八月の女の子
たつじ
八月の女の子
いくつかのカーブを抜けると、急に視界が開ける。左手に海。
「ここら辺は魚が美味しいよ」
僕しか乗っていない送迎バスの運転席で、雇い主の男が言った。
大学の二十五メートルプールで、朝から晩まで練習に明け暮れていた。熱心なわけじゃない。他にすることがないだけだ。暇つぶしにめくった求人雑誌で監視員のアルバイトを見つけた。住み込みで三食ついて日給もいい。ちょうどレポート作成用のノートPCが欲しかった僕は、八月の仕事を決めた。
監視台に座って双眼鏡を覗いているだけの毎日が始まった。穏やかな海なので、事故もほとんど起きたことがないという。たまに沖に流されっぽい人を見つけて、浅瀬に連れて帰るだけの気楽な仕事だった。雇い主の娘が、海の家で、昼食のまかない丼を作ってくれた。まだ十五歳だという。すらりと伸びた足に、つやつやの黒い髪。いかにもクラスの中心にいそうな雰囲気は、僕がかつて喉から手が出るほど欲しかったものだ。
「ねぇねぇ、真壁くんて彼女いるの?」
このくらいの子供はみんなズケズケとプライベートを聞いてくる。
「いないよ。てか、いたことない」
「えー!!大学生なのに!!」
「大学生になったら全員自動的に恋人ができるわけじゃない」
「ねぇ、東京ってどんなところ? 私、行ってみたい」
彼女が黒目がちな瞳で僕をのぞき込む。ふわふわ卵の乗っかったまかない丼を、なにかをごまかすように口いっぱいに放り込みながら、僕ははずみで口約束をしてしまう。
「連れてってやるよ、高校生になったら」
「来年かぁー遠いなぁ」
ハタチ過ぎると一年も短く感じる。また8月がやってきた。僕はあの約束を鮮明に覚えていた。この一年、どんな風に切り出すか何度も頭の中でシミュレーションしてきた。高校生になったあの子に、東京を見せてあげよう。渋谷や原宿や秋葉原。僕にとってはただの汚いビル群でも、あの子の長いまつ毛に囲まれた目にはきらきら映るんだろう。まぁ、それからのことは、期待なんてしてはいないけれど。
送迎バスに揺られて最後のカーブを抜けると、あの海が現れた。鼻歌を歌っている雇い主の男に、僕はなにげない風を装って聞いた。
「そういえば、まなみちゃんって元気ですか?またまかない丼食べたいなぁ」
「まなみは今いないよ。東京の高校に下宿してるから」
なんか彼氏もできたみたいでエンジョイしてるよ、と雇い主は続けた。僕は釘を刺されているのかもしれない。急にずしりと重たくなった身体をシートに預けて、目を閉じた。車が無遠慮に揺れる。
八月の女の子 たつじ @_tatsuzi_
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