コウ君、木から降りてきて

釣舟草

第1話

「風の人」という言葉がある。ひとところに定住せずに転居を繰り返し、旅を住処とするような人のことを差すそうだ。それと対になる言葉は「土の人」。ひとつの土地に何代にもわたり根を張って暮らす人たちのことだ。とすると、私は「土の人」、これからお話しするコウ君は「風の人」ということになる。


 私たちは人口1万人程度の小さな村で育った。棚田の広がる長閑なところで、秋の夕暮れには、辺り一面が金色に輝く。風がさわさわと穂を揺らしながら通り過ぎていく景観の美しさは、どんなに高価な宝石にも代えがたい。


 家は曾祖父の代から改修しながら住み続けている古民家で、大きな平屋の一軒家に、小さな離れがひとつ。広い庭には一本のブナの木が立っていた。この離れに住んでいたコウ君は、私と同い年の喧嘩友達で、大抵ブナの木の上にいた。


 木には梯子はしごが掛かっていて、小学生だったコウ君は、一度登るとなかなか降りてこなかった。「もやし」というあだ名の通り、風が吹けば飛びそうなほど痩せて色白だった彼は、その可憐な見た目とは裏腹に、頑固で風変わりな性格をしていた。そのせいで学校に馴染めず、放課後にはいつもひとり、ブナの木の上にいた。


 コウ君のお母さんのことは「ユイ子さん」と呼んでいた。「おばさん」と呼ぶには、余りにも綺麗過ぎたからだ。絵本から飛び出してきたお姫様みたいに、それはそれはしとやかで美しい女性だった。いつもパステルカラーのワンピースに白肌を包み、レースのついた日傘を差して優雅に微笑んでいた。田舎にはおよそ似つかわしくない、そんな垢抜けた姿を見て、近所のおばさんたちはこう噂した。



——あのひとはオメカケサンだから……。



 コウ君のお父さんは、東京の六本木という街で妻子と暮らしていた。毎月25日を過ぎると、コウ君のお父さんの正式な奥さんから、うちに送金があった。私の母は、そこから生活費や手間賃を抜いた額をユイ子さんに渡していたようだ。


 コウ君のお父さんには、一度だけ会ったことがある。私とコウ君が小学2年生の夏休み、つまり、コウ君が村に越してきた頃だ。うちの門を叩いたのは、パリッとスーツを着こなす背の高い男の人だった。


 ユイ子さんとよくお似合いの、王子様のような男性。ニコニコと愛想がよく、珍しい外国のお菓子やおもちゃを沢山持ってきてくれた。


 コウ君は、色とりどりのチョコレートの山には目もくれず、数えきれないほどのプレゼントの中からたったひとつ、ラジコンの飛行機に目を輝かせた。夢中になって遊ぶコウ君を優し気なまなざしで眺め、彼のお父さんはこう言った。



——そんなに好きなら、今度また飛行機を持ってきてあげよう。



 その約束が果たされることはなかった。


 ユイ子さんは毎日欠かさずおしろいをはたいたし、コウ君も門の前でずっとお父さんを待ち続けた。


 ラジコンの飛行機は、いつしか壊れて動かなくなった。待ち疲れたコウ君は飛行機を置き、木に登るようになった。そして何年もの間、一日中ぼんやりと空を見上げていた。




 ユイ子さんは料理が苦手だったので、食事の時間はうちの食卓を一緒に囲んだ。

 休日のお昼時、母はいつも私にこう言いつけた。


「コウ君を呼んでいらっしゃい」


 すると私はブナの木の下に行き、枝を見上げて声を張り上げた。


「コウ君、木から降りてきて!」


 コウ君は大抵、返事をしなかった。何度か呼ぶと、やっと一言「わかったよ」と、面倒くさそうに返答があるけれど、ちっとも降りてきやしない。


 コウ君は何か、途中で止められない大切なことをしているみたいだった。ところが、私の目にはボケっと空を眺めているようにしか見えなかった。そのことがいつも私をイラつかせ、私は木の下で腕組みし、溜息をつきながら彼を待ったものだ。


 コウ君が空を見上げて何をしているのか、一度だけ話してくれたことがある。


 彼は飛行機を待っていた。飛行機雲がなかなか消えない日の翌日は雨になる。そんな観測結果を、得意げに教えてきた。そんなこと知って何になるの、と問う私に、彼はこう言った。



——僕はパイロットになる。自分で飛行機を飛ばすんだ。そのためには空の専門家にならなくちゃ駄目だろ。



 誇らしげに話すコウ君は、偏屈でいじけている学校での彼とは違っていた。何というか、輝いていた。自分の世界の住人でいられる時間が、彼を魅力的にしていた。



 私はたぶん、その頃からコウ君のことが好きだったと思う。でも恥ずかしくて、そんなことは言えなかった。男勝りだった私はコウ君に小言を言い、するとコウ君は決まって「うるせーなー」と言い返してくるのだった。腹は立てど憎めない。嬉しくさえあった。だから、コウ君を一発殴って懲らしめた後、「頑張れ」とエールを送った。するとコウ君は「痛いよ、凶暴女」と、やはり文句を言ってくるのだった。


 コウ君の夢の実現を、私は密かに願っていた。コウ君もそれを知っていたはずだ。でも、その思いを言葉にしてしまえば、歯の浮くような偽物になってしまう。そんな気がしていた。幼かった私たちにとっては、言葉で確かめ合う必要など無かった。ただ互いの存在を感じることが、信頼の証明。喧嘩友達のコウ君は、私にとってそういう存在だった。


 コウ君を食卓へ連行する頃には、大抵ユイ子さんはもう席についていた。美しい女性ひとは私に微笑み、こう言ってくれた。


「ありがとう。コウには詩乃ちゃんがいなくちゃダメね。頼りにしているわ」


 明るいひなたの匂い。午後のランチ。母は料理上手で、私たちは些細なことで大笑いしたものだった。


 あそこには、全てがあったと思う。私たちの世界は小さく、限られていて、ただそこに存在しているだけで満たされていた。


 そう思っていたのが自分だけだったということを、のちに私は思い知ることになる。




 時が流れ、コウ君も私も大人になった。コウ君は都心の大学に進学し、村を出た。私は地元の郵便局に就職し、密かにコウ君の帰りを待った。


 コウ君は飛行機に関係する研究室に入ったそうだ。そのまま院に進み、やがて都心で研究者として就職した。もう帰っては来ないのだろうと諦めていたところ、なんとコウ君は退職し、村に帰ってきた。


——村から出たエリート研究者が、頭イカれて出戻ってきた。


 そんな噂が、瞬く間に駆け巡った。

 郵便局でも、おばあちゃんたちが繰り広げる井戸端会議でホットな話題だった。




*****




 コウ君は、また木に登るようになっていた。狭い離れにコウ君の個室は無かったから、ひとりになるにはそうするしかなかったのだろう。

 

 父親に捨てられた少年の日に戻ってしまったように、彼は一日中木から降りてこなくなった。


 励ましたかったけれど、どう声をかけたら良いか分からなかった。もう何年もコウ君とまともに口をきいていなかった。時間は進んでいるのに、コウ君の時計は子供のまま止まっているようだった。



 そんなある日の夕方、なんと、庭でコウ君とバッタリ鉢合わせた。原付から降りたばかりのコウ君の右手にはコンビニ袋が下がっていて、スナック菓子が大量に入っているのが見えた。青白く痩せた体躯は相変わらずだったが、髭や髪は伸び放題。顔には吹き出物。もう彼は、可憐な美少年ではなかった。薄汚く情けない男。私の目にはそう映った。


 ああ、でも、そう。コウ君が情けないのなんて、今に始まったことじゃない。昔から弱くて、そのくせ自分勝手で意固地だった。だからこそ、ユイ子さんだって私を頼りにしていたのだ。今だって何も変わらない。


 その気づきは、まるで天啓のようだった。静寂の中、夕陽が私たちの横顔を照らし、この美しい世界で2人だけみたいだった。


 コウ君には、まだ私が必要なんだ。そう心の中で繰り返す。神のお告げでもあったような感動で、心が震えた。


 思い切って声をかけた。


「コンビニに行ってたの?」


 コウ君は飛び上がって私を認めると、怯えたように後ずさった。あの頃の彼とは、まるで別人だった。


 コウ君が何も言わずに俯くばかりなので、私は続けた。


「そんなものより、ちゃんとご飯を食べたら? 村のみんな心配してるよ。私だって……」


「おまえに何が分かる……」


 低く、唸るような声。


 光が消える。空が夕闇に包まれ始めた。


 あれ……? コウ君の声って、こんなに低かったっけ……?


 戸惑う私に構わず、コウ君は続ける。


「村の奴らが心配? ああ、そうだろうな。変人母子おやこを『心配』するのは、暇な田舎者にとっては最高の娯楽だろうからな」


「何てこと言うのよ……。そうやって偏屈な考え方をするから孤立するんじゃない」


「おまえのせいだろ!」


 コウ君の、鋭く尖った声が突き刺さる。


 一抹の恐怖。


 まるで知らない人のように思えて、私はそれ以上語を継ぐことができなかった。


 コウ君は、私を捨ててブナの木の上へ登っていく。その背中を見ているうちに、私は次第に激しい怒りに襲われた。怒りは恐怖を淘汰した。どうしても許せなかった。私はついに、声を振り絞った。


「仕事がたった一度上手くいかなかったからって、何ひねくれてんのよ! コウ君って昔から頑固のくせに弱虫だよね! もう大人なんだよ! 前に進みなよ!」


 ブナの木の下に立ち、葉の生い茂る枝を見上げ、私は童心に還って声を張り上げる。喧嘩友達だったあの頃のように。


「コウ君、木から降りてきて!」


 木の上から返事は無い。


 イライラしながら待つけれど、コウ君はいつまで経っても降りてこない。私は呆れ果てて溜息をつく。でも、こんなことは慣れっこだ。


 心のどこかに祈りがある。


 あの頃、コウ君が興奮して語った夢。雄大な空を自由自在に飛び回る。その夢を、私は今も見ている。コウ君の夢は、いつしか私の夢になっていた。見せてほしい。悲しみのない青空を飛翔するコウ君の姿を。


「頑張れ!」


 私は叫んでいた。届いてほしい。私の気持ちも、コウ君の夢も。


 木の上からの反応は、やはり無かった。




*****




 その日の夜遅く、うちの前に救急車が止まった。サイレンの音で起こされた私は、窓から外を伺い、目を疑った。


 救急隊が、ぐったりしたコウ君を担架に乗せている。


 気がつけば私は、寝巻きのまま外へ飛び出していた。


 泣き腫らした目のユイ子さんが、狂ったようにコウ君の名を連呼している。搬入されていくコウ君は、目を閉じて動かない。木の下に落ちているのは、ロープだ。


 私も気が動転していた。


「コウ君どうしたんですか?」


 そのときのユイ子さんの顔を、私は生涯忘れることができないだろう。般若の面さえ安らかに見えるほどに、強い怒りと悲しみと殺意に満ちていた。


「詩乃ちゃん、あんた、コウに何を言ったの?」


 突然のことで、私は言葉に詰まった。嫌な汗が出る。何も答えられない。


「もう沢山よ! 金輪際、コウと関わらないでちょうだい!」


 ユイ子さんは血走った目でそう吐き捨てると、救急車に乗り込み、けたたましいサイレンと共に去っていってしまった。


 私はただ、寝巻き姿で間抜けみたいに佇むことしか出来なかった。



——私が……私が追い詰めたの? コウ君を、私が……?



 何がいけなかったのだろう。さまざまな考えが次々と頭を巡り、耐えられなくなってその場にうずくまった。コオロギの大合唱と闇の中で、私は場違いの涙を流したのだった。


 たぶん、私に泣く資格などなかった。私の涙は欺瞞に満ちて薄汚れていたのに、朝方まで止まることなく流れ続けた。




*****



 コウ君は、一命を取り留めた。


 あの後、私の母とユイ子さんとの間でもトラブルが起きたようで、2人はほとんど交流しなくなった。母は、コウ君母子の話題を明らかに避けていた。


 コウ君はしばらく入院していたそうだが、退院後も帰っては来なかった。いつの間にか、ユイ子さんごと村から姿を消していた。あの夜、ぐったりしたコウ君を見たのが最後だった。子供の頃はあんなに仲良しだったのに、仲直りの機会もなく、お別れさえ言えなかった。


 あのショッキングな事件から10年近くが経った今も、真夜中のサイレンの音に怯えてしまう。心に一度ついた傷は、完全に癒えることなど無い。


 人には、ひとところに定住しない「風の人」と、その土地に根を下ろして代々つないでいく「土の人」とがいる。コウ君が「風の人」として姿を消したのと反対に、私は実家に住み続けて婿を取り、「土の人」として生きる覚悟を決めた。


 今日はよく晴れた洗濯日和だ。庭にビニールプールを出し、5歳の娘と水鉄砲で戯れる。娘は偏食が酷く痩せていて、誰に似たのかとても色白だ。



——もやし。



 懐かしいあだ名が、ふと私の脳裏をよぎった。と同時に不安になり、そばにいた母に語りかける。


「今思えば、コウ君のあだ名『もやし』って酷かったよね。誰が言い出したんだか、子供って残酷……。小さな村だから家庭のこともすぐに広まって、みんなに揶揄われて……コウ君、居場所がなかったのかな……」


 すると、母は意外そうな顔をした。


「何言ってるの。最初に『もやし』って呼び始めたのは詩乃じゃない」


 心臓が止まるかと思った。

 母の口から、さらに驚きの事実が飛び出す。


「コウ君の家庭のことだってそうよ。アンタがクラスで吹聴したんじゃないの。あの不誠実な父親のことも生活費のことも……。忘れたの? ユイ子さんが泣きながらうちに来たことがあったじゃない。……あらやだ、この子ったら忘れてる」


 目の前が、真っ暗になった。


 遥か彼方の記憶を、必死で引っ張り出そうとしてみる。そんな私の様子に呆れたようだったが、母はすぐに溜息をついて被りを振った。


「でもねぇ……ユイ子さんにも問題はあったよ。引っ越すとき、母さん何て言われたと思う? 『結局、私たちみたいな弱者が追い出されるんですね』だって。陰気だなぁとは思ってたけど、長年あんなに親身に世話してあげた相手に感謝もせずにそれだよ。後ろ足で砂をかけるって、このことだよ」


 母は悪口に興が乗って止まらなくなり、荒ぶり、まくしたてる。


「いつまでも若くて綺麗なつもりなんだよ。おばさんのくせに悲劇のヒロイン気取り。だから教えてやったわ。『あんたがもう少し村に馴染む努力をしてたら、コウ君も手を差し伸べてもらえただろうに、残念だったね』って。そしたらあの人、だーんまりしちゃったよ。最後の最後に自分の非に気づいたのかねぇ」


 後半はもう、母の声がほとんど耳に入ってこなかった。



 鼓動が早い。バクバクと音を立てている。



——ああ、そうだった。



 あの教室。顔を真っ赤に歪ませ、涙を浮かべるコウ君。


 泣き叫ぶコウ君の筆箱や体操服を窓の外へ放り投げたのは、私。机やノートに「宇宙人は空に帰れ」と書いたのも、教科書をゴミ箱に捨てたのも。そう、いじめの主犯格は私だった。


 好きだったから。気持ちを素直に伝えられなかったから。でも今さら遅い。すべてが遅すぎた。


 なぜ、なぜ今の今まで忘れていたんだろう。決して忘れるべきでないこと、忘れてはいけないことだったのに。もう謝ることすらできない。




 庭のブナの木には、今ではブランコが下がっている。


 天真爛漫な幼女がブランコを揺らし、キャッキャとはしゃぐ。おさげ髪が揺れるその横で、私は枝を見上げた。


 つい小声で呟く。


「コウ君、木から降りてきて……」


 返事は無い。あの頃と何も変わらず。




 本当は分かっていたのかもしれない。


 コウ君にとって、私は最初から必要ではなかった。すべては逆だった。コウ君を必要としていたのは私の方。私を振り払い前へ進んでいたのはコウ君で、私こそが、ずっと幼い時間に取り残されたままだったのだ。


 ああ、それでも。


 あの日に還りたいといつも思っている。コウ君と喧嘩したあの日に。そうしたら何を話そう。もっと気の利いた言葉を、温かい言葉、傷を癒す言葉を。



「お母さん、どうしたの?」


 幼い娘が私の顔を覗き込む。どうやら私の表情が苦痛に歪んでいたようだ。


「ちょっとね、昔のことを思い出してたのよ」


 私を不安げに見上げる娘。この瞳を濁らせてはいけない。娘のために笑顔を作る。


「そろそろお昼にしない? 特大ホットケーキ、作ろうよ」


 幼子の歓声が青空に響く。


 帰ってこないものを求めすぎては駄目。こういうささやかな幸せでいい。


 今この瞬間、ここにある大地を踏み締めて生きていけばいいんだと、私は心に念じるのだった。

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