第二十六話

「どうしよっかじゃねえよ。てか歩けんの?」


 けいは呆れながら百花ももかに訊ねた。

 彼女は苦笑いをして首を傾げる。

 

「ん〜、実はちょっときついかなぁ……右の膝が、とにかくめっちゃ痛い」


 確かに彼女の右膝は血塗ちまみれで、いつの間にか血がすねまで伝っていて痛々しい。

 ここのアスファルトは表面が粗く凸凹しているので、より酷く傷ついたのだろう。


「転んで怪我するの、久しぶりかも……」

「酒飲みすぎたんだろ」

「も〜、そんなこと言わないでよぅ」

「事実じゃん。調子こいて酒飲んですっ転ぶとか、ダサ」

「ひっどーい。う、いたたっ……」

「とりあえず、駅の近くのコンビニまで行くぞ」

「あぁ、でも私歩くの遅いし……置いて帰っていいよ? 自分でどうにかする」

「いや、何かあったら面倒だし。俺もコンビニ寄るつもりだったから」


 いくら腹立たしいと言えど、怪我をしている女性をこんな時間に一人で置き去りにするわけにはいかない。

 馨は彼女から手を離し、膝をついて屈んだ。


「ほら、おぶってやるから。乗って」

「え? あ、ありがとう」


 躊躇いがちに頷き、百花は馨にのしかかった。

 豊かで柔らかい胸が背中に押しつけられ、甘酸っぱい花のような香りがする。

 馨はそれらを意識しないよう努め、彼女を背負って静かな夜道を歩き始めた。


「ねえ、一花くんってさ、どこに住んでるの?」

「急に何だよ」

「足痛いから、会話して気紛らわすの……協力して? で、どこに住んでる?」

「……美麻みあさ


 仕方なく答えると、百花は小さく笑った。

 彼女の息が微かに首筋にかかり、妙にくすぐったい。


「美麻かぁ。私、どういけに住んでるの。地下鉄だったら、たった一駅だね。今度家に遊びに行ってもいい?」

「駄目に決まってんだろ」

「なんで? もしかして、付き合ってる彼女がいるとか?」

「いない。でも来んな」


 痛みを紛らわすために仕方のないことだとしても、厄介な相手との会話は非常に骨が折れる。


「彼女いないの〜? いない歴どれくらい?」

「……それ、言わなきゃ駄目?」

「お喋りしてほしいな。足、けっこう痛いからさ」

「じゃあまず自分から言えよ。人に聞く前に」

「ふふ。知りたいの?♡」

「……」

「私はいない歴3ヶ月くらいだよ。一花くんは?」

「……。まあ、俺も大して変わらない」

「へえ〜そうなんだぁ。なんで別れたの?」

「大学も別々になるし、遠距離で会えなくなるからって言われて」

「なるほどー。ま、あるあるだねぇ」

「そっちは。なんで別れたの」

「んーと、私が飽きちゃったから、かなぁ」

「え? ……最低だな」

「だって。新しく誰かと出逢いたかったんだもん」


 百花はそう言って、馨に抱きつく腕の力を強める。

 その口調はどこか寂しげだったが、馨は特に理由を問わなかった。


 ◇


 居心地の悪い会話をしつつ、二人はいくらか人気ひとけのある駅周辺にたどり着いた。

 大きい通りに面したコンビニのポール看板が見えてくる。

 馨は一旦そこから逸れて中道に入った。

 入ってすぐのところに小さな公園があるのだ。

 そこで百花を待たせて、コンビニに必要なものを買いに行こうと思った。


 公園に着いてベンチに彼女を座らせる。

 改めて彼女の足を見ると、膝から伝った鮮血はパンプスを履いた足の甲まで達していた。


「百花はここで待ってて。コンビニ行って買い物してくるから」

「うん……置いて帰っちゃわないでね?」

「ここまで来てそんなことしねえよ」

「確かに、そうだね。待ってる」


 彼女は弱々しい声で言って少し微笑んだ。


 ◇


 コンビニでペットボトルの水と絆創膏、ハンカチ、フェイスタオルを買って公園へ戻ると、百花はベンチで縮こまっていた。


「はい。買ってきた」

「ありがと……」


 彼女は馨から受け取ったハンカチにペットボトルの水を染み込ませ、傷口に当てようとした。

 しかし、そこで手が止まる。


 馨が何事かと見守っていると、彼女は顔を上げた。

 困ったように眉をひそめている。


「あ、あのさ、一花くん」

「……何」

「代わりに、やってくれない?」

「なんで。無理」

「お願い。私、血とか痛いの苦手なの」

「人にやられる方が恐いだろ」

「君ならいいよ、こういうの上手そうだから」

「意味不明。いいから早くやれよ」

「うう、一生のお願い。……ね?」


 彼女はいつものにやけた顔ではなく、切なく苦しそうな表情をした。

 濡れた薄い茶色の瞳が上目遣いで見つめてくる。


 それがあまりに切実で憐れで、馨は彼女を放っておけないと感じてしまった。


「……はあぁもう。痛くても文句言うなよ」

「うん……! ありがと、助かる」


 安堵した様子の百花から仕方なくハンカチを受け取り、彼女の前に屈む。

 ショートパンツから伸びる生白い太ももが目に入るが、無視して傷を観察した。

 血の溢れている患部には、砂や汚れが付着している。取り除いた方がいいのは分かっていたが、実際の経験などなく、馨の中に不安がよぎった。


「一旦、ちょくで水かけていい?」

「えっうん。いいけど……優しくねっ?」


 濡れないように靴を脱がせてから、ペットボトルを傾けて傷口に水をかけた。

 ハンカチを優しく押し当てて水圧だけで砂を洗い流すと、怯えた呻き声が上がる。


「あ、うぅっ」

「……痛い?」

「んぅ……だいじょ、ぶ」


 そう言いつつ彼女の声は震えている。

 傷口はかなりきれいになったが、食い込んだ小石は残ったままだった。

 

「水だけじゃ取れないから、ハンカチで拭く。ちょっとだけ我慢して」

「えっ、や、やだ……絶対痛いじゃんっ」

「でもやんないと痕残るぞ。化膿するかもしれないし」

「んぅ、それもやだぁ……っ」

「じゃあ我慢して」


 彼女の細いすねを片手で押さえ、患部をハンカチで拭う。

 なるべく力を入れずにやったが、それでも彼女は体をびくりと跳ねさせた。

 

「ひっ……! あぁっ、ん、いたいっ」

「ごめん。あと少し」

「はぁっ……もう、やぁっ」


 彼女は自らの太ももに爪を立てて耐えている。

 涙目になって息を荒くしている様は、何となく直視するのがはばられるものだった。


 少しの間慎重に作業を続けると、異物はやがて取れた。

 新たに滲んだ血を再び水で洗い流し、最後にフェイスタオルで軽く水気を取る。


「ね、ねぇ……終わったっ……?」

「うん、大体は。今絆創膏貼るから」

「っ……はあぁ……」

 

 傷を早く治すといううたい文句の大判な絆創膏を彼女の膝に貼る。

 そのあと、すねや足の甲に付着した血を拭き取って処置を終えた。


「はい。終わり」


 そう言って彼女を見上げる。

 彼女の表情から強張りが薄れていくのを見ると、馨の緊張もそれとなく解けていった。


「はぁっ、助かった……一花くん、ありがとね」

「ん。少し雑だったかもしれないけど」

「ううん、全然。優しかったよ」


 彼女は微笑み、馨に手を伸ばす。


「……ね、一人じゃ立てないから、ちょっと手貸してほしいな」

「うん」


 その手を引っ張って立たせると──彼女はその勢いで馨にしがみついてきた。

 今の彼女を突き放すわけにいかず、咄嗟に両腕で受け止める。


「うわ、危ねっ……何だよ?」

「……ねえ一花くん」


 彼女は馨に回した腕に力を込め、顔を上げた。

 目元の淡い化粧がはっきりと確認できるくらい、距離が近い。


「一つだけ聞きたいんだけど……私が今まで君に、おかしな絡み方ばかりしてたの、どうしてだか分かる?」

「は……何、急に。そんなの、分かんねえよ」

「本当に?」


 馨は彼女の今までの行動を思い起こす。


 初めて出会ったときは無理やり携帯に彼女のアドレスを登録され、手を握られ、図書館では突然迫ってきて、体を正面から密着させられた。


 言動もいちいち挑発的かつ執拗しつようだったが、いくら記憶をたどっても、馨に非があるようには思えなかった。


「分かるわけねえだろ。俺には、嫌がらせされる心当たりなんてない」

「嫌がらせなんかじゃないよ」


 百花は自嘲気味に笑う。

 そして馨の胸元に、文字を書くように指を滑らせた。


「どうしても分からない?」

「分かんないって、そう言ってんだろ」

「そっか……あのね──


 私、君のことが好きなんだよ」

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