第九十四話
翌日、金曜日の夕方。
そろそろ叔父の
久しぶりに横たわっている寝室のベッドは、
これから向かう場所の布団はもっと寝心地が悪いはず──そう思うと、馨は溜め息をつかずにいられなかった。
千恢は夕方からバイトが入っていたため、彼女と顔を合わせたのは昼間が最後だった。
代わりに、先ほど送られてきたメッセージを読み返す。
〈馨ちゃん気をつけて行ってきてね♡
嫌なことがあったら千恢ちゃんを思い出すんだよ〜〉
簡潔な文章から伝わってくる想いに、無性に恋しさが募る。もしも今彼女が傍にいたら、叔父についていくのを迷っていたかもしれないと思った。
再び溜め息をついたその時、手の中でスマートフォンが短く振動した。
画面にはメールのバナー通知が出ている。
送り主は叔父だった。
〈着いた! 駐車場にいるぞ〜〉
その文面を見るなり、馨は身体を起こした。
とうとう来てしまったと落胆する自分もいたが、久しぶりに
憂鬱な気持ちを抑え込み、馨は荷物を持って部屋を出た。
階段を降りていくと、駐車場の空きスペースには見慣れない軽自動車が停まっていた。丸みのある車体は桜色をしている。
「?」
叔父の車は黒のステーションワゴンだったはずである。
近づいて車内を覗こうとすると、運転席の方から人が一人降りてきた。
「よお〜。久しぶりだな、けい坊」
無造作な金髪に、胡散臭い黒縁眼鏡。
顎に生えたわずかな無精髭。
ゆったりした膝丈のパンツのポケットに片手を突っ込み、
「創さん、久しぶり。元気そうでよかった」
軽薄な雰囲気だが、馨にとっては見慣れたものである。
彼は祖父や父と顔を合わせるからと言って、かっちりした装いをする気など微塵もないのだ。
昔から変わらないその姿勢に、馨は安心感を覚えた。
「おう。お前もな! まあまあ、とりあえず乗れよ」
気楽な調子で促され、後部座席に荷物を置いてから助手席に乗り込む。遅れて運転席に座った創はエンジンをかけ、カーナビをいじり始めた。
彼のカラーシャツの胸ポケットには四角い膨らみがある。
禁煙は相変わらずできていないようだ。
「お前どっか寄りたいとこあるか?」
「いや、特にない」
「んじゃあこのまま空港向かうぞ。こっからなら、30分くらいで着くんじゃねえかな」
「……そうなんだ」
空港に着いて飛行機に搭乗してしまえば、もう引き返すことはできない。
そう思うとやはり気分に翳りが生じる。
すると突然、右肩を強く手で叩かれた。
「おいおい、坊! 暗い顔すんなよ!」
「痛て……しょうがねえじゃん。行くの嫌なんだから」
「まーそう言うなよ。せっかく二人旅なんだし、今だけ楽しくやろうや」
「……俺もそうしたいところだけどさ」
「じゃあ頼むぜ。道中お前の大学生活について沢山話してくれよ。ほら、良い知らせもあるって言ってたじゃねえか」
「あ──うん、そうだった」
馨は念願の音楽サークルへの加入を、創に報告しようとしていたことを思い出した。
彼は自分の趣味を尊重してくれていた唯一の親族だ。その話をすれば、互いに少しは楽しい時間を過ごせるかもしれない。
「気ぃ取り直して行こうや、な!」
「……分かった。運転よろしく、創さん」
◇
「ていうかこの車、どうしたの? 創さんのじゃないよな」
車が走り始めてすぐに馨が尋ねると、創は頬を緩めて笑った。
「これか〜? これはな、
彼が嬉しそうに口にしたのは恋人の名前だった。
馨の知るかぎりでも、二人の交際は軽く10年は続いている。
灯佳は口数が少なくクールだが、優しい雰囲気を持つ女性だった。
「そうなんだ。灯佳さんも元気にしてる?」
「おう! 相変わらず二人でのんびりやってるぜ」
「そっか、よかった」
結婚はしないのかと続けて尋ねそうになって、馨は口を噤む。
創と灯佳の関係はずっと良好だったが、結婚については友人などに聞かれても言葉を濁し続けているのである。
デリケートな問題なのかもしれない──と数年前に悟ってから、気になりつつも聞かないようにしていた。
「そういえば、創さんと灯佳さんってどうやって出会ったの」
代わりにそんなことを聞くと、創は首を傾げた。
「ん〜? 俺ぁ二十歳になってすぐの頃、めちゃくちゃ荒れててな。家に帰らねえでバンド活動ばっかしてたんだけどよ」
「……逆に荒れてない時期あったの?」
「ねえけど! 一等荒れてたんだよ。で、
「じゃあ、もう16年くらい一緒にいるんだ」
「そうだな──って何だよ、突然ンなこと聞いて」
「いや、別に。何となく気になっただけ」
ちょうど赤信号で車が停止し、創が馨に視線を向ける。
「ふ〜ん。……馨。お前、彼女できたのか?」
「えっ? な、なんで急にそうなんの」
「おーっと!? 誤魔化したってことは図星か? おい!」
創はにやにやしながら揶揄ってくる。
馨は目を合わせたくなくて窓の外へ顔を背けた。
「お、俺の話はいいから」
「バカヤロウお前、オッサンの話より大学生の話の方が聞きたいに決まってんだろうが! どんな
「いない。彼女なんて、いない」
「ハハハ! そんな真っ赤になって、お前ってやつは! バレバレだっつの! いつまで経っても『めんこい』なぁ!」
青信号に変わり、車が発進する。
それでもなお彼は大笑いし続けていた。
馨はその掠れた笑い声が腹立たしくて、彼を睨みつけた。
「うるせえなっ。ていうかそれより、良い知らせ! 聞きたくないのかよ」
「あぁ? 彼女できたってのが良い知らせなんじゃねえのか?」
「ち、違うって。一旦そこから離れろよ」
「へいへい、一旦ね。で?」
まだ笑い出しそうな彼の横顔を見て、馨は言った。
「俺、サークル入ったんだよ。何のサークルだと思う? 創さん」
「ん〜? ──え、お前、まさか」
運転中にも関わらず、創は真面目な顔でちらりと馨を見る。
眼鏡の奥で、外の街灯に照らされた彼の目が輝いた。
「うん。そのまさか」
「……おい、マジかよ! よかったじゃねえか! やったなぁ!」
「だろ。会ったら絶対すぐ話そうと思ってたんだ」
「おお! どうだ、楽しいかぁ? 音楽! 軽音楽か?」
「うん。楽器も触り放題だし、もうライブもやったんだよ」
「マジか、凄えなそれ! もっと早く言ってくれりゃよかったのによぉ」
「ごめん。なんか目の前で反応見たくて」
無邪気に喜んでいる叔父を見て、馨も得意な気持ちになり顔を綻ばせた。
「いや〜、そうかそうか! その話だけでもう道中は退屈しねえで済みそうだなぁ! ライブはどうだった? 動画とかねえのか?」
「あ……俺は持ってない。確か
「おお! そうしてくれや!」
彼は浮かれた調子でそう言った。
可愛がっていた甥が音楽を楽しめていることが、彼にとっては自分のことのように嬉しいのだろう。
彼は今の馨と違い、当時趣味を肯定してくれる親族が周りにいなかった。それどころか全てを否定されながら若い時を過ごしたのだ。
「馨……間違っても
──血塗れ。
馨は彼の言葉を聞いて、13年前に起こった出来事を思い出していた。
───────
❀補足❀
「めんこい」とは北海道や東北地方の方言で
「可愛い」の意。
❀お知らせ❀
『えな─愛しい君へ─』の番外編である、
『戻らない日々、変わらない想い』を先週投稿いたしました。
https://kakuyomu.jp/works/16818093085231957437
馨の姉である
本編を読んでいただいている方であれば、
間違いなく楽しんでいただけるかと存じます。
何卒宜しくお願いいたします❀
香(コウ)
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