第14話

 やさしい母親に甘えたり、家族との団らんを過ごすといった、たいていの子供が生まれながらにして与えられているものは、小太郎にはなかった。しかし、この乞食じみた少年にも過ぎたるものが備わっていた。それは、ほか子供に比べて病気になりにくい体質であるということだ。

 食事事情がアレなので、ときどき腹をこわすことはあるが、風邪とか麻疹とか水ぼうそうとか、年頃の子供たちがよく罹る病気にはめっぽう強かった。放置少年である小太郎の場合、寝込むほどの事態はどうしても避けなければならない。疾病との遭遇は、自らの墓碑銘に刻みを入れることになるからだ。女の子よりも華奢な体格であるが、中身が頑健なのは、生き残るために必要なスキルであった。

「んん~、あ、ん、ん。へほ~」

 たいして暑くもない北国の夏が終わり、秋も中ごろまで過ぎてしまったある金曜日の早朝、小太郎はベッドの上で唸っていた。

「ああ~、んん、へほ~、んん」

 具合が悪いのだ。なんだか体が火照るし、そのわりにはトゲトゲした寒気が全身を走る。その不快感を胡麻化すために水筒の水をガバガバ飲むが、体調の悪さは一向に治まらなかった。とりあえず小便がしたくなったので、熱っぽい体を無理やり起こして物置の外へと出た。いつも小便をひっかける近所の大木へようやく歩いていき、放尿を開始する。

「ふああ~、ん~、あっちィ~、んん~くさあ」

 小便がいつもより熱く、立ち昇る湯気が臭く感じた。本格的に風邪をこじらせたことがない小太郎は、病魔に侵されつつある自分に気づいていなかった。気のせいだろうと気楽に考え、今日の給食は温食にシチューが出されると、楽しいことを考えてやり過ごそうとする。

「んん~、はっへ~、ふっふ~」

 熱っぽい呼吸を繰り返しながら、ようやく物置へと帰ってきた。藤原家の玄関では、敦夫が愛犬と散歩に出かけるところだった。早朝だというのに上機嫌で、近所迷惑な鼻歌のボリュームを上げている。犬ともども、フラフラしていまにも倒れそうな小太郎を気にすることもなく、意気揚々と出かけた。

 小太郎は、体のだるさのためベッドで倒れるように休んでいた。いつもは朝食をとらないのだが、体力を回復させるために、備蓄してあるコッペパンを頬張り水筒の水で流し込んだ。途中でもどしそうになるが、無理やり飲み込んで学校へ行く決心を固めた。

 通学路を歩く小太郎の足取りが定まらず、酔っ払いのごとく斜め斜めに行ってしまう。途中になんども小休止しながら、ようやく教室にたどり着いた。いつもよりも倍の時間を要したが、早めに出てきたので遅刻することはなかった。

「んんんん、はっひ~、ほ~、んん~、ほっへへ~」

 体の中心部でウイルスが絶賛増殖中の小太郎は、熱い吐息とともに意味不明な声を漏らし続けている。苦しさを紛らわすために仕方ないことなのだが、それを間近で聞かされ続けている佐竹がイライラしていた。

「うるさい」

 かなり鋭角的な言葉に、佐竹の右隣りの女子がビクンと体を反射させた。数秒ほど固まった後、努めて左側を見ないようにしている。

「ほっほ~、ふ~、んん、へっほ~」

 だが、風邪で耳の調子まで悪くなっているのか、佐竹の声は小太郎には聞こえていなかったようだ。神経質な少女のイライラを刺激するような雑音を、あいかわらず無遠慮に吐き出していた。

「うるさいって言ってるっしょや」と言って、小太郎のわき腹を、グーの拳でパンチした。

 最近の佐竹は短気で暴力的になったと、三年三組の中では評判となっている。心ある児童は、彼女に近寄らないことが暗黙の了解事項となっていた。

{ぶっふぇ}

 予期せぬ攻撃に、病身な小太郎の下腹が過剰に反応してしまう。その貧弱な体躯にしては、分不相応な大屁が発射されてしまった。

「うわあ、こたろうが屁えこいた、あひゃあ」

「屁っこき、屁っこき、屁っこき太郎~。ライダーパンチ」

「おえ~、くっせ、おえ~」

 お調子者な男子たちがさっそく教壇に集まり、ちんどん屋の行列のようにはやし立てた。屁についての寸劇を披露し、自分たちだけで必死にウケていた。

 小太郎は自分がバカにされているということより、佐竹に暴力を振るわれたことにショックを受けていた。焦点の定まらない頭で、どうして殴られてしまったのかを考えていた。なお、屁をたれてしまったことについては、さほど気にしていない。 

「なんだ、おまえら、うるさいぞ。とっとと席につけ」

 突然教室に入ってきたのは、担任の男性教師だ。すでに朝のホームルームの時間なのである。

「バカどもが」

 彼は教壇で騒いでいる子ザルたちを睨みつける。途端にシュンとしている男子たちにそれぞれゲンコツを与えてから、席につくように促した。朝っぱらから涙目になった男子たちが着席したところで、朝のホームルームとなった。

「せんせい」と、小太郎に近い女子が手を上げた。

「なんだ、古田」

「藤原が、へえ、しました」

「だからどうした。藤原だって屁ぐらいするだろう」

「くさくて、イヤです」

「よーし。じゃあ、朝の漢字テストをするぞ」

 担任の気分次第で、三年三組は授業が始まる前に漢字の小テストをすることがある。前の席から縦列にテスト用紙が手渡されていく。全員に行き渡ったところで開始となった。

 小太郎は国語に限らずほとんどの教科が苦手であったが、とくに漢字の読み書きは、からっきしダメであった。さっそく、十問あるうちの一問目で諦めてしまう。ただでさえ薄弱な頭脳が、体調の悪さでさらに低下していた。

「んん~、ほっひょ~、ふふん~、ああはわ~」

 相変わらずの近所迷惑な息づかいで、まわりにいる児童たちの学習意欲と集中力をかき乱していた。本人は机に顔をべったりつけて 硬質の木目から伝わるひんやり感に浸っていた。

「ぐっふ」

 再び、わき腹に蹴りが入った。小太郎は、びっくりして顔をあげる。右を見て、そして左を見て佐竹と目が合った。  

 睨みつけていた。幼いながら不機嫌が最大限に表現された、鬼のような形相だった。ぼんやりしていた小太郎の気持ちが、シュッと引き締まる。

「うるさい!」

 小テスト中なので押し殺していたが、恐怖すら感じさせる声色だった。ここ最近、佐竹は機嫌の悪さを躊躇なく小太郎にぶつけるようになっていた。

「んん~、ごめん」

 好んでやっていたわけではない。そうすることで具合の悪さを多少はごまかすことができた。だが、狂犬のような女に暴力を振るわれるのではたまらない。仕方なしに我慢することにした。

 午前の授業中、小太郎は顔をあげることができず、ずっと机に伏せたままだった。苦しくとも、それを呼吸で示せば蹴られてしまうので、息を押し殺して我慢していた。

 休み時間も、ぐったりとしていた。小太郎が一人で机に伏せっているのは毎度のことなので、クラスメートたちはあまり気にしてなかった。ただし、隣の席の佐竹は興味をそそられたようで、「藤原、くさいって。ウンコたれ、あんた、いっつもオシッコくさいっしょや、死ね」と悪口を浴びせかけて楽しんでいた。小太郎は聴いていないフリに徹していたが、具合が悪すぎて、そのうちどうでもよくなっていた。

 お昼休みとなった。給食当番が、給食臭がよくしみこんだ割烹着を身につけて、配膳し始める。教室内はガヤガヤ、ガチャガチャとうるさくなった。

 本日のメイン料理はクリームシチューだ。イモや肉などは破片くらいの大きさしかなく、しかも汁の体積に比して量が少ないのだが、なぜかグリーンピースだけは大量に入れられていた。この緑の粒粒は味が非常に悪くて、たいていの児童が好きではなかった。一部のグルメな子供には、吐き気を催すと忌み嫌われてもいた。ただし、なんでも食べるスカベンジャーな小太郎は、おいしく食べることができた。

 安焼酎を飲みすぎた酔っ払いオヤジのごとく、小太郎の足はふらつく。カラの食器をトレイに載せて、ようやく列に並んだ。手元までおぼつかないのに、きゃほきゃほと急な咳に体がしなってしまった。ポリプロピレン製の黄色い食器がトレイから転げ落ちて、カランコロンと床に跳ねた。

「こったろうが、ぶひゃ」

「こたろう、うっせえよ」

「ばっちいのうつるから、後ろにいけって」

 病で弱った身に心無い罵声が浴びせられた。いつも青白く、ガガンボのようにフラフラしているので、病気であることを気づかれないのだ。

「ん~」

 カップを拾い上げて、子供たちの最後尾に並んだ。小太郎は列の後ろが好きではない。給食係りは、最初の者たちに多く盛りつける傾向がある。しぜん、終わりの方は残りかすばかりで量も少なくなるのだ。

 しかし、今日はみんながグリーンピースを嫌がっている。だから盛りつける係りはなるべく粒粒を避けて、さらに汁も少なめに盛っていた。シチューが大量に余り、すると最後のほうにしわ寄せがいく。担任教師と小太郎のカップにはなみなみと、溢れるばかりに盛られてしまった。しかも、緑の粒粒だらけである。シチューの中にグリーンピースが入っているのではなくて、グリーンピースのクリーム煮のような状況になっていた。

 具合が悪くて食欲がなかったが、食えるときに食うのが小太郎の生きる流儀である。たいがいに盛られたカップを見て、能天気にほくそ笑んでいた。

「いただきまーす」

 三年三組の全員に、いただきますの号令がかかった。いつもは、いの一番に食べ始める小太郎なのだが、今日は二呼吸ほどおいてから温食を口にした。

「ん、ん」

 たいして美味く感じなかった。風邪のため、食欲が大幅に失せていた。

「んー」

 さらに、いつもよりも大きめな粒粒は、噛みしめると鼻につくほど青臭かった。明らかに規格外品の不良品だった。ほかの児童もそれを感じているのか、グリーンピースを食べないどころか、シチューそのものを残す子が多かった。

「うええ、マっじィ。ゲボでそう」

「ゲボだあ、ゲボシチュー」

「げぼげぼ、げぼぼ」

 なんとか静寂を保っていたのだが、あまりのマズさに緊張の糸が切れた、男子の何人かが、抗議の意味を込めて騒ぎ出した。

「うるさいィ」

「もうやだあ」

「ゲボとか言うな、バカ」

「やーめてよー。食べれないっしょや」

 バカな男子たちがゲボゲボ騒いだために、青臭いシチューがゲボ味だとの刷り込みが拡散されてしまった。少なからずの女子たちが、イヤそうにカップを遠ざけ始める。

 クラス中がざわめく中、小太郎は山盛りのシチューを食べ終えようとしていた。ほんとうは食欲がないのだが、食事に対する執念と反射で食べ続けていた。ただし、コッペパンとデザートのチーズは手つかずだった。

「藤原、チーズたべないの、ねえ、たべないの、だったら、もらっちゃうから、もらうかんね」

 そう言って、佐竹が小太郎の太ももに軽く蹴りを入れた。反応を待っていたが、文句を返してくることもなく黙っているのを見て、承諾されたものだと判断した。

「じゃあ、もらうかんね」

 すっかり性悪女になってしまい、その悪辣さを隠すどころか誇示するような態度だ。小太郎の机の上にある三角チーズに手を伸ばして奪い取ろうとした。そのとき佐竹は、小太郎の表情が石板のように凝り固まっているのを見逃していた。うつむいた灰色の眼光の中に漂うある種の諦念に、気づきもしなかったのだ。

「なにさ、もんくあっか。たたくよ」

 小太郎がまったく反応を示さないので、不貞腐れているのだと思い、なにか言い返される前に脅しをかけた。

「ふんっ、バカ藤原」

 その崩壊は、彼女がチーズを掴んだ手を引こうとした時だった。

「ぎょぼぎょぼぎょぼー、ゲボボボーー、げえええー、おげーーえええ」

 突如として、小太郎の胃袋の中に落とし込まれていたカップいっぱいのシチューが大逆流した。生温かい大量の吐瀉物が瀑布となって机の上にぶちまけられたのだ。

「ぎゃっ」

 佐竹はチーズを離して、とっさに手を引っ込めた。間一髪、その本流の直撃に触れることはなかった。

「な~んよ」

「どしたの」

 異変に気づいた児童たちが、次々と振り返った。そこで子供たちが遭遇したのは、食事中には、絶対に見てはならない光景だった。

「うっわあ」

「あひゃあ」

「ぎゃああ」

「ゲボだー」

「こたろうが、ゲボゲボ~はくしゃく~」

 パニックは瞬く間に伝搬する。各地で悲鳴が上がり、多くの者が席を立ち、愚か者が狂ったように踊っていた。そうしている間にも、小太郎の嘔吐は止まらない。シャバシャバとした青臭くて酸っぱい緑クリーム色の反吐を、断続的に吐き出した。ふだんは控えめな性格のくせして、なんらの遠慮を感じさせないほどの勢いと量だった。さらに時おり咳をするので、飛沫が周囲に飛び散ってしまった。

「くっせ」

「おえー、臭いーっ」

 小太郎は風邪をこじらせて熱が出ている。胃袋の中も普段より高温状態だ。食べたものがいいあんばいに熟成されてしまい、しかも消化不良の状態なので、反吐らしい強烈な臭気を放っていた。

 小太郎の右斜め前の席では、おかっぱな女子児童が、胃袋のうねるような逆蠕動を必死に抑え込んでいた。ただでさえ大嫌いなグリーンピースなのに、それを咀嚼してぐちゃぐちゃにしたものが、見るに堪えないジェル状の汚染物質となって自分の前にあった。さらにただれた胃液による発酵で、臭気がものすごいことになっている。もう限界であった。

「おげーっ、げえーっ、げえー」

 彼女の反吐は小太郎の吐瀉物より若干の粘度があり、色も茶色がかっていた。量は少なかったが、隣人たちに、さらなる脅威を伝搬させるには十分であった。

「おえーっ、おえーっ、おえーっ」

 さらに斜め前の男子が同じような反吐をした。彼の吐瀉スタイルは独特で、一秒間隔で断続的に、ほぼ決まった一定量を吐き出した。

「ぎょあ」

「ああーっ」

「いやだー」

 教室中が騒然となっていた。小太郎を含め三人の児童が嘔吐している。熟成されたクリームシチューの臭気が、震源地より広がっていた。

「げぼー、ぎゃぎゃー、ゲロゲオゲロー」

 さらに、三人目の斜め前の席にいた、もう一人の女子が吐き出した。ビンゴゲームでいうところの斜めリーチがかかっている状態になってしまったが、幸運にも、もらいゲロの連鎖はそこでおさまった。ほぼ全員が教室の前に殺到し、一部は前の出入り口から廊下に逃げ出していたからだ。

「おまえら、さわぐな。おちつけ」

 担任が事態の収拾に乗り出した。いつもの彼にしてはいい反応だった。 

「ひっでえなあ、こりゃ」

 彼は反吐の震源地でぐったりしている小太郎を発見し、ようやく異変に気づいた。

「日直はバケツに水入れろ。だれか保健室いって先生を連れてこい。委員長と副委員長と書記は、ぞうきんでゲボをふけ」

 矢継ぎ早に命令を下すが、最後のほうをやり遂げるのには兵隊が幼すぎるのと、練度と士気が足りていなかった。

「イヤです」と、加藤正清はきっぱりと拒否した。

「あたしー、いやや」副委員長の女子は絶叫のうえ、すでに泣き出していた。

「ゲボー、げぼげぼキックー」書記は、そもそも使い物にならなかった。

 ほかの児童で誰かできるやつはいないかと見渡すが、泣いたり叫んだり脅えたりがほとんどだった。かろうじて、小太郎の隣の席の女子だけが、唯一、その汚染区域内にとどまっていた。

「佐竹」

 担任はその女子の名前を口にするが、反吐処理をさせるのは無理だと判断した。彼女は、吐瀉物の溜まり池で死にそうになっている小太郎に対し、罵りながら蹴飛ばしていたからだ。

「こら、止めろ」と、キツめの声で注意する。最近の佐竹の粗暴さは目に余ると、担任は多少の危機感をもっていた。 

「藤原、おまえどうしたんだ。具合が悪いのか」

 小太郎は反吐溜まりに頬をつけて いつもよりも青白い顔色で、半ば目を開けながら、ハーハーと苦しそうな呼吸を繰り返していた。

「なして、ゲボかけるのさー」

 担任教師がいようとも、佐竹の攻撃は止まない。「げぼー、げぼげぼバーカ」と言って、着席しながら小太郎の膝を蹴っていた。

「いいかげんにしろっ」

 男の子は日常茶飯事であるが、女子にゲンコツが落とされるのは珍しかった。担任の拳の硬い箇所が、佐竹のつむじをゴンと強打した。よほど痛かったのか、彼女は頭上を手で押さえて、くうと唸った。

「なにさ、藤原がゲボかけたっしょや。なしてさ、なしてさーっ」

 泣きながらも、ギャアギャアと担任に食ってかかって、そのヘビ的性格の執拗さを見せつけた。

「おい藤原、藤原」

 小太郎の意識が薄くなりすぎている。体罰にためらいがなく、仕事には不熱心な教師であったが、だからといって人命をまるっきり尊重していないわけではなかった。

「これから藤原を保健室に連れて行くから、おまえら片づけとけよ」

 担任は、泣きながら口を尖らせている佐竹をとりあえず無視して、小太郎の首根っこを掴んで引き起こした。反吐溜まりから、血の気の失せた顔がボーっと浮かび上がる。

「せんせいー」

 その時、一人の女子児童が叫んだ。なぜ自分が呼ばれたのか、担任は理解していた。

「わかってる」

 吐いたのは小太郎だけではない。他に三人がなんらかの処置を求めて、泣きながら呆然としていた。だが、それらはもらいゲロであるので緊急性がないと判断し「おまえらは大丈夫だから」と、一言発しただけで放置した。

「なにかあったのか」

 養護教諭がやってきた。彼が保健室で給食のシチューを食べていたら、ゲボだゲボシチューだと喚き散らした三組の男子が迎えに来たからだ。

 三組の担任は事情を説明し、反吐の始末と泣いている児童の保護を頼んだ。自分は具合の悪い小太郎を保健室で介抱すると告げる。

「いや、それなら、その子は私が連れて行くよ」

 それが保健の先生の仕事だから当然のことであったが、教室内に散らばる大量の反吐を始末したくない担任は、すべてを彼に押しつけて逃げた。

「おい、ちょっと待て」

 すぐにあとを追おうとした保健の先生であったが、児童たちの泣き声と熱い眼差しを受けて留まり、やむを得ず三年三組の反吐始末をする羽目になってしまった。

「藤原、おまえ腹が痛いのか」

 保健室に入ると、担任はとりあえず小太郎をベッドに寝かせた。反吐で汚れたジャージを脱がすことなく、また、反吐が点いている顔を拭いてやることさえしなかった。

「ケッホ、ケホ」と咳をして、小太郎は自分の症状を力なく示した。

「なんだ、風邪か」

 風邪をこじらしたことがない小太郎だが、自分が大変なことになっていると気づいていた。こんに苦しいのだから、きっと大人が手厚い看護をしてくれるのではないかと、弱った心が期待していた。

「それな、風邪薬飲んで寝たら、すぐ治るわ」

 担任が薬棚を開けて中の薬品を物色し始めた。無名メーカーの風邪薬のビンを取り出して、軽く注意書きを読んだ。

「ええーっと、大人は一回三錠だから、二錠ぐらいだな」

 テキトーな量を渡した。水を用意することもしなかったので、小太郎は何度もゴクリと喉を鳴らして、ようやく飲み込んでいた。

 担任は、三組の反吐の処理が片付くまで保健室に居座るつもりだ。流行りの曲を鼻歌で奏でながら、回転椅子に座って右に左へと回っている。

「やっと片づけましたよ。たいへんでした」

 ややしばらくして、保健室に保健の先生が帰ってきた。児童たちが泣き叫び、一部は大喜びしている現場で、大量の反吐を始末するのは骨が折れたと散々に愚痴った。担任は、大きくうなずいて労をねぎらう。

「それで、この子はどうでした」

 小太郎は、死んだようになって仰向けに寝ていた。

「風邪薬飲ませたから大丈夫でしょう。落ち着いたら、早退させますよ」

「熱は計りましたか」

「いや。風邪だから、薬飲んだらいいんじゃないの」

「熱を計ってくださいよ」

 自分が担任する組の児童なのに、どうしてそんなにテキトーなのかと、擁護教師は呆れていた。「はあーあ」と小さく息を吐き出して、小太郎の熱を計った。水銀の柱を見て、首を左右に振る。

「39度2分。こりゃあ保健室で寝てても駄目ですよ」

 小太郎の顔についていた反吐が乾いて、白く粉をふいていた。もちろん、誰かに拭き取られることはなかった。

「家に連れて帰って病院に行かせるんですな。保健室の薬じゃあ、どうにもならんよ」

「ったく、面倒臭いなあ」

 いよいよ苦しくなってきた小太郎は、うーうー唸って看病してほしい旨をアピールする。

「早めに病院に行った方がいいですよ」

「しょうがない。おい藤原、家に帰れるか」

 うつろな顔が担任を見ていた。その表情から、一歩たりとも動けそうにないことがわかる。

「車で送っていかないと倒れちゃいますよ」 

「ちっ」

 さも嫌そうに顔をひん曲げながら、担任は小太郎をベッドから引きずり出した。フラフラとする重病人を、まるで捨てられた子猫を持ち上げるように、首根っこをつかまえて歩き出す。保健室を出て、教職員専用玄関から駐車場に行った。

「いいか、車の中でゲボするなよ。ゲンコツですまないからな」

 愛車であるセリカの車内は、神経質なまでに整理整頓されていた。ふだんの職務態度とは対照的な仕様となっている。

 小太郎は助手席ではなく、狭い後部座席に、蹴飛ばすように押し込められた。運転している横で吐かれたらたまらないと、運転手は警戒したのだ。

 車を走らせてまもなく藤原家に到着した。以前に家庭訪問で来ているので、小太郎の家がどこにあるのか担任は承知していた。

「だれさ」

 玄関チャイムが鳴ると、いかにも不機嫌そうな藤原夫人が出てきた。

「ええーっと、三年三組の担任の前田なんですけど、前に家庭訪問にきましたが」

 二度目の自己紹介をする担任に、藤原夫人は、ああ、と気のない返事だ。

「小太郎、あんた何やらかしたんだい。給食盗んだか」

 教師の後ろでつっ立っている小太郎を見つけて、藤原夫人は厳しく言い放った。

「いや、なんか風邪ひいたらしいんですよ。熱もあるから病院に連れてったほうがいいって、保健の先生が言ってましたよ。いちおう、薬はのませたけど」

 担任は、小太郎の部屋が庭の向こうに放置されている薄汚い物置であることを知らない。家庭訪問のさいには、小太郎ともども居間で話をしたからだ。なんとなくネグレクトされているとは感じていたが、もともとが養子なのでそんな扱いなのだろうと深く考えはしなかった。

「じゃあ、わたしは帰りますんで」

 担任の前田は帰ってしまった。残された小太郎は玄関のまえで、ぼうっと立っていた。

「ったく、なんもしてないの風邪ひくとか、おまえはバカなのか。さっさと寝な」

 辛気臭い顔で見つめられて、藤原夫人はイライラしている。野良犬を振り払うように、シッシと手を振った。

「薬飲んだんだから、寝れば治るわ。そんなの、なんでもない」

 フラつく足取りで物置の家へと向かう少年の背中に、言い訳めいた言葉が当たった。いつになく重たい引き戸を開けて、小太郎は我が家に戻ってきた。

 いちおう、市販薬を飲まされているわけだが、こじらした風邪にはそれほど効果がない。多少眠くなった程度で、高熱は相変わらずだった。小太郎はひどくだるい体を、寝床にようやく横たえた。水を飲もうとしたが、水筒を入れたカバンは教室に置いたままだ。担任を含め、クラスの誰かが届けてくれるということはないだろう。最近めっきりと使わなくなったコーラの空き瓶はカラである。水分補給は諦めなければならなかった。

「めしー」

 晩めしの時間になった。台所の勝手口から、いつもの叫び声が聞こえてきた。反応する気力体力がまったくない小太郎は、ベッドに伏せったままである。

 めしー、めしー、と三度ほどお呼びがかかったが、沈黙は続いた。

「おい、ちょっと風邪ひいたぐらいで甘えてんじゃないよ。なんで私があんたのメシをもって来なけりゃならんのさ。キモ焼けるねえ」

 物置までやってきた藤原夫人は、引き戸を開けることなく外で文句を言っていた。いつもの小太郎なら、そんなことを言われたら、なにを差し置いてでも彼女の前に馳せ参じるが、いまは横になったまま小言を聞いていた。

「ここに置いとくから、あとで容器は返せよ。ほんっとに腹立つよ」

 今日の晩めしは、小太郎が大好物なザンギめしであった。料理上手な藤原夫人が揚げる鶏モモ肉のから揚げは、絶品なのだ。

 だが食欲がないし、だるすぎて動きたくもなかった。しばらく放っておいたが、そのまま外に置いておくと野良猫に荒らされるので、小太郎は泥水のような体を引きずって戸を開けた。

 縁が欠けたラーメンどんぶりに、白飯とザンギが三つ載っていた。いつもは二つなのだが、息子の体調を慮ってか多めであった。幸いにも猫による被害はなかったが、一時間近く風にさらされていたので、ただでさえ固いご飯が乾ききってしまった。 

「んん、あ~」

 とりあえず、小太郎はそれを物置の中に入れた。引き戸を閉め足元にどんぶりを置いて、ベッドに横たわる。さっき飲まされた市販薬の効果が切れてきた。体温がさらに上がり、火照った体が耐えがたい不快感を誘発している。咳はそれほどでもなかったが、喉の痛みと溶けた鉛のような倦怠感が酷かった。 

「んー、んー、ああーっ、んんんーっ、うわーあああ、うわああー」

 とても苦しくて死にそうなのに、狭く不潔な小屋に一人で放置されている。おでこに冷えた濡れタオルをあてがい、氷枕を施してくれる者はいない。病院に連れていかれず、病人が食べることのできるやさしいお粥などは、けして与えられない。道端に打ち捨てられている小動物のように、小太郎は誰の目にも映らないのだ。

「もおー、もおー、んんー、ごおおー」

 小太郎は泣いていた。具合が悪すぎて、いても立ってもいられない。体ばかりではなく、気持ちもくじけていた。独りが嫌で嫌でたまらなかった。誰かにあたたかくされたくて、一言でもいいから声を掛けられたいと、心が悲鳴をあげていた。

「かあちゃん、かあちゃん」と叫び始めた。さらにワアワア喚きながら、「くるしいよう、かあちゃん、くるしいよう」と、目を思いっきりつむって鼻水を垂らしていた。嗚咽がノドに詰まり、何度もしゃっくりが出た。

 小太郎に明確な母はいない。かつての保護者であった養護施設の職員や現在の藤原夫人を、「かあちゃん」と呼んだことはなかった。その言葉は、そもそも生まれた時から装備されていないのだ。

「げえー、おげえー」

 母という虚ろな存在を想いながら、小太郎は嘔吐した。だが、昼にさんざん吐きまくってからは飲まず食わずだ。逆流させるものがなくて、その小さな胃袋から出てくるのは、バイキン混じりの湿った二酸化炭素と苦ったらしい嗚咽だけだった。

「ムー、モー、んんー、ぎゅうっ」

 感情が壊れかけていた。小太郎の顔は、タイヤで踏み潰されたカエルのようにひしゃげている。

「んん~、みん、ず~」

 喉がかわいていた。熱でさんざん汗をかかされたのに、水分の補給が追い付いていない。いや、そもそも一滴の水も飲んでいなかった。

「むず~、んん~、みゅず~」

 体のだるさで動きたくないという気持ちよりも、水が飲みたいとの欲求が勝った。物置の重い引き戸を開けると、両方の脚に気合を込めた。

「ううー、みずー、みずー、うう、ううー、ああ~ん、ぎゃあ~ん、んん」

 水を求めて、大泣きしながらの疾走であった。右に左にずれながら、いつもの場所へと向かった。水分を欲しているわりには、大粒の涙をムダに流していた。誰かが気づいてもよさそうだが、秋の日はつるべ落としのごとく、周囲はすでに闇となっている。息を切らし、蛇行し、泣きながら母を叫ぶ少年は、闇の中に、うまい具合に溶け込んでいた。

 小太郎が公園の水飲み場へやってきた。ややさび付いた蛇口をひねり、鉄臭い水をがぶがぶと飲んだ。そして、頭からかければこの熱っぽさから解放されるのではないかと思った。よせばいいのに、後頭部をその水流の下に置いた。

「うひゃあ、ああー、ああ~」

 あまりの冷たさに、頭の中心部がツーンとした。とびきり汚らしいゾンビに出会ったかのごとく、驚愕の表情で震えている。

 うーうーと唸って、小太郎は静かに動き出した。しこたま水を飲んだので、渇きは癒されている。かわりに尋常ではない量の寒気が、そのやせっぽちな体に叩きつけるような衝撃を与えていた。 

 行きは勢いがあったが、帰りは力尽きる寸前だった。なんとか一歩二歩と足を踏み出せるのは、子供らしい無邪気な活力ではなくて、ハンマーのような寒気が筋肉を叩くからだ。

 もはや呻くことすらできなかった。生気のない目線を振り子のように往復させながらふらついている。無意識が物置の家を目指そうとするが、頭の中でなにかがパチンと弾けた刹那、小太郎は、その場に崩れ落ちた。


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