第九十三話

 白い床に落ちた赤い雫は、緩やかに溶けてシャワーの水流に流されていく。

 けいはそれを呆然と見送ったあとで、自分の胸元にも濃い赤色の液体が伝っていることに気がついた。


 反射的に鼻の下と唇を触り、その手を見やる。

 指がべったりと赤く染まっていた。

 慌てて鏡の曇りを拭って覗き込むと、鼻から血を流した自分が映っていた。片側の鼻腔から出血しているようだ。


 逆上のぼせたのか、それとも少し〈夢中〉になりすぎたのか。

 軽く眩暈に襲われながら下らないことを考える。


 再び顎先から垂れ落ちそうになっていた鮮血を洗い流し、馨は鼻の両側を手で押さえながらバスルームを出た。

 とりあえずタオルを腰に巻いて、備え付けのティッシュケースに手を伸ばす。

 その時──千恢のいる部屋に繋がるドアがノックされた。


「馨? そこにいる?」


 当然だが、聞こえてきたのは千恢の声だった。目が覚めたばかりなのか少し眠たげな声をしている。


「ああ、いるけど、どうかした?」


 鼻をティッシュで押さえながら応答する。


「さっきからね、君の携帯が何度も鳴ってて……迷ったんだけど、急用かもしれないし知らせておかなきゃと思って。……開けてもいい?」

「うん──いや、ちょっと待って」


 タオルを外して下着を履き、いいよとドアの向こうに呼びかける。


 千恢は様子を窺うようにそっとドアを開けて入ってきた。

 一糸纏わぬ身体にバスタオルを巻きつけ、手には馨のスマートフォンを持っている。


「着信相手は見てないんだけど、何コールかで切れてはまたかかってきて、全部で3回くらい……きゃあぁっ!」


 話している途中で馨の顔を見た彼女は目を丸くした。


「馨……! どうしたのそれっ! 鼻血!?」

「え、ああうん。今さっき、急に出てきて……」

「大丈夫!? 早く、こっちおいで!」


 慌てた彼女に手を引かれて部屋に戻り、ベッドに座る。

 腰を落ち着けると、眩暈は少し和らいだ。

 

「どうしよ、逆上せたのかなっ? 何か冷やすもの……」

「いや、いいよ。このままじっとしてれば収まるだろうし」

「でもっ」

「全然大丈夫だから、そんな焦るなって」


 彼女の表情はやたらと不安そうだった。馨はそれが気になってじっと見返したが、彼女の方が先に目を逸らしてしまった。


「と、取り乱してごめん。私、その、血が苦手だから……。自分のでも、人のでも、なんか無性に不安になっちゃうんだ」

「……ああ。そういえば、前にそんなこと言ってたな」

 

 馨はその言葉を聞いて思い出していた。

 2ヶ月ほど前──飲み会を抜けた自分と寧々ねねを追ってきた彼女が、転んで怪我を負った時のことを。


 あの時も彼女は同じことを言って、応急処置を頼んできたのだ。

 なぜ苦手なのか?

 馨は強く興味を引かれた。しかし、無遠慮に尋ねていい話題ではない気がして言葉を飲み込む。


「別に怪我したわけじゃねえから、大丈夫。……とりあえず、お前も身体流してくれば」


 時間もないし、と言うと、彼女は不安そうにしながらも頷いた。


「そうだね……けど、何かあったらすぐ言ってよ?」

「分かった」


 彼女がそわそわした様子で洗面所に入るのを見届けて、馨はベッドに置かれた自分のスマートフォンに目を移した。

 手に取って着信履歴を確認する。


「……!」


 そこに表示されていた最初の二つは、

一花いちはな しき》──馨の父親の名だった。

 残りの一つは、母の真咲まさきである。

 

 馨は千恢との時間に水を差されて苛立ちを感じると同時に、どこか薄ら寒い不快感を覚えた。

 父が他愛のない用事で電話をかけてくるなどまずあり得ない。

 最後の母からの着信は父が指示したものだろう。「息子は自分からの電話には応じたがらない」ということをよく分かっているのだ。

 それでもこんな時間に二度も自らかけてきたということは、急を要する話なのかもしれないが──。


 洗面所のドアの向こうからはシャワーの音がする。

 

 できることなら、今父や母とは話したくないと思った。

 先ほどまで何にも邪魔されず味わえていた幸福感から、引き離されてしまうことになるからだ。


「……」


 迷った末、何もせずにスマートフォンを置く。

 本当に急ぎの用なのだとしたら、もっと熱心に連絡を入れてくるだろう。

 馨はそう結論づけ、余計なことは考えずに千恢が戻ってくるのを待った。


 ◇


 深夜12時を過ぎた頃。

 二人は終電で街中から千恢の家に帰ってきていた。


 馨は寝室で明日の荷物をまとめていた。

 千恢は先にベッドに入り、その様子をぼんやり眺めている。


「そういえば、馨ちゃん。結局さっきの電話って折り返したの?」


 不意にそう尋ねられ、馨は作業の手を止めた。

 当然電話は折り返しておらず、あちらから再度かかってくる気配も一向になかった。


「いや、折り返してない。多分大した用事じゃないから」

「うーん……そっか」

「どうせ明日には顔合わせるし」

「あ、じゃあ……かけてきたの、お母さんか誰か?」

「うん。まあ、正確には父さんだけど。……会話してもろくなことにならねえから」


 話題にしたくないはずなのに、馨の口からはそんな言葉がこぼれ出た。

 千恢の眼差しが、じっとまっすぐ馨を見つめる。


「それって、どういうこと? お父さんと何かあったの?」

「いや……別にそういうわけじゃ。ただ、何かとくちうるさいから」

 

 馨は、なぜあんな人間が自分の父親なのかと常々疑問に思っていた。

 いつも我が子に過度な制限を課し、自分が正しいと思うもの以外は決して許さない。我が子がそれに興味を持ったとしてもだ。

 何よりもあの冷たく、時に憎しみの籠もった、蔑むような眼差しが、馨は大嫌いだった。


 千恢にはいずれ父との関係についても話さなければならないのかもしれない。

 しかしまだ、その決心はついていなかった。

 

「馨……? どうしたの?」

「いや、別に。実家帰るのめんどくせえなって」

「ん〜。そっか」


 彼女は不思議そうに目を瞬かせたあと、ブランケットに包まったままにんまりと微笑んだ。


「でもまあ、そう気を落とさないでよ? 君がご実家にいる間も、千恢ちゃんのえっちな写真とか送ってあげるから」

「え? ……要らねえよ」

「ふふ、ちょっと間があったねぇ。本当は欲しいんだねぇ」

「要らねえっつってんだろ」

「お返しに君のえっちな写真も送ってほしいな〜」

「……馬鹿。誰が送るか」

「え〜? ちょうだいよぅ」


 はしゃいだ声を上げたかと思うと、千恢はベッドから出てきて馨に抱きついた。


「っていうのは半分冗談で〜」

「半分だけかよ……」

「ふふっ。ねえ、今日のデート、すっごく楽しかったね」

「……うん」

「もしご実家で嫌なことがあったら、今日のこといっぱい思い出してね? そしたら何でも乗り越えられるから♡」


 それではむしろ──

 彼女の元に帰りたくなってしまうかもしれない。

 そう懸念せざるを得ないほど、今日だけで彼女への情を一層募らせていた。

 今までこんなに人を好きになったことがあっただろうか。

 

 馨は不思議な気持ちになりながら、満足げに微笑む彼女を見返して、顔を綻ばせた。

 明日からの憂鬱も、本当に乗り越えられる気がしていた。

 






────────




❀補足❀

千恢ちひろが「血」について述べたのは【第二十六話】

https://kakuyomu.jp/works/16817139556618491028/episodes/16817330649738775930

けいが父について言及している回は【第七話】

https://kakuyomu.jp/works/16817139556618491028/episodes/16817139557907550575

をご参照ください。

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