第五話

「! おい、何だよ」

 

 けいが手を伸ばして携帯を奪い返そうとすると、百花ももかはさっとそれを遠去とおざけた。

 この狭い席でこれ以上身を乗り出せば、百花の身体と不用意に接触してしまう。

 そんなことを考えて躊躇ためらっている間に、彼女は勝手に何やら文字を打ち込み始めた。


「ほらっ、こういう字。可愛いでしょ?」

 

 そう言って、電話帳の画面を見せられる。

 名前の欄に「千恢ちひろ♡」と入力してあり、その下にはメールアドレスまで登録されている。

 馨は彼女から携帯を取り上げた。


「なに勝手にメアドまで入れてんだよ」

「だって、名前だけっていうのも寂しいでしょ?」

「だからって」

「まぁそうカタいこと言いなさんな。これからはぜひ、親しみを込めて千恢って呼んでね♡」

「……」

「そんな顔しないでよ〜? 新しい漢字も覚えられたし、一つ賢くなったじゃん。ね?」


 百花の煽るような言動に、馨は閉口した。

 最初に抱いた警戒心に加えて、腹立たしさも増していく。

 彼女はわざとらしくにっこりと微笑んだ。


「それと、君の連絡先も知りたいし、あとでそこにメールしてね?」

「……するわけないじゃん。ていうか消すから」

「え、なんで〜?」

「なんでじゃねえよ。メールする用事ないし」

「別にいいじゃんかぁ。どうせこのサークル入ったら連絡先知ることになるんだよ? グループMINEも作るだろうし」

「じゃあ余計メアドいらねえだろ」

「いらなくないよ。とにかく消さないで、ね? 仲良くしよう?」

「……」


 その態度は鬱陶しかったが、馨は彼女を冷たく突き放すのを迷った。

 周りを見るかぎり、こういう人間と多少はノリを合わせて寛大に付き合っていかなければ、あっという間に置いていかれる気がしたのだ。


「……はあ。分かった、消さない」

「やったぁ〜。ふふ、ありがと」


 百花はへらりと微笑む。

 サークルの集まりというのも軽薄な調子が横行しがちなイメージがあるが、現時点では彼女の振る舞いがその最たるだった。


「ねぇ、ここにいるってことは一花くんも楽器やってるのかな? 何弾けるの?」

「……わりと何でも」

「何でも? ギターもベースもドラムも、キーボードも?」

「まあ、そう」

「そうなんだぁ。すごいね? 歌は? 何となくだけど上手そう〜」

「別に、上手くは……。好きではあるけど」

「え〜それ謙遜? 歌聴いてみたいな〜」

「……。百花さんは楽器何やるの」


 馨は質問攻めにされて居心地が悪くなり、彼女に質問を投げ返した。

 自分のことをあれこれ聞かれるのも話すのも、あまり好きではなかった。


「私? ベースとキーボードだよぅ。でもギターは全然できないから、君に教えてもらっちゃおうかな」

「え。いや……教えるの苦手だし」

「ふ〜ん?」


 彼女は微笑みをたたえて馨を見つめる。

 その笑みに深い意味はないかもしれないが、まるで見透かされているようだった。

 

「おーい! 頼んでた飲み物来たよ、百花ちゃーん」


 そのとき、幸運にも悠大ゆうだいからジョッキが回ってきて彼女の気がそちらに逸れる。

 どうやら先ほど追加注文していたものらしい。


「あ、与那城よなしろくんありがと〜」


 目の前を通って百花に手渡されるジョッキの中身を見て、馨は口をつぐんだ。

 非常に赤みの強いオレンジ色の液体。ソフトドリンクのメニューにあんなものがあっただろうか。

 百花はそれを一口飲み、唇を舐めて微笑む。


「たまにこの甘酸っぱさが欲しくなるんだ〜。ねぇ、ちなみにさ、君が飲んでるのってお酒?」

「ただの烏龍茶だよ。……未成年なので」

「ふふ。まじめだなぁ」

「当然のことだと思うけど。百花さんの飲んでるそれは? 何なの」


 痛いところを突いたつもりだったが、百花は狼狽えもせず余裕そうに小首を傾げるだけだった。


「ん〜何でしょう。一口飲んでみる?」

「え、いやそうじゃなくて……」

「美味しいジュースだよ?」

「いい。……いらない」

「ふ〜ん、そっかっ。なら仕方ない」


 百花は案外あっさりと諦める。

 馨の無愛想な態度が功を奏して、興味を失ったのかもしれない。

 そう思って安堵しかけた矢先──彼女が不意にテーブルの下に手を入れて、馨の手をぎゅっと掴んできた。

 

「!?」

「ねえ……」


 ぎょっとして思わず固まった馨の耳元に、彼女は顔を近づけてくる。

 豊かな胸が腕に当たったが、彼女は気にも留めない。


「一花くん。千恢ちひろって呼んでほしいって言ったのに、どうして全然呼んでくれないのかな?」

「は、? え、っていうか、なに、この手」

「答えてよ。どうして……?」

「いや、ど、どうしてって。初対面じゃ、呼びづらいから」


 早くこの場から逃げなければいけない。

 しかし、甘い囁き声が馨の足を竦ませていた。

 上体だけでも彼女から遠ざかろうとしたが、すぐ隣の悠大にぶつかる。


「ふぅん……つまり、恥ずかしいのかな?」


 テーブルに隠れていて見えないが、彼女に指の腹で手をじっくりと撫でられている感触もあった。

 そこからじわじわと、得体の知れないむず痒さのようなものが湧き上がってくる。


「は、放せってっ」


 とうとう我慢できなくなり、なるべく乱暴にならないように彼女の手を払った。

 彼女は特に残念がることもせず、思いのほかあっさり手を離す。

 それどころか口元ににやついた笑みが浮かべた。


「ふふ、可愛い反応」

「……な、何なの。お前」

「君って意外と初心うぶなんだねぇ」


 その飄々とした振る舞いは、もはや馨の目には不気味に映っていた。

 彼女は出会ったことのない人種だ。

 適切な対処方法も分からない。

 唯一、深入りすべきではないことだけが確かだった。

 馨は彼女から目を逸らし、ようやく動くようになった足で立ち上がった。


「あれれ、どこ行くのかな?」

「べ、別に、どこだっていいだろ」


 馨は彼女が言葉を続ける前にその場から離れた。


 男子トイレまで逃げ込んで一息つく。

 あの席にはもう戻りたいと思えなかった。

 空いている別のテーブルに座ってしまおうか。

 そんな考えが浮かんだところで、馨は気がついた。

 やたらと皆が席を移動しているのも、自分が落ち着ける場所を探し求めているからなのかもしれない。

 きっとそうだ。そう言い聞かせながら、馨はトイレを出た。


 元いた場所をこっそり確認すると、百花はまだ同じ席にいた。

 悠大達と普通に談笑しているようだったが、それにうかうかと騙されて戻ればろくなことにならない予感がする。


 そこから最も遠い壁際のテーブルを見やる。

 座っている人数が他のテーブルより少なく、身を乗り出して喚き立てている者もいなければ、王様ゲームを始めようとする者もいない。

 希望的観測かもしれないが、この宴会の大騒ぎとあえて少し距離を取っているように見えた。


 馨は迷わずそこへ向かい、穏やかに会話を楽しんでいるグループの近くに座った。

 手のつけられていないお冷が、いくつかまとまって置いてある。

 恐らく店員が運んできたままの状態で放置されていて、頼んだ当の本人達は騒ぎの中心へと行ってしまったのだろう。

 その中から一つ取って飲む。

  

 ちょうどそのとき、ふとすぐ横に静かな気配がやってきた。

 反射的に隣を見る。

 そして馨は、思わず目を奪われた。


 隣には美しい少女が座っていた。

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