第九十二話

第九十二話


「──また亮輔りょうすけと来られてよかったっ」


 二人分の足音と共に、恋人と話す寧々ねねの妙に弾んだ声が聞こえてきた。


 四阿あずまやとの距離は恐らくもう数メートルもないが、ベンチの背もたれの陰にいる自分達に彼らはまだ気づいていない。


 けいは二人の会話を耳にしながら千恢ちひろの顔を見つめていた。

 彼女の目は伏せられ、睫毛が微かに震えている。

 薄くなめらかな布の隙間に指を差し入れると、彼女は喉の奥で小さく唸った。

 こんな状況でなければ、可愛いと直接言葉で伝えていただろう。それくらいいじらしく感じる。


 ときおり詰まる浅い息遣い。指先に伝わる彼女の熱。

 馨は更に欲に駆られ、彼女の首筋に唇を寄せた。

 本当は今すぐ下に組み敷いて好きなようにしたい。しかし、二人に見つかるのを恐れる彼女の意思も尊重したかった。


「でも5月にも来ただろ。この公園、そんなに好き?」

「うん! だって、亮輔との思い出の場所だもんっ」


 寧々の明るい声がはっきりと聞こえる。

 5月5日の夜。あのとき寧々がこの辺りにいたのは、恋人と会うためだったのかもしれない。

 馨はふとそう思い至ったが、少しも胸が痛むことはなかった。まるで他人事のような感覚だった。


 弱いところに指が当たったのか、千恢が悩ましげな吐息を漏らす。毎夜、一枚上手な彼女が余裕を失うこの瞬間が、馨は無性に好きだった。


「ねぇ亮輔、見て……!」


 困惑と高揚の混じった寧々の声。

 それと同時に二人の足音が止まると、千恢の身体が驚いたように強張った。


「あそこのベンチ、人いないっ……?」

「……ああ。でもここなら割と普通のことだろ」

「そうだけどっ……やっぱりちょっと、目に留まっちゃうっ」


 寧々が照れくさそうに言う。

 なかなか二人が立ち去らないせいか、千恢はまたぎゅっと目を閉じた。


「寧々って本当、そういうの好きだよな」

「えっ? す、好きじゃないもん──あ、置いてかないでよっ」


 再び聞こえ始めた足音を、もう一つが忙しなく追っていく。

 寧々は恋人に不満そうな甘えた声で抗議していたが、それも次第に遠ざかっていった。


 ──風が木の葉を揺らす。

 二人の気配が完全になくなってから、千恢は止めていた息を吐き出した。


「はぁっ、バレちゃうかと思ったっ……。君さぁっ、なんであんな悪戯してきたのっ……?」


 不満げに訊きながら、彼女は身体を離そうとする。

 馨は質問には答えずに、その腰を片腕で抱いて強引に引き寄せた。


「えっ…………な、なに? ちょっとっ」

「何じゃない。まだ終わってないから」

「! も、もうだめだよ、まって……あっ!」


 体勢を変え、狼狽している彼女をベンチに組み敷く。

 再び衣服の裾から手を滑り込ませた途端、彼女は慌ててそれを押さえつけようとした。


「だめ、やめて、もう触っちゃっ……」

「やめない。したいって思ってる時に抱きつかれて、我慢できるわけないだろ」

「あうぅ……」


 千恢は悩ましい表情をして小さく唸った。

 外で誰かに見られたくないというのは本心なのだろうが、物欲しそうに潤んでいる目はいつもと変わりない。


 ささやかな抵抗を払い除け、素肌に指を這わせる。馨はまるで、自分が誰かに操られているかのように感じた。

 己の行いを軽蔑する自分がいるのに、眩暈に見舞われて正常な判断ができなくなっていた。

 彼女の熱に触れた指先が、ゆっくり溶け出していく。


「あっ……ま、まって、だめ……!」

 

 千恢は不意に切羽詰まった声を上げ、身を捩った。

 そしてぱっと手を突き出し、馨の胸を押し返して言う。


「これ以上はっ……場所、変えよぅ……っ」

「……続き、したくなったの?」


 馨が大いに期待しながらそう尋ねると、彼女は俯き、やがて小さく頷いた。

 

 

 ◇



 二人は、家に帰るまで待つことができなかった。

 息を整えたあとで公園を出ると、再び街中へと足早に向かった。

 目指しているのは、駅前の坂を上った先にある娯楽施設の密集した通りだ。


 千恢は馨の手をきつく握り、半歩先を歩いている。

 ネオンが彼女の後ろ姿を艶やかに彩っていて、馨の目にはとても綺麗に映った。

 

 程なくして、千恢は一つの建物の前で立ち止まる。

 五階建ての高さで、白い外壁に「Hotel SPUR」というパステルカラーのネオンサインが光っていた。


 ──建物から視線を下げると、いつの間にか千恢が振り返ってこちらを見ていた。

 しかし、そこでは言葉を交わすこともなく、ただ5秒間見つめ合っただけだった。


 磨りガラスで顔の隠れたフロントから差し出された鍵。

 香水の匂いが鼻を掠めるエレベーター内。

 靴が踏み締める妙に厚い絨毯の感覚。


 部屋の扉を開けたとき、馨はもうこれ以上我慢しなくていいのだと思った。

 鞄を置くなりベッドに座った千恢の肩を後ろに押す。

 何の抵抗もなく仰向けに倒れた彼女の瞳が、ライトに照らされてきらきらと光った。


「馨……」


 紅潮させた頬を隠すように手の甲を当て、彼女は言う。


「今日……どうしちゃったの? あんなことして、本当に──君じゃないみたい」

「だから、何度も言ってるだろ。これも俺なんだって」

「でも……。もしかして、寧々ちゃんがいたから? あの子と彼氏さんの話を聞いて、つらかったから?」

「……違う」


 彼女のワンピースのボタンに触れながら、首を横に振る。


「寧々は関係ない。ただ今日お前といて、好きだって気持ちと、触りたいって気持ちが強くなったから」

「え……」


 驚く彼女を見ていると少し照れくさくなったが、馨はそこで口を閉ざしたくなかった。


「自分でもよく分かんないけど、お前がいつもと違って恥ずかしがってるから、余計にそう感じたんだと思う。……それじゃだめ?」

「だっ、だめじゃないよ。じゃないけど……あっ!」


 彼女は顔を横に逸らして声を詰まらせる。

 耳まで真っ赤になっている。

 自分がそうさせたのだと分かると、馨は再び深い高揚感を覚えた。

 今日はあとどれくらい、その表情を見ることができるのだろう──そんな風に考えると、止められる気がしなかった。



 ◇



 まだ半ば夢見心地のまま、馨はバスルームで独りシャワーを浴びていた。

 艶々とした壁の白いタイルが眩しくて、余計に眠気が増すように思う。


 千恢はまだ部屋でシーツにくるまっている。

 しかし、ここには最大で4時間しかいられない。

 あと1時間もしないうちに退室時間になってしまうため、彼女が疲労で寝入ってしまう前に起こす必要があった。


『──……』


 壁についた小さなモニターに目を向けると、観たこともない番組が放映されていた。音量は大きくないのに、音声がやけに音割れを起こしている。


 しかし今は別段煩わしく感じない。それほど馨は緩やかな充足感の中にいた。

 さっきまでのことを思い返すと千恢の泣きじゃくるような声が頭の中に響き、収まったはずの興奮が蘇りそうになる。


 もう少し浸っていたい。だが、いつまでもそうしているわけにはいかない。

 早く出て彼女を起こさないと。


 そう思って蛇口を捻ろうと、何気なく視線を下に向けた──その時。


 足元の白い床に一滴、真っ赤な雫が落ちた。

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