巡楽師ディンクルパロットの日誌
灰崎千尋
王国歴584年より抜粋
〈
王都にも芽吹きの歌が聞こえてきたので、そろそろ旅立つことにする。
『読み書きのできる者は今後、口頭ではなく日誌によって業務の報告をするように』とのお達しなので、渋々ながら筆をとった。
横笛は
全ての生き物は互いに影響し合って
巡楽師は数が少なく、あまり仕事の中身を知られていないので、一応書き記しておいた。吟遊詩人は自らの歌や物語を伝え広めるために歌うし、何より自由だが、私たちは国王の命を受けて、この国の調和のために歌う。巡楽師もまた役人のようなものなのだ。
『トゼカステ人は
この
〈
行程は順調。少し風が強いが、聞こえる音は朗らかだ。
この日、『緑の海』と呼ばれる丘に着いた。
見晴らしの良い丘に青草が生い茂り、その合間に
暦の名の通り、花の盛りのうちに来ることが出来て良かった。
丘を下りていくと、荷馬車を引く若者に声をかけられ、彼の祖母への荷物を預かる代わりに次の町まで乗せてもらった。宛先は少し先の村だが、今回の通り道だ。
若者が教えてくれた宿に入り、
〈
雨が続く。この
今日は村の子供から、遊び歌を一つ教えてもらった。生まれては消えていく流行り歌などを収集するのも私の仕事。
訪問者の少ない村で、子供たちには始め随分警戒されたものだが、今では「ディンクルパロット、何してあそぶ?」と誘ってくれるまでになった。
彼らにとっては、私の名前が面白いらしい。自分でも気に入っている。「ディン」と濁って勢いよく始まり、「クル」で舌を丸め、「パ」の破裂音を挟んで、「ロット」と舌の反動で歯の裏を打ち軽やかに終わる。口に出せば晴れ晴れとした気持ちになる響きで、とても良い。私の父が考えた名前なのだが、言葉の意味は全く無く語感だけというのがまた、私にぴったりだと思う。
泊めてもらっている家で、何度目かの
〈
山越えの最中、地の底から乱れた音が聞こえてきた。
私は横笛で『森の朝』を吹くことにした。鳥の声に始まり、葉を濡らす朝露、眩しく光る朝日を表す美しい曲だ。この混乱を収めるには、彼らの日常に近い音が必要だろう。
この試みは成功し、山に棲む者たちは徐々に落ち着きを取り戻した。
そして、私の音に
女性の姿の精霊が一人、木陰から現れたので、先ほどの声に心当たりがないか尋ねてみた。しかし彼女は首を横に振る。
「これは木の根も届かぬ場所のこと。太陽の沈む方へ、二つの川と原を越えた先。さて、人の手に負えるものかどうか」
そう答えられたので、「それを確かめるのも、私の仕事。ご協力を感謝します、緑深き
〈
ようやく『
『緑の海』の近くで預かった荷物も渡すことができた。
道中で
ご婦人は顔を
「ねむれ ねむれよ いとしい子
広げた翼の屋根の下
あたたかな大地のゆりかご
いつか はばたけ いとしい子」
聞いたことのない子守唄だ。懐かしそうに微笑むご婦人に、私は歌の詳細を尋ねた。
「火のお山の麓の、古い歌さ。あそこでも忘れられかけていたし、わたしもこの集落へ嫁いでしまったから、もう他に覚えている人もいないかもしれないね。でもわたしはなんだか気に入っていて、娘や孫によく歌ってやったんだ」
私はその歌をもう一度歌ってもらい、しっかりと譜面に記した。
不思議な子守唄だ。その旋律は赤子を寝かしつけるにはどこか勇ましさがあり、歌詞も雄大な広がりを感じさせる。
「火のお山」とは、ここからさらに西、国境近くの火山のことだろうか。当初のルートからは外れるが、精霊の助言とも合うので調べに行くことにする。
大地を介して聞こえる、苦しげな声。地震ではないので人々はまだ気づかないだろうが、目に見える異変が現れるのは時間の問題かもしれない。
領主の館が近かったので、挨拶と注意喚起を兼ねて訪問したところ、食事と寝床を用意してくれるというので、ありがたく世話になる。
代わりに晩餐で何曲か披露した。どうやら古風な舞曲がお好みらしい。
〈
火山の麓の村は、不穏な空気に満ちていた。
もはや誰の耳にも聞こえる地鳴り。みな怯えと混乱でちぐはぐな音をぶつからせていて、悪酔いしてしまいそうだ。これは濁りの大元から解決しなければ。
まずは村長に会った。私が巡楽師だと名乗ると、あれこれ話してくれた。
十日ほど前、村では祈りの儀式をしたのだという。遠い昔、この辺りには嵐や怪物から人々を守る神がいたのだが、ある時を境に姿を消してしまったので、その無事と帰りを願うものだそうだ。今回も例年通りに
これだけではまだ何とも言えない。取り急ぎ避難は進めるべきだろう。私もできる限りのことはするが、もし噴火したなら、この村は近過ぎる。音楽には力があるけれど万能ではない。私ではこの村を守れないのだ。
そう伝えると、村長はハッとした顔になり、村人たちに指示してくる、と出て行こうとした。それを少し引き止めて、
私は一度村を出て、より火山に近い、岩がごろごろと転がる
片足を二度、大きく踏み鳴らして合図をし、太鼓を叩いて、大地の小人へ挨拶する。彼らも困っているのか、今回はすぐに顔を出してくれた。
「おこってる」「りゅう」「ちのそこ」「こわい」
わらわらと現れて、ポコポコと足を鳴らしながら、彼らは口々に言う。「何故、怒っている?」と尋ねたが、彼らはウーンと首を捻るばかりだった。そこで「私、竜、会える?」と訊いてみた。すると彼らはヒソヒソと相談しはじめ、私はそれが終わるのをじっと待った。
「りゅう、だいじ」「たすける?」「たすかる?」
私はただ、「助けたい」とだけ答えた。彼らは顔を見合わせて、こくりと頷いた。
「つき、でるころ」「また、こい」
そう言うや否や、彼らは姿を消してしまった。
さて、竜に会うことにはなったが策はない。今や小型の
この
村へ戻り、大事に取っておいた蜂蜜パンを食べて、夜に備えることにする。優しい甘さと柑橘の香りが、心を落ち着かせてくれる。
〈
いやはや、何から書いたものだろう。
取り急ぎ、順に思い出していこうと思う。
昨夜、再び火山へ向かおうとしたところ、見回りに戻ってきた村長に出くわした。私が「山の地底にいる竜に会いに行く」と伝えると、村長は息を吞んだ。
かつてこの地にいた神というのは、巨大な竜の姿をしていたのだという。村長は「まさかずっとここに」「しかしそれならば何故」と混乱していたが、やがて「よろしく頼みます」と頭を下げた。
昼間と同じく呼びかけると、大地の小人が何人も現れた。
彼らは私をぐるりと囲み、独特なステップを踏みながら呪文を唱えだす。小さな足が一斉にドンと大地を震わせ、そのリズムは心音と呼応するように高鳴っていく。やがて私の体は、見えない鎧に包まれたように重くなった。守りの
続いて彼らは、ステップに加えて手を叩き始めた。すると手拍子に呼ばれた土や岩が寄り集まって、みるみるうちに大きな蛇の形になる。
「いそげ」と追い立てられるままその背に
どれだけの深さを潜っただろうか。火山の中心へ近づいているのは、徐々に増していく熱と濁った音でわかった。蛇の頭は岩盤すらも貫き、必死にしがみついているうちに、開けた空間へ転げ出た。
そこはぽっかりと空いた洞窟のような場所で、足元には赤々と燃えるマグマが広がっていた。その明かりに照らされるように、巨大な竜が窮屈そうに体を丸めていたのだった。
私はしばし呆然とした。マグマの上に何か透明な層があるようで、蛇の背を降りても平気だった。小人の守りがあるとはいえ、暖炉の炎ほどの熱しか感じない。
そんなことができるのはおそらく、目の前の竜だ。艶やかな黒い鱗に覆われた体が山のように
とその時、竜が目を覚ました。派手な侵入だったので当然の結果だが、開いた目は妙に小さい。尻尾がぶんと振られ、その一撃で土の蛇が砕け散った。だが私の存在は把握しきれていないらしく、周囲を嗅ぐように頭を振り、牙を剥き出して低く唸った。
そのとき私の口から、あの子守唄が自然と零れ出た。
「ねむれ ねむれよ いとしい子
広げた翼の屋根の下
あたたかな大地のゆりかご
いつか はばたけ いとしい子」
今こそ歌うべきだと、何故だか私には確信があった。そして実際、黒い竜は動きを止め、耳を傾けるように私へじっと顔を向けた。私は繰り返し歌った。竜へ届くように、なだめるように、寝かしつけるように。
やがて竜は「嗚呼そうだ、思い出した。思い出したぞ」と確かめるように言った。
「しかしお前は火の山の匂いがしない。この歌を知るお前は誰だ?」
そう訊かれたので、「私はディンクルパロット、この国を巡りながら音の濁りを調律する者。旅の途中、この歌とあなたの苦しむ声を聞きました」と名乗った。「何があったかうかがっても?」と尋ねると、「長い話になる」と次のような話をしてくれた。
この国ができるよりもずっと前から、竜は火山のそばに住んでいた。やがて人間たちがやってきて鬱陶しく思っていたが、不快な嵐を吹き飛ばしたり、縄張り争いで勝ったりするうちに、勝手に人間が崇めるようになった。だからといって竜が特別何かをしてやることもなかったが、退屈しのぎに人間を眺めてしばらく過ごしていた。そのうちに「人間は
だがある時、火山の噴火が近いことに気づく。村を守ることはできるかもしれないが、溶岩と灰で周囲は一度死に絶えるだろう。それに噴火は一度で終わりはしない。それならば、と、竜は自らが火山の
「その頃にはもう、人は人の世で生きることを始めていた。古い神など忘れて生きれば良い、そう思っていた」と竜は語った。そして願いを込めた子守唄を歌い、人々が寝静まった夜、まだ翼のあった竜は火口に飛び込んで火山をも眠らせたのだった。
だがこの竜は、脱皮を繰り返すことによって不老不死に近い力があった。そうして使わなくなった翼と目が退化し、記憶もまた薄れてしまった。ふと目覚めたとき、竜は何故火山に
「村人は避難させています。今ならば私の通ってきた道で共に出られるでしょう」
と提案したが、「これが
「忘れろと思っていたのに、忘れたのは
そう言って背を向けた竜に、私はこう呼びかけた。
「次の儀式からは、あの子守唄を歌ってもらいましょう。あなたを呼ぶ声が聞こえたのなら、歌もきっと届きます。それがあなたの重荷にならないなら、ですが」
しばらくの沈黙の後、竜は「頼む」とだけ言い、眠りについた。
空気が澄んでいくように、清らかに整った
その後は来た道を戻り、報告をして回った。
小人は無邪気に喜び、今回の対価は要らないと気前よく去っていった。
村長は本当に竜が生きていたことに驚き、儀式に子守唄を取り入れるという提案を快諾してくれた。そしてこの後、私のために
正直なところ、今すぐ寝床へ横になりたい気持ちもかなりあるが、
それに、今はこの幸福感に満ちた
巡楽師ディンクルパロットの日誌 灰崎千尋 @chat_gris
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