第六話

 きらきらと潤っていて大きな焦げ茶の瞳。

 閉ざされた桜色の小さな唇。

 深い栗色のセミロングヘアは店内の蛍光灯で艶々と輝き、近くにいるだけで甘い香りが仄かに鼻を掠める。

 白くたおやかな手は、グラスの結露のせいか濡れていて、そこはかとなく魅惑的で、目が離せない。


「!」


 その手がすっとテーブルの上の枝豆に伸びたところで、けいは我に返った。

 不躾に眺めすぎたかと思い慌てたが、彼女は静かに虚空を見つめていて馨の視線には気づいていない。

 その表情は暗く、顔色も良くないようだ。

 おおよそ宴会には似つかわしくないその様子に、もしかしたら具合が悪いのかもしれないと思った馨は意を決した。


「……あの、大丈夫? 調子悪いの?」


 彼女の前に手をかざして声をかける。

 すると彼女ははっとして顔を上げ、慌てたように笑顔を作った。


「えっあっ、はい、大丈夫ですっ。ちょっとぼーっとしちゃって……!」


 花が咲いたようなという表現がぴったりの、可憐で愛嬌のある笑顔。

 馨はつい見惚れてしまった。


「あ……そ、そう。ならいいけど」

「はい! 済みません、お気遣いいただいてっ。私、飲み会初めてなので……」


 細い澄んだ声で彼女は言った。

 その頬は徐々に赤く色づいていく。

 照れ屋なのだろうか。


「そうなんだ。というか、敬語じゃなくていいよ。俺も1年だし」

「えっ! あっそうなんだ、先輩だと思っちゃったっ」

「……老けて見えるってこと?」

「ち、違うよっ! 大人っぽいなぁって!」


 彼女は慌てたように顔の前でぶんぶんと手を振る。

 その大袈裟で健気な仕草に、馨の胸は騒ついた。


「ふうん……。名前は何ていうの? 俺は一花いちはな馨」

「馨くんね、よろしくっ。私は、安心院あじむ寧々ねねですっ」

「あじむ? 珍しい名前だね」


 馨は内心いきなり下の名前で呼ばれて動揺したが、顔に出さぬよう平静を装った。

 珍しい名だと言われた彼女は、神妙そうな顔をして指で空中に文字を書き始める。


「うん、あのね、『安心』に病院の『院』で、安心院。丁寧の『寧』に、文字を繰り返すときに使う、『ノマ』みたいな字で寧々って言うんだっ」

「おお……すごい」


 率直な感想を述べると、寧々は恥ずかしそうに苦笑いした。


「な、なんか変っていうか大袈裟な名前だよねっ。恥ずかしいな……」

「そう? 良い名前だと思うけど」


 柄にもなく本心が口をいて出る。

 すると寧々は、ぴょんと肩を跳ねさせた。


「えっ……あ、ありがとうっ」


 煌めく瞳にまっすぐ見つめられる。

 見つめ返したい気持ちに激しく駆られたが、馨は慌てて目を逸らした。

 そんなことをしたら、絶対に不審に思われてしまう。


「あーえっと、安心院さんはこのサークル入る予定なの?」

「う、うんっ。私ずっとピアノとかシンセサイザー習ってて、それを活かせるサークルに入りたいなぁって。皆すごくウェルカムだし……ここにしようと思ってるよっ」

「そうなんだ。確かに、来る者拒まずだよね」


 この宴会の状況を見れば、その性質がありありと分かる。


「け、馨くんはっ?」

「俺もここにするつもりだった。他にも軽音系はあったけど……部費取らないの、ここだけらしいし」

「そうなんだ!」

「それで成り立つのかなって思うけどね」

「確かにそうだね……! えと、馨くんは楽器、何やってるの?」


 何気ない質問も、馨は不思議なくらいに嬉しいと感じた。

 他人に関心を持たれるのは苦手だというのに。

 彼女は魔法でも使えるのだろうか。


「ベースとギターかな。キーボードとドラムも一応できるけど……弦楽器メインが良いなって思ってる」

「えっ!? すごい……! 高校の時からバンド組んでたりしたのっ?」


 寧々は目を輝かせ、急にぐっと身を乗り出してきた。

 肩が触れそうなほど近づかれる。

 強まった甘い香りが肺まで到達すると、心拍数が一気に上がった。


「い、いや。親戚にバンドマンの人がいて、色々教えてもらってたってだけ。バンド組んだことはない」

「へえー! それもすごいね! いいなぁ……!」

「そう、かな」

「うんっ! 羨ましい! ねぇ馨くん、好きなアーティストはっ?」

「い、色々いるけど……Newluminousニュールミナス、Queen Python、あとAwfulオーフル Companyカンパニーとか。だいたいJ-ROCKかな……」

「わっ……! 私も好き!!」


 寧々は声を上擦らせる。

 先程の元気がなかった様子は一変し、彼女は興奮しているように見えた。

 そしてどうやら、彼女は見かけによらず軽音楽が相当好きらしい。

 趣味も自分と遠くない。馨は素直に嬉しくなった。


「あのねっ、私、Awful Companyオーカンなんて毎回ライブ行ってるんだっ……グッズも絶対買うし、お小遣いがいくらあっても足りないの!」

「ま、毎回? すごいね。羨ましいわ」

「うんっ! 他の何もかもを投げ打って行ってたからっ。実は学校休んで遠征行ったこともあって……罪悪感がすごかった!」

「熱狂的すぎ」


 思わず笑うと、寧々も照れたように笑った。


「ふふっ。だけどね、私もさすがにその後反省したの! もうやらないぞ、自分を律するんだーって」

「でもこれからはもっと行けちゃうんじゃないの? 高校までと違って講義休めるし」

「あ"っ! 馨くんそれ言っちゃだめ……実は内心私もそう思っちゃってるんだからっ」

「じゃあ全然反省してないんじゃん」

「うんっ……えへへ」


 顔を赤らめながら、寧々は頭の後ろに手をやって笑う。

 可愛いだけではなく茶目っ気もあるようだった。

 たったこれだけの時間で、馨はいつの間にか会話に夢中になっている。

 初めてとは思えないくらい話していて心地良く、彼女に対する関心が尽きなかった。


「ふぅ……っ」


 少しの間会話をしたあと、寧々は緑茶を一口飲んで息を吐いた。


「こういうわいわいしてるのね、ほんとは私苦手なの……。だけど今日は、楽しい気持ちになれたっ」

「そうなんだ」

「うんっ。その、今馨くんと話してて楽しいって思ったから……」

「えっ」


 予想外の言葉に、馨は思わず寧々を凝視した。

 反して彼女は顔を真っ赤にして、慌てたように視線を逸らしてしまう。


「あっ! えっと私、ごめんね……! しょ、初対面の人に馴れ馴れしいこと言っちゃったっ」


 そう言って彼女は忙しない手つきで髪を耳にかけた。

 耳まで赤くなっている。

 それを見て馨は心を突き動かされ、思ったままの言葉を口にした。


「そ、そんなことない。俺も、安心院さんと話してて楽しいと思ったから」

「! ほ、ほんと……?」


 寧々は綺麗なまん丸の目で馨を見つめてきた。

 艶めく桜の唇は呆けたように薄く開かれている。

 その無防備さと魅惑に、馨も目が逸らせなくなった。

 周りの騒がしさが一枚壁を隔てたように遠くなる。

 寧々とたった二人きりでいるような錯覚に陥った。


「馨くん……あの」


 彼女が何か言いかけたとき、忙しないバイブレーションが鳴り響いてその空気をぶち壊した。


 二人同時に、テーブルの上を見やる。

 そこにあった彼女のものらしき携帯の画面が、点灯していた。


「あっ……!」


 彼女は慌てて画面を隠すように携帯を掴んだ。

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