中だけで上品に嘔吐すると、本物の胃酸が上昇してきたので、トイレに駆け込んだ。皆さん、イメージには引っ張られないよう、普段から健全なイメージを持つよう心掛けてみたら、どうでしょうか?私じゃなければ、そう言って、代替不可能な商品のひとつもかっぱらっている。


 スマホのアプリでショパンを流しながら、机に向かう。タイマーで時間制限を設けて、数学の問題を解き進める。アラームが鳴り、軽く伸びをして、確認に移った。時間内に解けた問題の数がいつもよりはっきり少ない。

 原因もはっきりしてる。今朝神田さんと観た幽霊の映像が未だに心に残っているからだ。あの踊る幽霊は神田さんが謎のカメラで撮影した直後、変化をした。その変化はあまりにもささやかだったから、後から思い返して、ふと気づいだのだ。


 では、その変化とは何か。そこがわかれば、私だって東京大学に行く道も思いついたかもしれない。しかし、ひとまず、売りつけるために懸命に頭に汗を流した。女性の資本価値を最大限高めて、どれくらい稼げるかは、高校生が決してやってはいけないゲームをやり過ぎると(としばれ)、さすがに覚えてしまう。だから、私は短めの「駅馬車」だけで留めて置いた。記憶ってNFTだよね。


だいたい私たちが認識する「変化」ってそもそもなんだろう?何も思いつかないときほど、武術鍛錬をする時間が増える。


棒を持った。私の部屋は親ガチャに恵まれた状況だが、狭いほうが、個人的には追求しやすい。そうは言ってられないので、戦闘美少女の適切な振舞を開始。適切な振舞のプロトコル、私の場合「エヴァの主題歌で採用されなかったほうを庵野秀明再現マシンの攻撃をかいくぐりながら、歌う」・・です。はい。


まず、空間に対しての動きの幅を広げる鍛錬からスタート。ロボットに近いバーチャルヒューマンでも、生みの親の生みの親以上の認識がどういうものかは、想像の中の世界。それなら、いっそ既にあるイメージを前提条件にしたほうが、再現性がある。


まず、自分の周囲にワルキューレが無限にいて、それが球形の連携を組んで、自己の細胞ひとつひとつを、槍を突こうとしている状態を仮想。こんな状況は、フィジカルならまず助からないから、健全な少女の姿をしている今やらなきゃ、後でやろうとさえ思わない。鍛錬モード制限解除。


うん、ただの変態性癖だ。


まず、ひとりのワルキューレとこ〇し・・手合わせ所望。


つってもFateのワルキューレしか知らねーぞ。三体一いっちゃう?・・・すみません、やっぱり、ひとりで。


槍を携えた戦乙女。私は無刀。やれやれ、と思わないと死ぬ。(ここスクショ)


「直線攻撃シマス」


多重の直線的イメージは、どの並行世界の私も、防ぐことができる。


「円形攻撃シマス」


いっきにふくざつか。あー、ちょっと・・・今日はこのへんでオボロロロロオッロオロ。




やはり、殺された。それでも、死ぬまでの時間が増えたことを、デジタルヒューマンなら計算できるものだ。そういう小さな成功体験を地道に続けられる人が、フィジカルの領域でも大成することは、一般。


しばらく、そんなことを続けてから、あの幽霊をなるべく再現した映像と向き合い、私は会話を試みた。

「あのー」

 返事はない。

「私、ロボットなんですが、幽霊にインタビューするのは初めてで、正直緊張しています。緊張しているということは、殺されたら困るってことですけど、私は困りません。じゃあ、困る人は誰かと言うと、中の人です。彼だけは困ると思うので、彼の命を助けるために働いているわけです。オタクに人気が出るのも頷けるでしょう」

 やはり、返事はない。そもそも、こちらの言葉が相手に届いていることを担保するのは、私達の外見が似ていること、同じ言語がインストールされていることくらいだ。カタール・アルジャジーラの番組しか観ていない着物姿の幽霊じゃない可能性のほうが、高い。

 女性の幽霊はそもそも私のほうに、顔を向けようとしていない。俯いて、皿でも数えているような様子で、唇の端を動かしている。

「武力行使、して、反応しない相手は、私の経験にありません」

 幽霊ははじめてこちらを観た。そして言った。

「いま、踊っているの」

「え?」

「唇で、踊っているの。邪魔しないで」

「ごめんなさい・・・」

 私は、女性から先に目を逸らし、へたへたと座り込んだ。彼女が攻撃をしてくる可能性は想定していたが、本当に唇以外の筋肉運動が認められず、曖昧さだけが残る夜だった。











 再び机に向かったが、気が付くと、ノートではなくPCのウィンドウを見ている自分がいた。検索エンジンに「日本 踊り」や「伝統 舞踏」といったキーワードを打ち込む。ざっくりと調べてわかったこと———日本の踊りには膨大な種類がある。舞踏だけでも流派が200以上あり、動画で見れるどんな有名どころも、あの女性の踊りと、素人目にも似たところが少ない。



 舞踏の動画を見続けているうちに、玄関のドアが開く音が聞こえた。父が帰ってきたのだ。


「ただいま・・」

「おかえり・・・ねえ、今朝の話の続きだけど」

「もう、よそうよ」

「でも、どうしても納得できない。あんな酷い言い方・・・よくできるね?」

「だから、それはもう謝ったじゃないか」


 私はとっさに上着を羽織り、部屋のドアを開けた。階段を駆け下りると、玄関で向き合っていた両親がこちらに顔を向けた。父の細い顔。母の頬のふっくらした小顔。どちらの表情にも疲労と緊張、気まずさが滲んでいる。


「あっ・・・利恵ちゃん」

 口を開きかけた母の脇を通り抜け、玄関で靴を履いた。

「ちょっと、外走ってくる。運動不足解消」

 玄関は汗と靴箱の臭いが入り混った酸っぱい臭いがする。ドアノブに手をかけ、引いた。外の冷気が頬に当たる。昼間は結構温かったのに、温度変化が激しい。

「・・・あんまり遠くに行かないで、早く帰ってくるのよ。携帯は持った?」

「わかってるよ。そんなこと」

背中から追いかける母の声に、私は振り向かずに答えた。



 外に出ると、満月が浮かんでいた。そういえば、朝のニュースでピンクムーンの特集していた気がする。鼻から吸って、口から吐く。呼吸で心身の緊張がいくらかほぐれるのを感じ、同時に胸の奥に詰まった黒々としたものがいくらか減って軽くなった。


 ジョギングを始めた。準備運動代わりなので緩いペースで始める。地面の反力に乗り、腕を振って、体重移動する。思考を止めるために運動をしたが、そうやって意思で制御しようとすると、止まるどころかかえって溢れてきたりする。その思考が、今は両親に向かっていた。


 昔からおしどり夫婦というわけではなかったが、最近は喧嘩の頻度が増えている。母の職場のショッピングセンターがコロナの影響で閉館したり、父の給料が年齢上の理由でカットされたり、そういった要因もいくらかは関係しているだろう。

 それでも二人は愚痴一つ言わず、副業や転職など果敢に経済サバイブに臨んでおり、おかげで私も高校に通い、恵まれた生活を送ることができている。ひょっとすると、二人とも愚痴を言えない性格だから、噴出する苛立ちを近しい人にぶつけるしかないのかもしれない。それが私に向かっていないのだから、やはり私はガチャ運が良く、両親に感謝すべきなのだろう。


 仲裁に入ったことは何度かある。しかし、どうにもならなかった。二人の喧嘩は二人の問題で、娘の私さえ部外者なのだ。そんな風に感じて、私は介入を諦めた。

 

————そう、諦めた。私の怒りは、両親だけに向いていない。双方向に働いている。喧嘩する親と、それに対して無力な自分。


 走りのペースを上げた。思考の余裕が消えていき、周囲の情景が流れていくスピードが早くなる。住宅地を抜け、散歩道に入った。木々、街灯、マンションの二階に干された洗濯物。そういったものを視界の端で捉えながら、腕を振り、地を蹴った。今や、ほとんど駆け足のペースに近い。中学時代、陸上部に所属していたときはインターバルトレーニングをさんざんやらされた。その頃に比べると、いくらか体力が落ちているが、体力的負担より心地よさの感覚が今は勝っている。


 さすがに息が切れてきたので、ペースを徐々に緩めた。荒れる心臓の拍動が元に戻るまで、思いの他時間がかかる。


 デジタル時計に表示される心拍数の変化を観察しているうちに、ふと、この時計を地区大会出場祝いに父が買ってくれたときのことを思い出した。結局、芳しい成果を出せず、同級生や先輩から恨みの籠った視線を大いに浴びた私を、父と母だけは最後まで応援してくれた。


 ふいに熱いものがこみあげてきて、頬を液体が伝っていくのを感じた。ウエストポーチからティッシュを取り出し顔をぬぐうと、私は再び駆け始めた。忘れたい。自分が抱えているものすべてを、汗とともに出し尽くし、空っぽになりたい。自分の中の何かがそう叫ぶ音がする。


 踏切の音が聞こえてきた。私はさっきから駅に近づく方向に走り続けていた。今、自分の前にある歩道橋を渡ると、商店街があり、その道の真中あたりに行くと、駅の入り口が見えてくる。


 歩道橋を上がらず、階段の奥へと移動した。そこからだと、フェンスで仕切られた線路が目の前に見えるのだ。視線を左に動かすと、駅のホームが視界に入った。人がほとんどいない。そのためか、彼女の姿をすぐに認識できた。身体を滑らかに回旋させるその踊りは、見間違えようがないほど美しい。


 その姿が、ふいに消えた。自分が見たものが信じられず、私は目を凝らしてあたりを探したが、駅のホーム上のどこにも彼女はいなかった。どこかに移動して見えなくなったとかではない!まるで煙か霞のように消えたのだ!! 


 ふいに、今朝、鞄の中に入れていた本が百物語であったことを思い出す。膝が急に笑い出し、それは久しぶりのジョギングのせいではなかった。ひとまずタオルで汗をぬぐい、水分を補給すると、考えた。しばらく、歩道橋の下で立ち止まって考え続けた。


 風の冷たさを実感しだす頃に、ある問いが自分の中に生まれた。


”仮に、あの人が幽霊だとして、私が彼女を見続けるのをやめる理由になるの?”


 首を振り、私は来た道を引き返した。帰宅して、風呂と見様見真似とストレッチを経て、就寝する。心臓の音が五月蝿くて、とても寝れなかったので、あきらめて、おじいちゃんに教わったマッサージでひたすら手指と足指をほぐし続けた。




 


 






 

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ふたりおどり 太郎丸 @deadlydrive

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