猫が、鳴いた。

雪屋 梛木(ゆきやなぎ)

そうして人類は永遠の眠りについた。

 三毛猫のミケは静かな寝息を立てる飼い主の頬をザリザリと舐めてみた。以前なら「痛い!」とすぐさま飛び起きていたのに、ここ数ヶ月はピクリともしない。どうやら飼い主は今日も健康に眠り続けているようだ。


 知らぬ間に人類──もしくは人間と言うべきか──は皆眠り、この街をとってみても動き回っているのはミケのようなペットとして飼われていた動物たちか、人間のお世話をするロボットだけ。丸い胴体に一つ目玉をくっつけたようなお世話ロボットは1人に対して1台が専用に登録され、毎日太陽が登る頃と沈む頃の2回、登録された人間が眠っているベッド脇へとやってくる。赤外線で体温を測り、次いで脈拍や心拍数などを記録し服を整えると、腕に刺さった点滴の袋を交換し、消毒液を撒き散らしながら充電スペースへと戻っていく。その去り際、ペット用の皿に餌をカラカラと落としていくのだ。

 ミケが朝食用に出された餌をカリカリしていると、窓の外にモフモフした白猫が見えた。同じアパートの隣部屋に住むおっさんの飼い猫だ。

「オモチ、おはよう」

 ミケに挨拶を返すようにひと鳴きしたオモチは、窓横に取り付けられている猫用扉からサッと室内に侵入すると「大変、大変!」と叫びながらミケの餌皿に顔を突っ込んだ。

「あっ、こら! この、泥棒猫!」

「だって、我が家のロボットったら……モグモグ……私のご飯を忘れているのよ! いくら鳴いても……モグ……動かなくて……ゲップ」

 オモチが「困ったわぁ」とボヤキながら口周りをぺろりと舐めた。相変わらず騒がしい。

 ミケはやれやれと腰を下ろし、オモチの顔を覗き込んだ。

「またオモチが何かやらかしたんじゃないの。ほら、頭の上に乗ったりとかコード噛んでみたりとか」

「やってないわよ! ロボットに触ったら壊れることくらい、私だって知っているもの!」

「うーん、じゃぁ何でだろうね」

 ミケはすっかりカラになってしまった皿の横にこぼれたカリカリを見つけ、慌てて口に入れた。最近、餌の量は少しづつではあるが確実に減ってきている。たったひと粒でも貴重なのだ。

「他に変わった事はなかった? さっき大変って言ってたけど何かあったんじゃないの」

 食後の毛づくろいに勤しんでいたオモチがビクッと震え「あぁ、そうだ、そうなの!」と目を見開いた。

「大変、大変! ご主人様が死んじゃった!」



     一、



 人間も生き物。いずれは死ぬと頭で理解はしていても、いざ親しい友の身の上に起こると少なからず衝撃は受けるものらしい。

 ご主人様が死んだ、と騒ぎ立てるオモチをなだめながらミケは隣部屋へとやってきた。

 もちろん、オモチの訴えが本当かどうか確かめるためだ。このアパートは同じ階のベランダが繋がっている上に小型のペット扉が全部屋に設置されているペット大歓迎の稀有なアパートである。当然オモチの部屋にも猫用扉が窓の横に設置されており、もはやセキュリティーなど、あってないようなもの。ミケが勝手知ったる部屋へと足を踏み入れると、窓辺に置かれたベッドには青白い顔をしたおっさんが静かに横たわっていた。ミケの飼い主とは違い、安らかな寝息は聞こえてこない。

「本当に死んでいるみたいだ」

「みたい、じゃなくて死んでるのよ」

 オモチは潤んだ目をおっさんに向けた。

「私はもともと捨て猫だったから……ご主人様には本当にお世話になったの。最後に撫でてもらったのはもう忘れちゃうほど前になってしまったけれど」オモチはおっさんの手のひらに頭をこすりつけた。「まさかこんなにも急にご主人様とお別れすることになるなんて」

 オモチの体は小さく震えていた。

 思えば、おっさんが野良猫を拾ったとミケの飼い主に自慢しにきてからどれほどの月日が経ったことだろう。前に飼っていたペットがいなくなり、入れ替わり的に現れたオモチを文字通り一日中撫でまくり大切に育てていたことは周知の事実だった。オモチもその想いに応えるように懐いていたのだ。

 いたたまれなくなったミケはそっとベッドから離れようとして──足を止めた。

 何故だろう、何かが引っかかる。このままにしてはいけないと、ミケの中に微かに残る野生の勘が告げていた。

 ミケはさりげなく部屋の中を嗅ぎ回り、再びオモチの側へ寄ると遠慮がちに口を開いた。

「ねぇ、君の飼い主が死んだのは……いつだか知ってる?」

 しばらく経って落ち着いたのだろう。オモチは何度かまばたきをすると小さく首を振った。

「昨日の夜ご飯を貰う頃にはまだ息をしていたわ。ご飯を食べた後、いつも通り散歩に出て、明け方に帰ってきたら、もう……」

「じゃぁ君は飼い主が死んだときにはこの部屋にいなかったんだね」

 オモチは青い瞳を伏せた。

「こんな事になるとわかっていたなら、散歩なんて行かなかったのに」

 オモチがやおら立ち上がる。見るからにがっくりと猫肩を落とし、足取り重く歩き出した。

「ついに私もここを出るときがきたようだわ……」

「ちょっと待って」オモチの行く手を阻むように、ミケが猫用扉の前に立ちはだかる。「ここを出ていくのは、僕の話に付き合ってからでも遅くないと思うんだ」

 オモチが「どういうこと?」と言うように首を傾げた。ミケはベッドの真下を前足で指す。

「オモチはこれに見覚えがある?」

 紐が落ちていた。白と黒、灰色が入り混じったようなまだらな色で、ミケのしっぽほどの太さがある紐だった。オモチは匂いを嗅ぎ、

「これはご主人様が元気だった頃、お散歩に使っていた紐ね。ええと、リードって呼んでたかしら。でも変ね。あっちの壁に掛けてあったはずよ。ずっと使っていないのに、どうしてこんなところに落ちているの?」

「やっぱりそうか」ミケはふふんと鼻を鳴らした。

 疑問が確証に変わった瞬間だった。

「きっとオモチの飼い主は誰かに殺されたんだ。この紐で首を絞められてね」

「ど、どういうこと?」

「見てごらん、首に紐の跡がある」

 オモチは慌てておっさんの首筋を覗き込み、息を呑んだ。そこには食い込むようにしてくっきりと紐の跡が刻まれていた。

「本当だわ……そんな、何で……御主人様はずっと眠ってただけなのに!」

「理由は僕にもわからないよ。でも誰かがここに入り込んでおっさんを殺してまた出ていったのは間違いないと思う。ひとりでに紐が移動しておっさんの首を締め付けたりするわけないよ」

 オモチはじっとおっさんの青白い顔を見つめていた。ロボットは完全に沈黙し、ミケも息を殺すように縮こまる。

 失敗しただろうか。やはり言わなかった方が──いや、しかし。もし本当に殺されたのだとしたら、このまま放っておくなんて出来るはずもない。いずれは自分の飼い主が同じ目に合うかもしれないのだ。危険な芽は早い内に摘んでおいたほうがいい。ミケは小さく頭を振った。


 それからどれほどの時間が経っただろう。

 瞬きほどの間かもしれないし、水たまりが全て乾いてしまうほどの長さだったのかもしれない。

 やがてオモチがゆっくりと立ち上がり、おっさんの頬をひと舐めすると、震える声で問いかけた。

「御主人様は、誰に殺されたっていうの……?」

「うーん、そうだなぁ」ミケはひと呼吸おき、「ねえ、オモチ。もし君が殺したいほど憎らしい相手がいたとしたら、どんなふうに攻撃する?」

 質問の意図が分からないとでも言うように首をひねるオモチを横目に、ミケは前足で空を引っ掻く真似をした。

「僕は噛んだり引っ掻いたりすると思う。でも、この犯人は紐を使ってる」

「紐……」

「そうだよ。紐さ。紐はどうやって使う? そもそも紐を使える生き物なんて限られているんだ。例えば」ミケは冷たくなったオモチの飼い主に顔を向けた。「別の人間とかね」

「人間ですって!?」オモチがうわずった声を上げた。「変な病気が流行ってから、起きている人間なんていないはずよ!」

「でも、この広い街には沢山の人間がいるはずだ。もしかしたら一人くらい起きている人間がいて、このアパートにこっそり入り込んできたかもしれないじゃないか」

 ミケが前のめりに自論を畳み掛けると、オモチはきっぱりと首を横に振った。

「いいえ、私は昨夜から今朝までずっと屋根の上にいたの。起きている人間がこのアパートに入ってきたらすぐにわかるのよ。絶対に外からは入ってきてなんかいないわ!」

 そうか、そうだった。

 オモチはいつもこのアパートの見回りをしている。起きている人間が周辺をうろついていたら真っ先に気づいたはずだ。

 ミケは思案するように尻尾をひと振りし、窓の外へ視線をやった。

「外からは入ってきていない、となると……他の部屋の人間はどうだろう。他の部屋にもまだいるだろう?」

「その中の誰かが実は起きているかもしれない、ってこと?」

「それをこれから調べに行こうと思う。オモチも一緒に来てくれる?」

 ミケの提案に、飼い主をなくした白猫は一も二もなく頷いた。

「もちろんよ!」オモチがペロリと口周りを舐めた。「今日の夜ご飯までには犯人を見つけてみせるわ!」

   


 全ての部屋を見て回る、といってもこのアパートは1階と2階に3部屋ずつ。計6部屋しかない。ちなみにミケは102号室、オモチは103号室である。

「さぁ、どこから行こうかしら」

 鼻息荒く飛び出そうとするオモチの尻尾をミケは慌てて前足で押さえた。焦ってはいけない。きちんと準備をしなくては。

「その前に、オモチは二階に住んでた文鳥のブンタは知ってる?」

 急に振られた話題に不審な顔をしたオモチはしばらく記憶を探るように視線をキョロキョロさせ、やがて「あっ」と小さな声を上げた。

「この真上の部屋に住んでた小さな鳥ね! 最近見かけないと思っていたのよ。その鳥がどうかしたの?」

「7日前くらいかな。ブンタの飼い主も息をしなくなったみたいで、僕のところにお別れの挨拶にきたんだ」

「そうだったの……そういえば、知らないロボットがたくさん入ってきた日があったような気がするわ」

「ブンタに聞いた話では、飼い主が死ぬとお世話ロボットも動かなくなって餌がもらえなくなるらしい。ブンタは飼い主が知らないロボットに運ばれていったのを見届けてからどこかへ飛んでいったよ」

「じゃあ、このロボットは私のご飯を忘れていたわけではなかったのね」オモチは部屋の真ん中で静かに佇むお世話ロボットをみやった。「いつもはお世話した後すぐ壁際にある充電器へ移動するのに、変なところにいるなって。きっとご主人様の異常を知って止まったのね」

 オモチは納得した様子で頷いた。「それで、急に小鳥の話なんかしてどうしたの?」

「つまりこの上の203室は空き部屋ってことだよ。そこは後で見るとして、確実に人間がいるところから優先的に調べていこう」

 ミケは庭へと降り立つとアパートを屋根から床下まで舐め回すように見渡し、ゆっくりと足を踏み出した。

「まずはそうだね……僕の隣部屋、101号室からだ」



 101号室の人間は上背も横幅も大きめの若い男だった。眠りについてから段々と萎んだように小さくなっていき、今では元気だった頃より一周りほど小振りになったようだ。対してペットはミケの胴体ほどの太さもある蛇のアオダイショウだった。残念ながら蛇は順調に大きくなっているようで、時々半透明な抜け殻が庭の木にぐるぐると巻きついていたりするのをオモチが目ざとく見つけては「気持ち悪いったら!」とブツブツ文句を垂れている。

 間取りも全く同じであれば猫用扉が蛇用扉と名前を変えて同じ場所に設置されているのも道理。

 2匹は足音を忍ばせつつ室内に踏み込んだ。慎重に壁際のベッドへ近づくと、大きな蛇が布団の中からニュルリと顔を出した。

「お前さんは隣の猫か。どうした、俺のオヤツにでもなりにきたのかい」

 小さく悲鳴を上げたオモチを庇うようにミケが立ち、平然と答えた。

「ただ君の飼い主の様子を見に来ただけだよ」

「へえ……珍しいこともあるもんだ」

 ミケは蛇の頭越しに室内を見回した。簡素な造りはオモチの部屋と変わらず他の人の気配もなく、若い飼い主の男は身じろぎ一つしない。ミケの飼い主と同じく規則正しい呼吸音が薄ら寒い室内に響いていた。

 飼い主の腕に絡みつき、瞳孔を糸のように細めた蛇が口火を切る。

「言い訳なんざ時間の無駄だ。正直に言うんだな。何があった?」

「理由もなしに君の飼い主の様子を見にきたら迷惑かい?」

 悪びれた様子もなく質問を質問で返すミケに、蛇は心底面白いとでも言うようにシュッシュッと笑うような音を出した。

「今まで窓の外から横目で覗き見するか素通りするかの二択だった猫どもが、わざわざ部屋の中まで出張ってきた理由がただの様子見だと?」

 蛇の表情から笑みが消え、小動物を狩らんとする殺気を醸し出す。

「お前たちの浅い目論みなんざ知らねえ。だかな、予想することは出来る。当ててやろうか」

 蛇の粘っこい視線がミケの身体へ絡みつき、まさぐるように付きまとう。

「お前たちどちらかの飼い主の人間が死んだんだ。そうだろう?」

 ドンピシャの回答だった。何か言い返せるはずもない。ミケの視線がさまよったのを敏感に感じ取ったのだろう、蛇はここぞとばかりに言い募る。

「おおかた変な死に方でもして、犯人探しってところか。だがな、俺は関係ねぇ。餌の代わりになりたくなかったら、さっさと出ていくんだな」

 ミケ達は蛇が出すシューシューという音に急き立てられるように101号室を後にした。

 屋根の上に追いやられたオモチは瞳孔を丸くして「私、あの蛇苦手よ」とぼやいた。

「僕も好きではないかな」

「あの獰猛な目を見た? これだから肉食のペットは嫌。協調性というものがないのよ」

 なおもブツブツ文句を言うオモチは泣いているのか怒っているのか分からない。

 ミケは軽やかに201号室の窓枠にとびのった。

「他の部屋も調べよう。このアパートのどこかに眠っていない人間がいるはずなんだ」

 クシュンと鼻を鳴らす白猫から、わざとそっぽを向いて言った。



    二、



 数時間後。オモチは自室に戻り、大切なご主人様だったモノの横にゴロリと転がった。もう一歩も動く気になどなれない。惨めな気分だった。あれから201号のフクロウ部屋と202号のモモンガ部屋、更には空き部屋や床下、屋根裏にまで入り込んで探してみたものの、起きている人間などひとりも見つからなかったのだ。ミケもふらりとどこかへ行ってしまった。この部屋で生きているのは、白猫、ただ一匹だけだった。


 まもなく夕陽が沈む頃だろう。あくびをひとつ漏らし少しだけ眠ろうとした時、窓の外から小さなモモンガがこちらを覗いているのに気がついた。大きくてぱっちりした目と長いふかふかの尻尾が可愛らしい。真っ白なお腹の毛も相まって、オモチが少なからず親近感を抱いている仲間のひとりだ。

「起きてる人間は見つかった?」

 モモンガはおずおずと猫用扉をくぐり、ふてくされたように寝転がるオモチの横へ飛び降りた。

「いなかったわ」

「そう……オモチが探してもいないんだったら、もう逃げちゃったかもね」

「ご主人様が死んだ時間、私はずっと屋根の上にいたの。人どころかネズミ一匹このアパートから逃げてなんかいないはずよ」

「それなら事故かも。たまたまこの紐が首に引っかかったとか……」

「この部屋には寝たきりのご主人様とお世話ロボットしかいなかったの。ロボットが人間に怪我をさせるなんてありえない。事故なんて起きっこないわ。ご主人様は誰かに紐で首を絞めて殺されたのよ!」

 話している内に興奮してきたオモチは鼻息荒く立ち上がった。ベッドから飛び降り、尻尾をひと振り思案する。

「起きている人間もいない……ご主人様を殺した人間は一体どこから来てどうやって消えたのかしら……ううん……そうね、もしかしたら」

 オモチはぺろりと口周りを舐めた。

「もしかしたら、人間以外の動物が犯人かもしれないわ」

 ベッドの上でくつろいでいたモモンガが驚いたように顔を上げた。

「このアパートにいるペットの仕業だっていうの?」

「可能性はゼロじゃないわ」

 オモチはベッド周辺と紐を丹念に調べ始めた。もしかしたら犯人の匂いがのこっているかもしれない。しかし淡い期待はすぐに外れてしまった。消毒液の匂いが強すぎたのだ。お世話ロボが故障する直前まで掃除をしていたからだった。

悔しがるオモチの耳元に、モモンガがソワソワと周りを確認しながら口を寄せた。

「ワタシは……蛇が怪しいと思う」

 オモチの疑問を投げかける視線を受け、小さなもふもふ仲間はさらに声を潜めた。

「さっき私の部屋に来たとき、オモチの飼い主は紐で首を締めて殺されたって教えてくれたでしょう。でも、絞めたのは本当にこの紐なのかしら」

「どういうこと? 紐以外でどうやって首を絞めるっていうの」

「実はね……蛇の尻尾の先って、このくらいの太さなの。この紐はたまたまここに落ちてただけで、本当は蛇が尻尾で絞め殺したのかもしれないじゃない」

 オモチはモモンガの言葉に衝撃を受けた。てっきり紐が主人の命を奪ったのだと思い込んでいたのだ。言われてみれば、蛇など一番怪しい体つきをしているというのに!

 オモチが早速ミケにこの話をしようと猫用扉から頭を出した時、「お待ちなさい」という低い声が聞こえた。

 声の主は音もなく屋根から窓枠へと飛び移った。大きな黒い目に鋭い爪。大きな翼を広げると、部屋の中は一瞬して夕陽が遮られ夜更けのようになる。フクロウだ。オモチは扉から頭を引っ込め、窓越しに睨みつけた。

「何の用?」

「儂の部屋をコソコソと嗅ぎ回っていた輩が吐く言葉ではなかろう。して、白猫が探している犯人とやらは分かったのかね」

 オモチはしぶしぶという態度を隠しもせず経緯を説明すると、フクロウは心底愉快でたまらないといった風に笑い出した。

「そうか、蛇だと。これはまた面白い結論を出したものだ」

「何がおかしいのよ!」

「ほほぅ、分からぬか。ならばヒントを出してやろう。白猫、君の主人の首についた紐の跡は、グルリと一周ついているか? それとも……」

 フクロウは思わせぶりに一呼吸置き、

「もしや、顎の下だけではないのか?」

 確認しろとばかりに窓ガラスをコツコツとくちばしで叩く。モモンガの尻尾がビクリと震え、慌ててベッドの下へ引っ込んでいった。

なんて野蛮だこと。これだから猛禽類はいけ好かないのだ。半信半疑でしぶしぶ首の後ろ側を覗いたオモチは、思わず驚きの声を上げのけぞった。

「ない……後ろ側に、紐の跡がない!」

「そうだろう、そうだろう」

 フクロウは満足気に頷いた。

「君がもし蛇だとして、何かを絞め殺そうとしたならば、獲物にグルリと巻きついて力を加えるのが普通だろう。ならば前だけではなく後ろにも跡が残る。鱗跡のひとつやふたつも見つかるものだ。それが見当たらないならば蛇の可能性は低かろうに」

「蛇じゃないっていうなら、誰だっていうのよ」

「そう急かすでない。説明は最初からしなければわかることも分からんでな」

 フクロウは猫用扉から室内に入ると、人間が眠っているベッドの頭側にある板──ヘッドボードへ降り立った。

「この木を見てみなさい。擦れた跡があるだろう? つまり犯人は人間の首とこの木に紐を引っ掛け、下側に引っ張って殺したのだ」

「引っ張る? それじゃやっぱりどこかに人間が……」

「まだそんなことを言っているのか。人間でなくてもそれくらいはできる。例えば、紐を口で咥えてベッドから体重をかけて飛び降りることなら、動物にだって可能だろうに」

 反論しようと開いた口を、オモチはすぐに閉じた。よくよく見てみれば、主人の頭の位置がいつもの位置よりズレているのだ。まるで紐で上部に引きずられたかのように。

「紐を咥えて飛び降りて殺すにはもちろん体重が必要だ。モモンガと儂は軽すぎるし、蛇はこんなまどろっこしいことなんかしないだろう。白猫でもないとしたら……残ったのは誰だい?」

 オモチはようやくフクロウの言わんとすることに気づいた。

「……ミケが犯人だっていうの? そんなはずないわ」

「なぜそう言い切れる?」

「ミケが御主人様を殺す理由なんてないもの!」

「理由かい」 

フクロウがホッホッと声を上げ、目が冷酷な光を帯びた。

「君はあの三毛猫から恨まれていないと胸を張って断言できるのか? 同じネコ科だから犯人ではないという証拠などないのだよ」

 オモチの顔から血の気が引いていく音がした。

 腰が抜けたようにぺたりと座り込んだとき、

「まるで僕を犯人にしたいような言い草だね」

 フクロウの独壇場と化していた舞台に水を差す声が響いた。三毛猫が蛇を伴いゆうゆうとやってきたのだ。

「ミケ……」

「オモチ、待たせてごめん」

「本当に、ミケじゃないのね?」

「もちろん。それを証明するためにここに来たんだから」

 夕陽が落ち、室内に薄暗い自動照明が点いた。


 

     三、



 オモチの部屋の中、ヘッドボードへ留まるフクロウにミケが静かに歩み寄る。

「三毛猫はこの人間を殺していないと言うのかね」

「もちろんそうさ。フクロウ、君の推理には決定的な間違いがある」

 フクロウの片眉が跳ね上がる。 

「どこが違うと?」

「それを確認するために、蛇を連れてきたんだ」

 蛇は室内に入ると、人間の頭の横でトグロを巻いた。

「ふむふむ、うーんやはりこれは三毛猫の話の通りだな」

 二つに割れた舌先が人間の首筋に触れる。

「首についてる、この紐の跡だがなぁ……こーんな細くて小さいかすり傷みたいなもんで人間は死にはしないよ」

「なんだと?」フクロウが険のある目つきで蛇を睨んだ。

「こんくらいの大きさの動物を殺そうとすれば、どれくらいの力で締め上げなきゃいけないかっていうのを、俺は知っているのさ……そうだなぁ」蛇はおもむろに人間の首へ巻き付くと、ギリリと締め付け始めた。「こんくらいだなぁ」

「やめて! やめてぇ!!」

 オモチは我を忘れて蛇へと噛み付いた。

 めちゃくちゃに引っ掻いて暴れまくり、ようやく蛇が人間から離れた時には、ベッドの周りは蛇の鱗塗れになっていた。

「いてて、何も本気でやるこたないだろ」

「私のご主人様になんてことを!」

「もう死んでんだからいいだろ」

 なおも興奮冷めやらぬオモチと蛇を見比べ、ミケがやれやれとばかりに首を振った。

「本当に締めろだなんて頼んじゃいないよ」

「でも口で言うよりわかりやすいだろ」蛇はにやりと笑い首をもたげた。「絞め殺すっていうのはな、こんくらいやらないと無理ってもんだ」

 そう言って蛇が見下ろした先の人間の首は折れ曲がり、首筋にはウロコの跡が凹むほどくっきりと残っていた。

「あぁ……ご主人様が……ウッ……」

 人間の変わり果てた姿に白猫は涙を流し、フクロウが小さく唸った。

「確かにこれと比べれば、前のはかすり傷だと言われても仕方がないな……」

 ミケがベッドから降り、うろうろと歩き始める。

「僕も最初は紐で殺されたと思っていた。でも、やっぱり死ぬほどの傷には見えなかったんだ」

「では、どうやって死んだのだ。血の臭いもなければ原因は息が出来なくなったからだとしか考えられないが」

「単純な事さ。鼻と口を両方塞げばいい」

 ミケはピタリと足を止め、ベッドの下を覗き込んだ。

「そうだね? モモンガ」

 フクロウがサッとベッド下でうずくまる毛玉へ視線を向けた。オモチはうろたえながら三毛猫に疑問を投げかける。

「本当に? ねぇミケ、ご主人様が死ぬ前と後では、頭の位置がずれていた気がするの。こんな小さな子がご主人様を少しでも動かせるものなのかしら」

「そ、その通りよ!」モモンガが震える声で言った。「私には到底無理だわ!」

「モモンガは紐を咥えてベッドから飛び降りたところで、体重が軽すぎて動かせなどしない。それは間違いないだろうね」

 三毛猫の言葉に「ほら、やっぱり!」と勝ち誇ったような声を上げたモモンガは、フクロウに睨まれ慌ててオモチの背中へとくっついた。

「それだよ」

「えっ、どれ?」

「モモンガは空中を飛んで飛び移ることが得意だ。ならば、動いているものに咥えている紐をひっかけることだって造作はないはずだよ。お世話ロボットの頭とかにね」

 オモチは部屋の真ん中で動かなくなったロボットを弾かれたように見た。

「紐の両端を口に咥えて、掃除中のロボットの頭に飛び乗る。ロボットはそのまま充電スペースに戻ろうとする。その力だけで殺せたら楽だっただろうけど、残念だったね。ロボットは過度な力がかかると緊急停止するようになっているんだ」

「それでトドメとして顔に張り付いたというわけだな」

 三毛猫とフクロウに詰められ、オモチの背中で震えていたモモンガはやがて諦めたようにがっくりと頭を垂れた。そっと白猫の背中から降りて後ずさる。

「ブンタの主人を殺したのも君かい?」

「ち、違うわ! あの人間は本当に病気で」

「本当に、ねぇ」

 4匹の目が獲物を見つけたように鈍く輝いた。


 4匹から獲物を捕る目で見据えられ、モモンガは震える声で答えた。

「たまたまなのよ。ブンタがいなくなった後に、少しだけ餌が増えたような気がして……もしかして、同じ餌を食べる動物が減れば、餌がもっと増えるんじゃないかって……」

「ほほう、なるほど」押し黙ったモモンガの代わりにフクロウが続けた。「餌をもらえるのは生きている人間に登録されたペットだけ。主人が死ねば餌は支給されなくなる。そうなれば出ていくのがこのアパートの掟だ。体格差で負ける相手を無理やり追い出すのは難しいが、ただ寝ているだけの人間の息の根を止めるのはそこまで難しくない……というわけだな。よく考えたものだ」

「それで私の御主人様を殺したっていうの!?」

 オモチが牙をむき出しにして怒鳴った。しかしモモンガも全身の毛を逆立たせ、小さい体を精一杯大きく見せ怒鳴り返した。

「あなたみたいな元野良はいざとなればいくらでも食べものを捕ってこられるでしょう!? でも、産まれてからずっと人間に貰った餌しか食べていない私は違うのよ! この世界で、ロボットが運んでくる餌以外のどこに食べ物があるっていうの!」

「たしかになぁ。俺たちは自力で食い物くらい確保できるんだなぁ」

 ずっと黙って成り行きを見守っていたヘビが、場違いなのんびりした声を出した。

「夜の街に繰り出せばネズミの一匹や二匹は簡単に捕れる。それでもこのアパートに居続けるのは何でだと思う?」

 フクロウが首を伸ばしてモモンガを見下ろし、後を継ぐ。

「人間がいつか眠りから覚めるという淡い期待を捨てられんのだ。その瞬間に立ち会うためには、ペットとして人間の側に居続けるしかない」

 三毛猫はジリジリとモモンガへと詰め寄った。

「君の主人に危害を加えるつもりはないよ。でも、僕の主人を危険に晒すかもしれないモノを見逃すわけにはいかないな」

 モモンガは駆けだした。獰猛な捕食者たちの目をすり抜け、我が主人の元へ──辿り着くことはできなかった。蛇がモモンガを一瞬で丸呑みにしてしまったのだ。

「私の分け前はないのかね」

 フクロウが抗議するように羽をばたつかせた。

「早いもの勝ちだぁ。悪く思うなよ」

 奇妙に膨れた腹を窓枠にこすりつけながらヘビはゆっくりと主人の部屋へと戻っていく。その後を、フクロウが音もなく追っていった。



    四、

 


 これが最期のお別れだという。

 ミケはオモチの側に座り、おずおずと声をかけた。

「まさか今すぐ出ていくつもりかい? 餌なら僕のを分けてあげるよ。だからそこまで急がなくても……」

「飼い主がいなくなったペットは、すぐにでていくの」ミケの言葉をさえぎるように言い、オモチは冷たくなった主人の鼻に自分の鼻をくっつけた。「このアパートの掟よ」

「どうしても?」

「そうね。もしミケがこのアパートを出なければいけなくなってしまった時のために、私がいい場所を探しておかなきゃならないもの」

 オモチはひらりと猫用扉をくぐると、「またね」と言い残し暗闇に消えた。

 やがて見知らぬロボットがやってくると、壊れたお世話ロボットと人間を回収し、去っていく。

 物音一つしない部屋の中、三毛猫が悲しげに鳴いた。



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猫が、鳴いた。 雪屋 梛木(ゆきやなぎ) @mikepochi

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