第15話

 福藤ダンベというのが、本名かあだ名なのかは不明だ。

 近所の大人からはダンベ婆さん、子供たちからはダンベー伯爵と呼ばれていた。

敬愛されているわけではない。テレビで流行っているヒーロードラマの悪役怪人にちなんで、そう揶揄されていた。

 福藤ダンベの苗字はそれほど珍しくもないが、名前の部分は少しばかり変である。八十近くになる老婆であるので、古風で独創的であっても不思議ではなが、あだ名であるとの説が有力だ。戸籍通りという噂もあるが、それは市役所の担当者しか把握していない。

 ダンベ婆さんの職業は、魚の行商人だ。知り合いのあやしい卸業者から、魚を捨て値で仕入れては自ら加工し、干し魚として売っていた。シオムシに食い荒らされて穴だらけになったニシンやタラ、タウエガシ科のヘビみたいな醜い魚であるが、彼女の卓越した塩加減で、なにやら美味しく出来上がるのだ。近辺住民のほとんどである低所得層からの支持は厚かった。

「おや、なんだべ」

 夜の公園で、リヤカーを引っぱっていたダンベ婆さんが止まった。

「なんだべか」

 水飲み場にやってきたのだが、そこに着く少し前に、地面に大きなものがあるのを発見した。

「ありゃあ、なんだべ、なんだべ」

 金目の物であるなら豪気なことだと、心おどらせながら近づいた。だが、いきなり手を付けたりはしない。以前、同じようなものを発見し、喜び勇んでいじくり回すと、犬の腐乱死体を包んでいた毛布であった。ウジが湧き、凄まじい悪臭が年季の入った内臓を掻き回した。それ以来、突然の僥倖には注意を払っている。

「こりゃあ、なんだべ」

 しつこいくらいに、疑問符を繰り返し口にした。ダンベ婆さんはキョロキョロと周囲を見渡す。もし価値のあるものであれば、そのままリヤカーに載せて家に持って帰ろうと企んでいた。衣服の塊に見えたので、できれば年寄りの服が投棄されてほしいと願った。自分でも着ることができるし、洗濯して近所の婆どもに売れるとの皮算用もあった。

「ありゃ、ガキんちょだべ。なんで、ガキんちょが寝てるんだべか。いま何時よ」

 ダンベ婆さんは左手を見るが、腕時計はなかった。見栄で、あるような仕草をするのが癖になっていた。

「八時に、ガキんちょがなにしてんだべ」

 時計を持っていなくても、だいたいの時刻は感でわかる。見かけは姥捨て山に捨てられている老婆であるが、中身は意外と精緻な機械仕掛けであった。

 ダンベ婆さんが発見した塊は、小太郎である。高熱にうなされながら、水を求めてなんとか公園に来て、たらふく水分補給を成し遂げた刹那、力尽きてぶっ倒れてしまったのだ。

「まあ、なんだねえ。コジキが寝てんのか」

 足のつま先で小太郎を突きながら、ダンベ婆さんはそう結論付けた。少年にかまうことなく、水道の蛇口の下に持参したブリキのタンクをおいて、ジャージャーと景気よく水を出した。

 福藤ダンベは自営業の行商人であるが、収入は生きていくのにギリギリを稼いでいるに過ぎない。廃車同然のリヤカーを引っぱって雑魚の加工品を売っているが、得られる金銭は多くなかった。ふだんの生活はケチケチとなり、この公園には、水道代金を節約しようと水を汲みに来ていた。昼では目立つので、夜の習慣となっている。

「したっけ、ガキがコジキになるとはなあ。あずましくないねえ世の中になったもんだべ」

 独り言をつぶやきながら、容器に水が満ちるのを待っていた。蛇口は、手で押さえていないと止まってしまうタイプなので、ダンベ婆さんは手が離せない。もう一方の手をポケットに突っ込んだ。クシャクシャになったシンセイの袋を取り出して、タバコを吸い始めた。

「ったく、不景気はイヤだねえ」

 ブリキの容器が水で満たされた。リヤカーにはあと二つの容器がある。ダンベ婆さんは、合計三つを満タンにして積み込んだ。 

 二本目のシンセイに火をつけて、深々と吸う。フィルター無しの両切りタバコなので、吐き出される煙の量が大概である。猫背の小さな体から、焼け焦げてしまうほどの蒸気が上がった。

「どうれ、いくか」

 一服を終えたダンベ婆さんが、リヤカーを押し始めた。

「おんげえ、おんげえ、んん~、げえ、ん~」

「ああ、なんだあ」

 リヤカーにかかるトルクの増加を感じる前に、奇妙なうめき声に背中を叩かれた。荷台から聞こえたのは間違いない。振り返って調べてみる。

「ありゃまあ、コジキのガキか」

 小太郎がいた。

 つい、いましがたまで高熱に苛まれて地面にぶっ倒れていたのだが、突如として覚醒し、生存本能が命ずるままリヤカーに乗りこんだのだ。 

「おげえ、ゲボー、おげえおげえ、ゲボー」

 先ほど飲んだ大量の水が逆流していた。意識はもうろうとしていたが、冷たい水の侵食に、時間差で弱り切った消化器官が反旗を翻していた。

「あ、こりゃ、なにするんだ。オレの水にゲロ吐くな。こら、クソガキ」

 せっかく満杯にした水入れ容器に、薄汚いコジキ少年がゲロを吐いていた。ダンベ婆さんは憤慨する。

「んん~、おげえー、かあ ちゃん、かあちゃん、んげー」

 小太郎の具合の悪さは頂点に達していた。

 高熱と、こみ上げてくる吐き気と全身を叩き砕くような悪寒が、その小さな体を存分にいたぶっていた。そして、その苦悩をたまたま通りかかった人へと押しつけた。誰でもいいから、すがりたいとの無意識的な行動だ。

「おめえの母ちゃん、どこに行った。どっかでコジキしてるんか」

 小太郎の顔はうつろである。苦しみの海に溺れきっている状態では、ダンベ婆さんの言っていることが頭の中には届かない。

「ほらあ、けえれ、けえれ。具合悪いんだったら、母ちゃんのとこに帰ればいいべや」

 赤の他人に対して、ダンベ婆さんは当然のようにつれない態度だ。

「ほらっ、オレのリヤカーから降りれって」

 小さく曲がった体が、リヤカーの荷台から少年を強引に引きずり落した。

「ほげえ」

 かすかな嗚咽を漏らして、小太郎はふたたび横たわった。冷たい地面にうつぶせになって、熱い息を漏らしている。

 ダンベ婆さんは、リヤカーを押してそそくさと歩き出した。貧乏が染みついた老体は、不幸が染みついた子供が好きではない。こんなのを拾ってしまっては出費がかさんでしまうと、逃げの姿勢であった。

 リヤカーから落とされた小太郎は砂だらけになったが、伏せた地面が冷たく、まるで高熱の体を湿布するようで、案外と気持ちがよかった。まるで放置された身元不明死体のようであるが、もはや動くことができず、その意志もなかった。「ほへえ」と小さく呟いて、眠りとも気絶ともつかぬ、苦しみの底へ落ちていった。

 夜の公園は静まり返っている。都会であれば、カップルたちや怪しい若者などが出没しそうだが、北の辺境地では閑散としていた。

 十数分が経った。

 相変わらず、小太郎は地面に臥せったままだ。体温は四十度を少し超えている。あとちょっとでオーバーヒートとなる予定だ。

 ギーギーと耳障りな音がしている。裸電球に傘をかぶせただけの街灯のもと、特殊車両が一台、公園の中に帰ってきた。リヤカーを押したダンベ婆さんだ。

「ったく、しょうがないねえ」

 一度は見捨てて帰ってしまったが、どうにも気になって途中で引き返したのだ。

「おめえ、ババの家さ来るか」

 うつ伏せになっている少年に問いかけるが、小太郎の意識は曖昧だ。ああ、ううと、か細く呻くだけである。

「まあ、のっけるべか」

 ダンベ婆さんは、さっき落としたばかりの荷物を、またリヤカーに置いた。腰の曲がった小さな体だが、数十年リヤカーを押して行商しているだけに力はあった。痩せっぽちの少年を抱きかかえて乗せた。

「ふげえ」

 ただし、置き方は年寄りらしくやさしい配慮に欠けていて、乗せたというより放り投げたといったほうが適切だ。小太郎は、とくに抵抗するわけでもなく為すがままだった。

 リヤカーの荷台は魚臭かった。それは香ばしく食欲をそそられるものではなく、生臭くて腐敗臭が混じった不快な臭気だ。昼間には、太った銀バエがブンブンとたかる溜まり場となる。

「んげえ」

 弱りきった胃袋の中で腐った魚がもがいている。小太郎は水で希釈されたゲロを吐きながら、どうしてこんなに魚臭いのだと、ぼんやりと思っていた。

 人力リヤカーの乗り心地は悪くなかった。早くも悪臭に慣れて吐き気を気にしなくなった小太郎は、そのスローで緩慢な揺れに身をまかせていた。

 ダンベ婆さんの家は木造の平屋である。外壁は真っ黒なタールを塗った板張りであり、便所は汲み取り、ネズミやワラジムシが我が物顔で住み着いているボロ屋であった。ありていに言って、不潔だった。冬場の暖房は使い古された薪ストーブであり、燃料は近所の廃材を失敬して暖をとっていた。 

 その年寄り臭い家に、小太郎が横たわっている。

「息子の布団だけど、なんもねえよりはいいべや」

 ダンベ婆さんには二人の息子がいる。どちらも四十台に達しているが、長男は子供の子ころから手癖が悪く、万引きやかっぱらい、空き巣などの常習犯だった。また母親がそれを奨励しているフシがあった。

 次男は粗暴犯で、暴力団の下っ端みたいなことをやっていたが、傷害罪で捕まり、いまは地元の刑務所に服役中である。

 息子たちが使っていた布団は、押し入れに数十年ほど置かれていた。カビと汚れと様々な雑菌の温床になっていたが、久々に子供の温もりに触れて、じっとりとした湿気を出していた。

「カゼだ、カゼ」

 小太郎を、その湿っぽい布団に寝かせると、ダンベ婆さんは症状を断定した。

「まんず、たまご酒飲めばいいべや」

 正しい診断なのだが、処方箋は適切ではなかった。

「ほれ、これ飲めや。あったまるから」

 安焼酎に卵をといて温めた、たまご酒である。

通常のたまご酒は日本酒で作るのだが、老婆の家には安焼酎しかなかったので、焼酎たまご酒となった。

「ほらほら、お飲み。たーんとお飲み」

 生ぬるく酒臭いそれを、未成年に無理矢理飲ませようとする。

「ほげっ、げっほげっほ」

 まず、蒸発したアルコールが爛れた咽喉粘膜を刺激した。小太郎のライフ値は底をついていたが、体に拒否の反射をするだけの予備値があり、だから激しく咳き込むことができた。

「オゲエー、オゲエー」

 安焼酎にとかされた卵は、加熱がほとんどされていず半ナマより生だった。新鮮な鼻水のようにベロベロしていた。存分に酒臭いそれを口に入れた瞬間に、吐き気がこみ上げてきた。小太郎はむせた。

「こら、もったいねえことすんでねえ。もったいねえ」

 最後の力を振り絞ってイヤイヤをする小太郎であったが、病人の意志にかからわず、酒臭い薬が注ぎ込まれようとする。手足をバタつかせての拒絶に、ダンベ婆さんはようやく諦めた。

「なして飲まねえんだよ。うめえのに」

 小太郎の残り汁を、ダンベ婆さんは美味そうにすすった。

「ぐるじい、ぐるじいよう、んんー」

 善意による拷問にさらされた小太郎は、自分の症状を涙ながらに訴えた。

「どっかに、薬あったべや」

 ダンベ婆さんは、やっと正しい結論に至った。古びた冷蔵庫の隅で、数年間寝かせていた解熱剤の座薬を持ってきた。

「ああ、んん~、や~、め~て、んん~」

 小太郎のズボンとパンツを強引に脱がせて、未熟な未成年の尻の穴に、その熟成された座薬をグイッと押し入れた。

「んんーーーーーーーーーっ」

 小太郎にとっては初めての体験であり、そのなんとも形容のできぬ、痛く苦しく切なく、そして少しの心地よさに戸惑っていた。

「ほれ、終わったべ」

 老婆による治療は、息子たちが風邪をこじらせたときに何度もやっていたので、手際は良かった。座薬を入れ終わったら、指のニオイをちょっと嗅いで、「くさいねえ」と呟いてからパンツをはかせた。

「水枕、どこさやったべか」

 福藤家の水枕は年季が入っていたが、まだまだ使用可能である。公園で入れた水をそこに移し、寝ている小太郎の枕とした。冷蔵庫の冷凍室にへばり付いた霜氷があるのだが、それを入れてしまうと必要以上に冷やしすぎてしまう。だから、水だけにした。

 水枕には手拭いをカバーとしていた。ダンベ婆さんの看病は、豪放なようで意外と繊細であった。

 座薬が効いてきたのか、小太郎は眠りの海を漂い始めた。後頭部がひんやりとして、それがまた安らかなまどろみを担保していた。少年が寝入るまで、ダンベ婆さんは枕元に座っていた。

 朝になった。

 薬剤に耐性ができていない体に、大人用の解熱剤は極めて有効であり即効性があった。目覚めた小太郎は、寒気もだるさも吐き気も治まっていることに気づく。まだ熱っぽさはあったが、峠を越えたことを本人は承知していた。

 壁の黄ばんだ掛け時計は、午前六時ちょうどを示していた。

「コジキぼんず、起きたんか」

 小太郎は居間に寝かされていた。中央に薪ストーブが鎮座し、反対側に狭苦しい台所があり、ダンベ婆さんがなにやら作っていた。

「おかゆこさえたから、食えや」

 小さめのどんぶりに、熱いおかゆが注がれた。それをダンベ婆さんが持ってきて、布団の上でキョトンとしている小太郎に差し出した。

「んん~」

「あっついからな。やけどすんなよ」

 スプーンを手渡された。どうしてここにいるのか判然としない小太郎であったが、アツアツのおかゆからいい匂いがして、細かいことはどうでもよくなった。

「た~べて~、いい~の~」

「だから、食べれって。元気になるからな」

「ん~」

 小太郎は、さんざん吐き散らしていので腹がへっていた。

「あぢ」

「やけどするから、ゆっくり食えって」

 老婆の忠告通り、小太郎は慎重にすすろうとするが、空腹と普段からの飢餓状態で気が焦っていた。ふーふーと必死に息を吹きかけて、冷まそうとする。

 ダンベ婆さんのおかゆは美味かった。薄いダシと塩が効いていて、米のほのかな甘さと同時に、うま味が小太郎の舌にまとわりついた。

「はふはふ」とがっつくが、胃袋の底から嘔吐感がこみ上げる。一瞬、スプーンが止まった。

「はっちゃこいて食うと、ゲボするべや」

 常時飢餓状態で食欲にリミットレスな小太郎だが、病み上がりの内臓は熱量が不足している。過度な詰め込みは禁物だ。食べたいという欲望を抑えなければならない。

「んん~、ごち~そ~ん~さん~」

 小太郎は満足した。

 なにもかもに満足していた。

 温かな食事、すき間風が吹き込んでこない暖かな屋内、そして、誰かがそばにいてくれるということについてだ。一人でないのが、これほどまでに心強いものだとは思わなかった。いつ以来の安らぎだろうかと考えた。養護施設で職員に甘えていた頃は、すでに忘却の彼方へ消え去っている。小太郎にとっては、初めての経験といってよかった。

「ん~、か~える」

「ああ、帰るのか。具合、いいのか」

「うん」

「おめえ、帰る家あるのか」

「うんん~」

「おっかさん、いるのか」

「・・・、んん」

「そうか、そうか」

 老婆は四度ほど頷いた。

「学校にいくのか」

「ん~、いく~よ~」

「弁当作ってやるか。はら、へるだろ」

「きゅう~食~、ある~の」

「だったら、晩飯にでも食え」

「うう~んん~」

 ダンベ婆さんは、にぎり飯を二つ作った。おかずは卵焼きとたくあんがついた。それを紙袋に入れて、小太郎の前に置いた。さらに奥の間に行って、なにやらゴソゴソとやっている。

「そんなもん着てたらな、また病気になるべ。義之のおさがりだけどもよ、まだまだ着れるべや」

 義之とは、ダンベ婆さんの長男である。

 老婆は、息子たちが着古した服を捨てずに保管していた。それを小太郎に与えた。なにせ一張羅である上下のジャージは、反吐と汗と土で汚れきっていた。見た目もそうだが、臭いがひどくて、近寄りがたい空気感を出していた。着ている本人も、よくわかっているようだ。 

「ああ、うん、あり~がと~」

 ほどよく時代遅れなそれらを、小太郎はありがたく受け取った。

「ほれ、着替えていけや」

 ダンベ婆さんは、少年の着替えを手伝う。昔取った杵柄で手際よく剥ぎ取ると、ちゃっちゃと着せた。

「これ、洗っとくからな。元気になったら取りにこいや」

 洗濯までしてくれるようで、いたせりつくせりの扱いである。ふつうの子供はそうされることを前提として生きているが、小太郎は違う。

 ほぼ野生動物のように生きているので、甘すぎる水は喉につかえてしまうのだ。中毒に陥ってしまう前に、そこから退散することを考えていた。

「か~える~、ん」

 子供の逃亡は素早い。もらった服とにぎり飯袋をもって、福藤家を後にした。歩いている途中何度も振り返った。そして、多少ふらつきながらも家路へと急いだ。

 すぐに物置の家に着いた。ダンベ婆さんの平屋は藤原家からわりと近かった。息を切らしながらベッドに寝て、布団の中にこもり、着替えた服の香りを楽しんでいた。繊維とタンスと線香の匂いがして、顎から首にかけてざわざわとした感触が流れる。その心地のよさに身悶えする。

 ベッドに横になってウトウトしていると、物置の外によく知っているが歓迎したくはない気配を感じて、瞬間的にその身を固くした。

「小太郎、まだ寝てるのか。死んだのか」

 その怒鳴るような野太い声は、姉の敦子であった。

「入るよ」

 だいぶ良くなってきたとはいえ、まだ微熱がある状態だ。プロレス技をかけられてしまったら、せっかく食べたおかゆをすべて吐き出してしまう自信があった。

「うっわ、くっさ。ここくっさいわあ。おしっこ臭い」

 中学生女子は不快そうな表情になる。

「あんた、今日学校休みだから。お母さんが電話しとくって。それと、これ飲みな」

 敦子は、小さな包みを三つほど差し出した。小太郎は、キョトンした顔で見ているだけだ。

「薬だから、飲めよ」

「あ~、んん」

 それらの風邪薬は、敦子が風邪をひいたときに病院でもらった余りだ。

「早く飲めって」

 命ぜられるまま、小さな手が不器用に薬の袋を破る。ひどい味のする粉を口いっぱいに入れてから真顔になった。水がないことに気づいて慌てている。

「んん」

 コーラ瓶の底に水がわずかに残っていたので、慌てて飲む。こみ上げる吐き気を抑えながら、なんとか薬を体内に入れることができた。

「お母さんが、腹へったら、めしとりにこいって」

 それだけ言って、敦子は出て行った。まずい薬を飲まされたが、プロレス技をかけられなくてホッとした。すぐに薬が効いてきて、小太郎は眠りの底をふらつき始めた。

 昼過ぎになって目が覚めると、腹がへっていた。めしを取りに来いと言われていたが、小太郎にその気はない。ヘタに顔を出して、なにしに来たと怒られたくはないからだ。今日は迂闊な行動をしなくてもいい。ダンベ婆さんの弁当があるからだ。

さっそく、紙袋の中身を膝の上に置いた。コーラ瓶の水は残り少なかったが、ちょびちょびと飲めば足りるだろうと算段する。だいぶ回復したが、公園の水飲み場まで歩く気力はなかった。

「んん~、うん~まいなあ」

 初めに口の中に入れた玉子焼きの甘さが尋常ではなかった。砂糖の匙加減が頭抜けているダンベ婆さん独特の味付けだが、糖分欠乏症の小太郎には必須の栄養素となった。

 続いて握り飯を頬張る。めしが圧縮されて喉につっかえた。水が足りなくて咳き込んでしまったが、なんとかすべてを食べきった。

「ん~、ゲブゲブ」

 満腹になって横になると、すぐに眠気がさしてきた。残りの薬を飲む前に寝入ってしまった。

「メシー」

 晩メシの時間となって、毎度の号令がかかった。多少のふらつきはあるが、小太郎は唯一であるアルミ食器を持って馳せ参じた。

「おまえ、その服なんだよ。学校でもらったのか」

 藤原夫人は、じろじろと見ていた。

「あ、うん~。そう~」

 他の家の老婆に拾われて、いろいろと助けてもらったとは言えない空気だ。

「メシ食ったら、薬のんで寝な。明日は学校に行けよ」

「ん~」

 今晩の献立は、いつものように冷や飯だったが、お湯がひたひたになるまでぶっかけられていた。おかゆとしては固かったが、胃弱でも食べやすいように多少の工夫が施されている。おかずは福神漬けと梅干が、お湯で浸されたコメの中に沈殿しようとしていた。

 

 次の日の朝には、小太郎の風邪はほぼ治っていた。コッペパンのストックがないので、朝食は食べることできなかった。空腹のまま家を出たが、途中でダンベ婆さんの家によることにした。

「ボンズ、カゼ治ったのか」

「ん~、そう」

 ダンベ婆さんは、庭先で商売品の雑魚をさばいていた。商品価値のない魚を開きにして、特製の塩水に漬ける。それを天日で干して完成である。内臓類は、その辺に捨てられるのがダンベ婆さん流であった。巨大な銀バエどもが、打ち捨てられた生ごみだけではなく、干されている魚にも分け隔てなくたかっていた。

「服、洗っといたから、家さ入れ」

 生臭い作業を中断して、老婆は小太郎を連れて家に入った。

「朝めし食ったのか」

「んん~、ないの~」

「そんだら、食ってけや」小太郎がつねに飢えていることを、老婆は知っていた。

 甘すぎる玉子焼きと、茹でダコの刺身が用意された。小太郎は、ふだん朝食を取らないのと病み上がりなのが重なって、腹は減っているのだが胃は多くを受け付けなかった。玉子焼きだけ食べて、ごちそうさまをした。ジャージを受け取って、老婆に礼を言って、しばしモジモジしていた。

「じゃあな、学校いけや。ちゃんと勉強して、コジキなんかすんじゃねぞ。また来いよ」

「うん。また~ね~」


 それから小太郎は、たびたびダンベ婆さんの家を訪れるようになった。老婆は、少年が来るたびに、いまは疎遠となってしまった息子たちの話を聞かせた。

「そんで、ちゃっちゃとかっぱらってこいばいいもんを、トロくて捕まるんだ。弟のほうは人ばぶん殴ってばっかりで、いまは寄せ場だべや。いつ出てくるんだかなあ 

「んん~、ふふ」

 ダンベ婆さんの息子自慢に興味はなかった。話をしてくれているということが、なんだかうれしい小太郎である。

 少年の栄養状態が良くなった。ダンベ婆さんに飯を食わせてもらい、さらに年寄りが好む仏壇菓子なども、もらい受けている。それらは辛気臭くて線香臭く、子供が好む味から遠かったが、お菓子を食べられることが喜びとなった。

 老人と少年の情は、数週間絡み合った。しばらくは続くと思われた関係だが、破局は突然やってきた。

 ある日曜日の朝早く、小太郎が朝めしをもらいに行くと、老婆の家はざわついていた。

「ばあ~ちゃん~、んんー」

 ダンベ婆さんは、数人の男たちに囲まれて玄関から出てきたところだ。両手をへその前で合わせていた。

「なんのことだか知らんって。オレは魚売ってただけだって。なんなんだい、警察は年寄りイジメて楽しいのかい」

 彼女は逮捕されてしまった。

 容疑は家宅侵入及び窃盗である。リヤカーを引っぱっての行商ついでに、空き巣に勤しんでいたのだ。シラを切っているが、証拠はしっかりと揃っていた。悪質な常習犯として、当局にマークされていた。

「ばあ~・・・、ん、ああ~」

 近づける雰囲気ではなかった。刑事たちが放つ気合がざらついている。大人でも、その空気に触れることは憚られるほどの圧迫感だ。  

 ダンベ婆さんは、小太郎を気にもしてなかった。捕まってしまって、これからどうやってシラを切るか、ただそれだけを考えていた。 

 遠くなっていく警察車両を、小太郎はずっと見ていた。それから何度家を訪れようと、ダンベ婆さんと会うことはなかった。

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物置の家 北見崇史 @dvdloto

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