第9話 アイラブ


 ビジネスホテルのフロント係に転職してからゆうに十年が過ぎた。

 二十代半ばだった俺は三十代半ばを超え、立派なおじさんへと進化していた。


 立ってるだけ。


 それが俺、山口虎太郎の仕事だ。


   ※


「居酒屋で良かったのか?」

「はい。おしゃれな店で食事も違う気がするし、駅から近いから」

「まあ、ももさんがいいならいいよ」

 店員が来たので俺はウーロン茶を頼む。車で来ているからだ。

「ももさんどうする? 別に飲んでもいいぞ」

「じゃあ、お言葉に甘えて。日本酒を冷やで」

 へえ、ももさん日本酒飲むんだなと、どうでもいい感想を持つ俺。

 そう言えば、今年のももの歓迎会では女性陣はほとんど飲まなかったしな。新しい発見と言える。

「日本酒好きな人か?」

「うーん。と言うか、ビールが苦手で」

「ああ、女の子はそういう人たまにいるよな」

「食事はどうしましょう?」

「そうだな。先に食いたいものだけ頼んでくれ。残りは俺が頼むから」

「わかりました」

 ほい、とメニューを渡すとしばらく眺めていたももが俺を見てふっと笑った。

「どうした?」

「このお店来るの、実は二回目ですね。覚えてますか?」

「ああ。ももさんが入ってすぐの頃、一回二人で来たな」

「そうです。あの時も、『先に食いたいものだけ頼んでくれ』って言ってました」

「そうだったか?」

「女の子と食事に行く時の常套句なんでしょ?」

 いたずらなクソガキみたいに、メニューで顔を隠したももが笑う。

「まあ、それもあるが、メニューたらい回しにしてあれにします? これにします? とか効率悪いだろ。女の子との食事って言うより、居酒屋飲みが体に染み付いたおじさんのスキルだ」

「そうやってすぐ、自分をおじさん呼ばわりする」

「38はおじさんだろ。お前と一回り違うんだぞ。おじさんって盾がなけりゃやってられんわ」

「あ、だし巻き卵ありますよ。山口さん食べますよね?」

「食べるわ!! あと話聞けや!!」

 ももはちびちびと、慎ましく酒を飲んでいる。

 俺は飲めない分いつもより食っている。

 ももは地下鉄だが、俺は、と言うよりスタッフのほとんどはマイカー通勤なのでこうやって酒を飲む機会は案外少ない。

 俺はももを見て思う。

 この子と、付き合う未来があったのかも知れないんだ。

 こんな風に酒飲んで、笑って飯食って、そんなもん楽しいに決まっている。

 でも。

「ももさん」

「はい、なんですか?」

 俺は緩めていたひもをピンと張る。

「飯尾と、ジェシカと付き合うことにしたんだ。ももさんは、別の恋見つけろ」

「そうですね。違う恋します」

 あっさり帰ってきた返事に面食らう。

 まあそれでいいんだが、この子は今、何考えてるんだろう? 何を我慢していて、ほんとは何を求めているんだろう?

 知ってた。俺は知ってて、もうちょっとって思ってた。

 未練がましく好きですと言って欲しかった。

 受け止める覚悟もないのに、まだ好きですと言って欲しかった。

 他ならない、猿田ももに、俺は好かれていたかった。

「ももさん」

「はい?」

「良い後輩持てて、俺は幸せだ。俺は別の女を選ぶが、ももさんとは何も変わらない、ももさんは可愛い後輩だ。何かあったら話せ。何かあったら頼れ。俺は変わらずに、お前の先輩だ」

「………………」

「食ったらもう出よう。もう二時間経ってる」

「そうですね………」


   ※


「楽しかったです、今日」

「俺もだ。駅まで乗ってくか?」

「やめときます。ダラダラ汗かいて歩いていきます」

「俺が悪者みたいだな」

「悪者です。いいかっこしいの、悪者です。突き放すなら、突き放せよな」

「………………」

「冗談です。山口さん。今ね、わたし、結構大丈夫です。だからもう、気にしないでください。お食事できてよかった。前向いて、進まないとって思った。バイバイ、山口さん。また、明日」

「ああ、お疲れ。また明日な」

 ぺこっと頭を下げて、ももが歩きだした。

 正直に言えば、今まさに遠ざかっていくその背中を抱きしめたかった。

 いじらしくて堪らなかった。

 俺があいつなら、見つかっていない違う恋って言葉じゃ補えない程、誰かを愛していたいから。

 早く行け。

 そう願う。

 その時、遠ざかっていくももの背中がぴたと止まり、振り返って俺を見た。

 放心したように、何も映っていないその瞳は、まだ見送っていた俺を捉え、そして笑った。

 俺は歩き出していた。

 ももも歩き始めた。

 お互いの中間地点で俺たちは自然に腕を絡め合い、そして口づけを交わした。

 吹き荒ぶようだった。

 それは吹き荒ぶようだった。

 小さな背の、後輩の唇は口紅と女の味がした。

 腕の中にももがいる。

 色んなことが脳裏をよぎった。

 初めてのフロントで、お客さまを前に固まってしまったもも。

 愛おしかった。助けてやらなきゃって思った。

 お客さまに口説かれて、立ち尽くすももがいた。

 愛おしかった。その客がやけに、憎たらしかった。

 お昼の時間に、そのお得意のアルカイックスマイルで、卵焼きをくれるももがいた。

 嬉しかった。たぶん、毎日が愛おしかった。

 腕の中にいるもも。

 震えた唇。

 抱きしめた体温がやけに高くて、抱きしめているのに、抱きしめたいと思っていた。


   ※


 飯尾と付き合って、三年が過ぎた頃、些細なケンカの降り積もりで、別れることになった。

 その二年後。飯尾は寿退社して、俺はいつの間にか四十も半ばにさしかかっていた。

 ももは、そう。あのももは驚くことに今や三十を過ぎて立派なアラサーになり、今でもうちのホテルに勤めている。


 その日は夜勤で、いつかの夏のように外は熱帯夜で、でもバックヤードのエアコンはすこぶる快適で、この十五年かそこらで、俺もすっかり暑さに弱くなり、炎天下で肉体労働をしていた若かった頃を思い出したりしていた。


「山口さん」

「あ?」

「缶コーヒーいります?」

「なに、くれんの?」

「いいえ。支配人が夜勤のスタッフにって箱で買って来てくれたんです。良ければどうぞ」

「ありがと。お前は飲まないのか?」

「ブラックコーヒーは苦手なので」

「そうだったな。それでビールも苦手で、飲みに行けば日本酒ばっかりだもんな」

「ねえ、山口さん。覚えてますか? 五年くらい前のちょうど今の時期だったかな。若い私をたぶらかして泣かせたひどい男がいましたよね」

「ああ。らしいな。まったくもってけしからん男がいたもんだ」

「その人、今ジェシカさんが退職したもんだから、傍目で見ててもしょげ返っちゃってて」

「人から聞いた話だが、そいつ結構晴れ晴れと送り出したらしいぞ。うん、男だ!! なかなかできるもんじゃないな」

「わたしね、その晩に一度だけその人に抱かれたんですけど、今考えたら、その人相当だらしなかったんだなって」

「いや。あの日の二人には仕方がなかっただろう。あそこでグッと我慢できるやつは男でも女でも人間でもない。身を引くフリしたチキン野郎だ」

「わたし、誰にも言いませんでしたよ」

「そうでなきゃ困る」

「でも」

「あ?」

「篠崎ジェシカさんは知ってたみたいですけどね」

「マジか。あの篠崎さんと俺が義理の兄弟で、お前と飯尾が義理の姉妹か。笑えん職場だな」

「その言い方やめろ」

「で、お前。何でそんな話急にしたの?」

 そう聞くと、ももは笑ってお弁当箱を取りだした。

「なんでですかね。わたしもカレシと別れて気が抜けちゃったのかな」

「それでやる事なくて夜食に弁当か? 太るぞ」

「それなら少し手伝ってください」

「じゃあ、卵焼き一個くれ」

「ちなみにマヨネーズ味です」

「へえ、そうか、偶然だな。俺の家庭の味なんだ、それ」

「山口さん」

「ん?」

「餌付け、ちょろいです」

「俺に餌付けしたらなにか得でもあるのか?」

「ないです。ちょっとしかない、餌付けです」


                 了

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10年選手のホテルマン 鈴江さち @sachisuzue81

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