第七話

 寧々ねねは携帯を掴んだまま、ひどく慌てたようにけいを見つめた。 


「ごめんなさい、ちょっと電話してくるっ……」

「ああ、うん、大丈夫。どうぞ」


 彼女は席を立つと、小走りで店の入り口の方まで行ってしまった。

 残念に思いつつ、馨は安堵する。

 もしもあの着信がなかったら、彼女のことをもっとよく知ろうとして、少し馴れ馴れしい行動を取っていたかもしれない。

 それほど、寧々には浅からぬ魅力があった。


 着信の相手は一体誰なのだろうか。

 親なのか、友人なのか──はたまた恋人なのか。

 あれほど可愛らしければ、勿論恋人がいても不思議ではない。

 関心は湧いたが、馨はそれ以上考えるのをやめた。

 今しがた会ったばかりの関係では、何も推し量ることはできない。

 何より、この惹かれる気持ちが早くも死んでしまうのは惜しかった。

 


 少しして席に戻って来た寧々は、馨が話しかける前の、元気のない表情に戻っていた。


「ご、ごめんなさい……電話、時間かかっちゃった」

「全然。俺は大丈夫だよ」


 彼女は座るなり緑茶を飲み干し、席に置かれていたカーディガンを羽織る。

 そして馨を申し訳なさそうに見た。


「馨くん。あの、私……帰らなきゃいけなくなっちゃった」

「え、そうなんだ」


 電話の相手に帰ってこいと言われたのだろうか。


 何となく見やった窓の外はすっかり暗くなってい

る。

 この居酒屋がある場所は、大学や駅から少し離れていて、夜は人通りもあまりない。

 下心でも何でもなく、単純に若い女性が一人で歩くのは危険だと思った。


「一人で平気? 外けっこう暗いよ」

「うんっ……。と、友達が、迎えに来てくれるの」

「ああ、それなら大丈夫か」


 友達。

 彼女の口調のせいで馨は引っかかりを感じたが、深く考えないようにして流した。


「あ、あの、馨くんっ」

「ん?」


 また少し彼女の頬に赤色が戻っている。

 鞄を肩にかけて、伏し目がちに彼女は言った。


「せっかくお話できたから……その、これからも仲良くしたいなっ」

「! ああ、うん。良いけど」

「ありがとっ! 嬉しい……」


 彼女は携帯を持って手をもじもじさせ、遠慮がちに馨を見る。

 連絡先を交換したいのだろうか、と馨は思った。

 しかし、彼女は躊躇っている様子のまま何も言わない。


「……メアドかMINEのID、交換する?」

 

 恥を忍んで馨がそう言うと、彼女はあわあわしながら顔をさらに赤くした。


「あっ! えっと、あのっでも、も、申し訳ないからっ」

「申し訳ない? 俺は、別にその、嫌じゃないけど」


 柄にもなく馨はいくらか素直にそう言う。

 ところが寧々は首をぶんぶんと振って、何かを制するように掌を突き出した。


「っご、ごごごめんね……! 心の準備ができてないからっ……!」

「? そ、そっか。じゃあ、また会ったときにでも話そう」


 あまりに必死なので馨はすぐに引き下がった。

 彼女も連絡先を交換したがっているように見えたが、そうではなかったのかもしれない。

 どのみち同じサークルに所属するのなら、部室やこういう場でまたきっと会えるだろう。


「ごめんね馨くん、ごめんねっ……!」

「ううん、大丈夫。気をつけて帰って」

 

 安心させようと笑って手を振ると、彼女も少し恥ずかしそうに微笑んだ。

 

 それから彼女は部長の所へ行って何度もぺこぺこ頭を下げ、足早に店を出て行ってしまった。

 すぐに馨は近くのグループに話しかけられたので、漠然とした寂しい気持ちは徐々に紛れていったが、彼女のことは頭から離れなかった。


 ◇


「おいおいお前ぇ。ずっと黙ってっけど、俺知ってるんだかんなぁ?」


 帰りの地下鉄の中。

 いまだに飲み会のテンションを引きずった悠大ゆうだいが、肘で馨の腕を小突いてきた。


「え……何が」


 疲れて会話が億劫になりつつ馨が聞き返すと、悠大はいやらしい笑みを浮かべた。


「何がじゃねえよ、トボけんな! お前さっき途中どっか消えたなーと思ったら、別のテーブル行って女の子口説いてたろ! よく見えなかったけどさぁ、ケッコー可愛い感じの子!」

「! く、口説いてねえわ。お前と一緒にすんな」


 悠大が言っているのは寧々のことだろう。

 馨は内心少しどきっとしつつも、なるべく毅然として言い返した。

 しかしそれでも悠大は執拗に絡んでくる。


「で? で? どうなの、MINEのIDとかゲットしたんか?」

「してねえよ。用事あったみたいで、早めに帰ったし。ていうか、別に狙ってない」

「ハァ〜? 何それつまんな」


 悠大は額に手を当て、座席の背もたれに体を沈めながら言葉を続ける。


「お前せっかく念願叶って実家から離れられたのにさ〜、ハメ外さなかったら意味ないじゃん?」

「……それは」


 そう言われて、家族のことが頭に浮かぶ。

 悠大の言う通り、北海道にある実家を出られたのは馨にとって念願だった。

 母と姉はともかく、父は昔からずっと極端に厳格で、いつも馨に過度な制限を課していた。

 そのせいで遊びたい友人と遊べず、父の許したものにしか興味を持つことを許されず、思ったことも好きなようには言えなかった。

 道外の大学に進学するのも無条件で許されたわけではなかったが、一時的にでも離れられるなら、と馨は迷わずこの道を選んだのだ。


「俺はハメ外したかったんじゃなくて、ただ離れたくて離れたんだよ。手段じゃなく目的なの」

「へっ、なにカッコつけてんだか。なんにしても親の目がないんだから、もっと貪欲に行こうぜー? 俺なんて今日、可愛い子といっぱい話せたんだから!」

「あっそう。連絡先、結局何人と交換したの」

「えー? それは、んーと……ゼロ」


 そう言って目を泳がせる悠大に、馨は冷ややかな眼差しを向けた。


「え? ダサ」

「だ、だって! いきなりグイグイ行って嫌われたくなかったんだよっ」

「あれだけ意気込んどいてそれはダサい」

「おぉいこらッ、ボロクソ言うなっ。言っとくけど馨、お前だってゼロなんだからな? ダセえぞ?」

「そもそも俺はお前と競ってないし」


 馨は百花ももか千恢ちひろのメールアドレスは手に入れていたが、特段喜ばしいことでもないので黙っておくことにした。

 

「はあ〜、運命的な出会いしたかったのになー!」


 残念そうに嘆く悠大を横目にしながら、寧々のことを思い浮かべる。

 あの出会いが運命的だと言うつもりはないが、彼女に不思議な魅力があったのは事実だ。

 また彼女に会いたいと、素直に馨はそう思った。

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