第5話
鋭利な歯が白く柔らかな皮膚を引き裂く。滴る熱い命が喉を潤す。口内を通過する愛おしさに悦び震えた。強く抱き寄せる。汗ばむ肌を心ゆくまで味わう。深く吸い込むと。肺の奥まで沙智の匂いに包まれる。他のことは考えられない。身体の内から欲望の波が絶え間なく押し寄せる。理性はどこか遠くへ流された。快楽を貪る。自制の効かない獣に成り果てた。赤く光る瞳が水面に揺らめく。唇の隙間から覗く鋸のような歯。口角の上がった不気味な笑み。鱗に覆われた人ならざる顔。まるで童話に出てくる人魚だ。美しい歌声で人間を魅了し海の中に引き摺り込む。その身を口にした者を不老不死にすると言われる。海に住む悪魔。ガラスが砕け散る音が頭の中に響いた気がした。伊織としての意識が一瞬戻ってくる。私は沙智になんてことをしたのか。自らが手を染めた悪事を目の当たりにし狼狽える。一刻も早く離れなければ。また欲望に呑み込まれてしまう前に。少しでも早く。沙智の肩を掴み腕をいっぱいに伸ばす。突き飛ばそうとしたのに。頬に触れる冷たい手。うなじに添えられた手のひら。むせかえるような甘い匂いがした。息がかかるほど近づく。逃げてと伝えようと口を開くと唇が重なった。塞がれ息ができなくなる。逃れようと悶えると押し倒された。両手を頭上で拘束され身動きを封じられる。髪をかきあげる沙智の唇は赤く縁取られていた。妖艶な笑みを浮かべまた唇を重ねる。息を呑む。頭の奥が痺れ力が抜ける。嘆息だけが聞こえた。吐息が耳にかかる。背に爪を立てた。壊れてしまいそうなほどお互いを求め。ようやく解放された。沙智のはだけた胸元に顔を埋める。かすかに心音が聞こえた。視界が霞むとめどなく溢れる涙。沙智の顔にも鱗が出ていた。背中から冷たい川へと落ちる。美しくきらめく鱗。突然の来訪者に驚き魚が跳ねた。
「愛おしい私だけの悪魔」
悪魔を愛した水曜日 齊藤 涼(saito ryo) @saitoryo
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