第8話 両手
ビジネスホテルのフロント係に転職してからゆうに十年が過ぎた。
二十代半ばだった俺は三十代半ばを超え、立派なおじさんへと進化していた。
立ってるだけ。
それが俺、山口虎太郎の仕事だ。
※
配布された九月のシフト表を見ると、あからさまに飯尾との夜勤が減っていた。
篠崎の仕業かと思う。
俺と飯尾の夜勤に無言の文句を言われた感じだ。
このタイミングで飯尾を再教育しようとしている篠崎は、俺と飯尾の関係を知らないとは言えやっぱり鬼だと思う。ましてや一緒に飯行ってから、まだそんなに顔も合わせていない飯尾に会いたいという俺の私情もある。
俺はその分日勤が多くなっていて、篠崎と家長さん、石井って子は半々。ももと井上さんが変わらず日勤で、飯尾と堀さんともう一人の男性スタッフの青田さんが夜勤多めになっている。
青田さん、なんかごめんと心で謝る。
俺が日勤増えた分、しわ寄せが行っている感じだ。
お子さんも小さいのに、なんか迷惑かけた気がして心で手を合わせる。
※
八月最終週の夜勤。
飯尾との夜勤だ。
ここを逃すと九月は半月くらいシフトが被らないので、ここがチャンスだと言える。
夕方、少し早めに職場に着くと、更衣室に向かう。
だが、着いてみると「女性使用中」のカードが下がっていて、間違いなく中には飯尾がいる。
仕方ないので先にタイムカードを押し、喫煙室で一服していると、青田さんが入ってきた。
青田さんは俺より年上で、イケメンだ。
ここのホテルでは俺の方が先輩だが、青田さんは前職もホテルマンなのでお互い未だに敬語だ。
「お疲れさまです」
「お疲れさまです。山口さん、来月のシフト見ました? 私、夜勤多めで入ってて」
「家庭があるのに辛いですよね。俺なんか独身なのに日勤で、なんか申し訳ないです」
「何かあったんですかね? 聞いてます?」
「いや。どうなんですかね。篠崎チーフのシフトって、たまに意味分かんない偏りがありますよね」
俺はちょっと篠崎をディスる。
「九月は子どもの運動会があって、その日だけは空けてくださいって言ったんですけどね。忘れられてたのかな?」
「何日ですか?」
「二週目の土曜です」
「ああ。俺空いてますね。代われるなら代わりますけど」
「ホントですか? 助かります。私からチーフに話してもいいですか?」
「ええ。お願いします」
せめてもの罪滅ぼしってやつだ。
運動会楽しんでね、と心の中で呟いた俺だった。
※
「二人っきりですね」
「ああ。二人っきりだな。でも職場でそういう事したらシャレにならんので自重しろよ」
「分かってますよ」
飯尾と、バックヤードでコーヒーを飲みながら話す。
時刻は真夜中を過ぎた。
仕掛けてくるならそろそろだなと思っていたので、俺は軽く牽制する。
飯尾はパソコンのモニターから目を離し、身体を少し俺の方に向ける。
「デート、楽しかったですね」
「ああ。そうだな。また誘っていいか?」
「もちろんです!!」
俺はお客さま口コミへの返信の文言を考えていて、左手で無意識に缶コーヒーを掴む。
その手が、飯尾に握られていた。
「来月、シフト噛み合ってないですね」
「そうだな。篠崎さんに睨まれたんだろ。日頃の評価ってこういうもんだ。一つ勉強になったな」
「う~~。なんか、今日冷たくないですか?」
「唸るな。いや、まあな。ちょっと想定外の事態が起こって。怒らずに聞けるか?」
「え、何ですか?」
俺は一息入れて、飯尾の手を解きコーヒーをあおる。
「ももさんにだな、好きって言われた。おじさんはとてもびっくりしている」
そう言うと、飯尾は黙った。
飯尾はしばらく沈黙したまま自分の缶コーヒーを眺めていたが、顔をあげると俺の目をひたと見た。
「わたしと付き合ってください。ももちゃんじゃなくて、わたしと」
「ああ。俺もそのつもりでいた。俺と付き合ってくれ、ジェシカ」
飯尾は笑った後、目を閉じた。
またキスをした。
二度目のキスだ。
もういっそ何度でもしてやろうと思う。肩を抱いて舌を絡めた。
これ以上すると俺の俺が起床しそうなので唇を離すと、飯尾はえへへ、と声を出して笑った。
「これから職場で、キスするのは禁止だ」
「オンとオフってやつですか?」
「ああ。俺は大概非常識だが、最低限くらいのマナーは守る男だ」
「我慢できます?」
「無理だ。だから今日いっぱいしとこう」
その後、頭湧いてるのかって思うくらいキスをして、お互い目が血走っていた俺たちは夜勤明けに求め合った。
※
土日の日勤は、多少忙しい。
チェックアウトのお客さまがお帰りになって、バックヤードに隣接する詰所から清掃のおばちゃんたちが出動する。
俺が内職していると、タバコ帰りの堀さんがバックヤードに入ってきた。
ちなみに今日の出勤は、俺と堀さん、ももと家長さん、そして支配人だ。
立場の上では、俺が今日のチーフである。そもそも一応名目はサブチーフだしな。
「どっこいしょぉ。やっと一段落した感じやなぁ」
「ですね。俺この後館内チェックに行くんで、バックヤードお願いしていいですか?」
「もちろんや」
ほんとは堀さんがタバコから帰ってくるのを待っていたんだが、そんないい笑顔で即答されたらまあしゃーなしと思う他ない。
「こたろー」
「はい?」
「両手に花なんて、いつまでも持てん。片方選んで、両手でかかげるのがほんとの花や」
ズバッと斬り込んできたな。
バスケだったらポイントガードって感じだ。
普段すっとぼけていても、さすがは年の功だと思う。
「両手でかかげたいんですけど、手放す花の置き方が分からないです」
そう言うと堀さんは両手のひらを組んで息を吐いた。
「まあ、出来るだけそっと置いてあげたいわなぁ」
「そこなんですよね」
「でもまあ、置けば花は傷むんだ。自分がナイフ持って、傷つけてるって、自覚して傷つけるしかないやろ」
「ですね。巡回行ってきます」
「ごゆっくりー」
ごゆっくりー、じゃ、ねえ。
館内チェックから帰ると、バックヤードでももがぽつんとモニターを見ていた。
別に何も見ちゃいないんだろう。
足休めにちょっと堀さんと替わったんだろうなと思う。
「ももさん、お疲れさま」
「お疲れさまです」
ももは少し居心地が悪そうだ。そりゃそうだろう。俺だったら逃げ出している。
斜め後ろから見るももの身体は華奢で小さかった。
ももの笑顔が見たかった。
疲れた心に、お疲れさま、って言ってくれるような、あの笑顔を。
でも、その笑顔は少なからず恋の笑顔だったんだなと知ってしまった。
俺の言葉で、彼女を笑顔にも傷つける事もできる。
傷つけたくなかった。
でも俺は、今から傷つけようとしている。
背広の襟をキュッと引き締めて、俺は話しかける。
「今日予定あるか?」
「あります」
ももが前を向いたまま答える。
「俺は予定なくてな。晩飯一緒に食う相手を探してるんだが、ぼけっとパソコン見てる女を誘いたいだが、どうしたらいい?」
「自分から傷つきに行くほど、わたしMでもできた女でもないです」
「俺はな、その女が後輩として大好きだ。ウソじゃない。ひょっとしたら後輩として、飯尾より大好きかも知れない」
「………………」
「どうやったら誘える?」
俺は言うだけ言った。
これで飯に来なくても、それならそれでいい。
話し合いたいのは俺のエゴだから。
少しの時間が流れた。
俺は答えを待っていて、斜め前の小さな身体が、振り向いて俺を見た。
「お昼一緒に、食べてください」
「ああ」
「卵焼きを、食べてください」
「うん」
「そしたら勇気出して、できる女になってみます」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます