第13話

「くっさあ~いい、んん」

 月曜日の早朝である。目覚めた小太郎が最初に感じたのは、異様な臭いだった。

「ん~、うん~こ、かな~」

 あきらかに糞便の臭気だった。物置の中が、その臭いに満ちている。空気を手で揺らすと、柔らかな糞がねっとりと付くような感じさえした。

「んん、おえ~」

 汚いもの、臭いものには慣れている小太郎であったが、それも限度というものがある。例えば、小便や糞がプンと臭う公園の汲み取り便所の空気は我慢できるが、いまここにある悪臭は、臨場感と切迫感、熱量が段違いであった。

「んん~、たれた~、かな」

 寝グソをしてしまったのではないかと思って、小太郎は股座に手を突っ込んだ。そうっと引き抜き、恐る恐る鼻に近づけて、くんくんとニオイを嗅いだ。

「ちがう~、ん~」

 粗相をしていなかったことに、いちおうの満足を得た小太郎だが、問題の核心部分は謎のままだった。

「なし~て~、くさい~、の~」

 登校時間までは、まだまだ余裕があった。いったん二度寝して、次に目覚めれば臭いは消えているのではないかと、ぼんやりした頭が考えていた。

「ねる~」と言って寝たが、頭から布団をかぶっても強烈な臭いは容赦してくれなかった。

「やっぱり~、くさ~い~、んん」

 仕方ないので、小太郎は起きることにした。布団をめくって自分の寝グソではないことをもう一度確認し、ならば諸悪の根源はどこなのだとキョロキョロし、なに気に足元を見た。

「んんんー、」

 床になにかがあった。しかもそれは、小太郎がよく知っているものだ。

「ウンチ、だ~」

 糞があった。ワックス成分の欠片もないささくれた床板に、先端がややひねってソフトクリームの先端みたくなった汚物が、デンと存在していた。

「んん~、なし~て~」

 寝ぼけて糞をしてしまったのかと焦った。いったいどうやったらこの場所にすることができるのだろうと小さな頭が考えるが、それは小太郎の落とし物ではなかった。

「ああーっ、いっぬ~、んん~」

 犬がいたのだ。しかも、見覚えのある犬だ。以前物置までついてきて、少しばかり居候していた野良犬だ。

「い~ぬ~」

 犬はベッドの下にもぐっていた。小太郎が下を見ると、その動作に連動して顔を出してくる。いまさらながら粗相をしたことを知ってもらいたいのか、目があった瞬間に糞のほうを見て、クンクンと空気のニオイを嗅いだ。

 物置の隅のトタンが錆びついていた。それほど大きな穴ではなかったが、子犬や猫程度の大きさであれば出入りできる。野良犬はそこから侵入したようだ。脱走した時も、同じ道筋を辿ったのだろう。

 とにかく、きびしい糞便臭を放つ汚らしい物質を、自分の居宅から除去しなければならない。手で触るのはもちろん嫌なので、道具が必要になる。木の枝を箸のようにしてつまめばいいのではと考え、さっそく外から桜の木の枝を拾ってきた。箸にしてはよほど巨大で、小さな手には余ってしまうが、道具としての使命は果たせそうだ。

「おえ~」

 あまりにも新鮮であったためか、不用意に顔を近づけると胃の中を腐蝕させてしまいそうな悪臭が、ふわっと立ち昇った。さすがの極貧少年もたじたじとなる。茶色い物質からなるべく顔を背けるようにして、それでも親の仇のように見つめる小太郎であった。

 崩れそうなほど柔らかな本体を慎重につまみ上げて、なんとか室外へ出すことができた。後始末として、物置前の砂を一握りすると、糞のあった場所に擦り付けた。なんとなく臭いがなくなったように感じて、小太郎は安堵する。野良犬は、忘れ形見があった場所を眺めて小首を傾げていた。

 なぜ野良犬が舞い戻ってきたのか謎であったが、小太郎は追い出したりはしなかった。かといって特段に気にかけるふうでもなく、ようするに放置状態だ。追い出しても、どうせ戻ってくるだろうと思っていた。

 いつものようにコッペパンをカバンの中に入れて、登校の準備をした。ベッドの下から半身を出した野良犬が物欲しそうに見るが、小太郎は無視した。貴重な食料を、糞垂れ犬ごときに分け与える気など毛頭ないのだ。きっとどこかで食い物を調達しているはずだとも思っていた。用心のために、ストックしているコッペパンは学校に持っていくことにした。

 登校中、この出来事は会話のネタに使えると考えた。教室で席についたら、佐竹に犬の話をふるつもりだった。運動会が終わっても、彼女の話し相手は相変わらず小太郎だけであるし、ほかのクラスメートが二人の間に入ることはなかった。犬が好きだと言っていたから、また物置に呼んで見せてやったら喜ぶのではないかと、小太郎なりの女たらし込み策を練っていた。

「んん~、の」

 学校に着いて教室に入ると、中が騒然としていた。いつもの騒々しくもだらけた雰囲気ではなく、ピリピリとした空気だ。小太郎の机の周囲に数人が固まっている。そこだけ重力が余計にかかり、空間がいびつに歪んでいた。

「小太郎、かえせよ、オレの色えんぴつ」

 小太郎を見るなり、小太りで坊主頭の男子児童が駆け寄ってきた。表情は幼かったが、怒りに燃えた目は鬼気迫るものがあった。

「んん、んんん、え、え」

 突然色鉛筆を返せと言われて、小太郎の目は白黒に点滅する。なんのことなのか、まったく身に覚えがないからだ。

「だから、藤原はなんにもないって、いってるっしょや」

 小太郎に食ってかかる男子に食ってかかる女子がいた。

「さ~た~け、おまえ小太郎が好きなんだろう。や~いや~い、ぶひゃあ」

 お調子者の男子が、からかうように言った。佐竹は口をとがらせて反論する。

「ばかじゃいの、かんけいないっしょや」

 佐竹とお調子者の男子がやりあっているうちに、坊主頭の男子が小太郎に掴みかかった。

「かえせよ。おかあさんにおこられるよ。かえせよ」

 彼の色鉛筆セットがなくなったのだ。

 机の中に入れたまま帰ってしまったようだ。36色セットの高価な色鉛筆であり、母親から買ってもらったことを自慢して、クラスの連中に見せびらかしていた。多くの羨望の視線が寄せられたが、もっともアクティブに食いついたのは小太郎だった。貧相で幸薄な少年は、36本の色鮮やかな鉛筆が整然と並んでいる様に圧倒され 思わず手を出してしまい、紫色の一本をつまんだところで持ち主に咎められた バイキンが付いたとか貧乏神に呪われたとか、散々な悪態を浴びせかけられてしまった。

「コタロウ、かえせって」

「んんんん~、し、しらない~」

 小太郎が登校してくる少し前に持ち主が騒ぎ出した。すると、クラスの誰かが小太郎がアヤシイと言い出した。ああ、やっぱり小太郎が盗んだのだという空気が伝染し、それがクラスの総意となった。何人かの気の強い男子が小太郎の名を罵りながら彼の机や椅子を蹴りだし、隣の席の佐竹が見かねて注意していた。

「藤原、とってないっしょ。しらないんでしょっ」

 佐竹が、無実であることを本人に強要する。小太郎は、首がもげるばかりに頷いた。

「ほら、藤原知らないって。知らないんだから、ぬすんでないっしょ」

「うっせー、ブス。おまえの父ちゃんヨっぱらいの屁こきマ~ン」

「うええ、くっせ、屁っこき怪人のむすめもくっせ」

 佐竹とやりあっていた男の子に加勢しようと、仲間の児童が佐竹に罵声を浴びせかけた。

「屁っこき虫~、のとうちゃん、くっさ」

「ブヒブヒ、くっせー」

 心無い嘲りが佐竹に絡みつく。彼女は体を硬直させたまま数十秒ほどジッとしていたが、その衝動は突然だった。

「んっがあああああーっ」

 少女とは思えぬ野太い咆哮のあと、猛然と掴みかかった。餌食になったのは、佐竹を強く侮辱した男子ではなく、その後ろで控えめに囃し立てていた吉川という小柄な男子児童だった。

 そのまま押し倒し、仰向けになった吉川にマウントし、両手をギュッと握って滅茶苦茶に振り下ろした。

「ぎゃああ、わああ、ぎゅうぎゅうぎゅう」

 悲鳴とも嗚咽とも気合とも違う必死の声は、迫力が過ぎた。少女の心の底にある穢れ溜まりを燃料として、烈しく燃えさかるのだ。

「うわあ、ごめん、やめて、やめて」

 すでに吉川は泣き始めている。もともと臆病な性格なのに、彼のカルマ以上の罰を受けて、今日はとんだとばっちりだった。

「んんんん~、んんん~」

 どうやら自分のために佐竹が戦っているのだが、うろたえるだけで、小太郎はなにもできないでいた。助けたいというよりも、佐竹を恐ろしいと思ってしまった。

 吉川の悲鳴がうるさかった。佐竹は弾け続ける爆竹のように、その勢いを緩めない。まるで凶悪な悪霊にとり憑かれた魔的少女だった。エクソシストでもない限り止めることは不可能ではないかと、クラスメートの気持ちが引きつっていた。とくに女の子たちのダメージは深刻で、一部は泣きそうになりながら見ていた。

「なんだ、どうした。おまえら、席につけ」

 そこに担任教師がやってきた。クラスの危機を聞きつけたのではない。朝のホームルームの時間になっていたからだ。

「おい佐竹、なにやってんだ、やめろ」

 女子と男子がケンカをしているとすぐにわかった。可哀そうな吉川に馬乗りになっている佐竹の襟首をつかんで立たせた。教師に制止されて、ようやく落ち着きを取り戻した佐竹は、肩で息を吐き出しながら床でメソメソしている男子をジッと見つめていた。

「なにがあった?」

 佐竹だけではなく、クラスの全員に対する問いかけだった。

「先生、田川の色えんぴつがなくなったんです。藤原がぬすんだって、みんながいってるんです」女子の一人が言った。

「あ? 藤原が」

 教師が凝視すると、痩せっぽちな被疑者はオロオロと目線が泳ぎまくっていた。

「おまえ、盗んだのか」と、やや尋問調の言葉が小太郎を緊張させた。

「いん~や~、んんんんんん~」

 盗み、という言葉が自分に向けられているのが恐ろしかった。涙目の小太郎は首を激しく振って、無実であることを示した。

「おい、藤原の机の中をみてみれや」

 担任教師が指示を出すが、それはすでに確認済みだった。「ありません」と、さっき散々調べていた男子が言った。

「カバンは」

 登校してきたばかりの小太郎カバンは、まだ未開封である。誰もそれに触ろうとしないので担任自らが探るが、カビの生えかけたコッペパンと水がいっぱいの水筒があるだけだ。教科書類を含め、色鉛筆セットといった高価なものは欠片もなかった。

「まあ、ねえわな」

 担任教師は、小太郎が犯人とは思っていなかった。橋の下の乞食よりも物を持っていない子供だが、他人の物を盗む度胸はないと的確に見抜いていた。

「だから、藤原じゃないっしょ。なして藤原ばっかりなの」佐竹は、あくまでも友だちの無罪を主張する。

「小太郎しかいないって」

「ビンボー小太郎、うんこ小太郎」

「かえせよ、小太郎」

「んん~」

「藤原じゃないって、言ってるっしょや」

 再び言い合いが始まった。男子たちVS佐竹との戦いである。小太郎は、残念ながら参加する意志を欠いていた。

「おまえら、うるさい。とにかく席につけ。学級会するぞ」

 子供たちを放置しておくと収拾がつかなくなる。とりあえず傍にいた男子二人にゲンコツをしてから、担任は学級会を開くことを宣言した。とばっちり受けた二人は、涙目になりながらしょんぼりと座った。  

「委員長、まえに来てやれ」

 三年三組の学級委員長である加藤正清が教壇に立った。

「それじゃあ、田川の色えんぴつがなくなったことについて、学級会を始めます」

 一時間目は算数の授業なのだが、朝から数字を扱うのがかったるいと、教師自身が思っていた。ガキどもが右往左往する様子を眺めるのは愉快である、というのが教師の方針であった。

「ぬすんだ人は手を上げてください」と、委員長が直球を投げた。

 皆が一斉に小太郎を見た。被疑者は痙攣したように、小刻みに首を振る。

「藤原じゃないって」

 佐竹が意見するが、司会者は気にしない。

「誰かいないですか」

 正清の問いかけに、自ら名乗りでる者はいなかった。

「誰もいないようなので、多数決で決めたいと思います」

 教室前の椅子に腕を組んでふんぞり返っていた教師が、思わず苦笑いをした。学級委員長は成績優秀な児童であったが、機転の利く子供ではなかった。

「ぬすまれてないんじゃないの。どっかにあるんじゃないの、ぜったいちがうって」

 多数決では、小太郎に無実の罪をきせられてしまう。佐竹は自説の正しさをヒステリックに叫んだ。 

「まあ、なんだ。ひょっとして、教室のどこかに置き忘れてるってこともあるかもしれないな。よし、みんなで探してみるか」

 担任教師が立ち上がって、めずらしく真っ当な解決策を提示した。

「ほら、おまえら、なにボケらーっとしてんだ。教室中くまなく探せ。一時間目で見つからなかったら、今日は放課後まで、ずっと算数をやるからな」

「えー、やだよ」

「さんすう、きゅぴぴー」

 教師同様、三年三組の大多数が算数の授業を好んでいない。

「ホラっ」と担任が手を叩くと、弾かれたように無数の蜘蛛の子が散った。

「ん、ん、」

 だが、小太郎は動けなかった。登校した途端、いきなり窃盗の犯人にされた。たしかに田川が自慢していた色鉛筆によだれを垂らしたことがあったが、自分には過ぎたるものであると、十二分に心得ている。盗んでまで手に入れようなんて、物置小屋の住人には無理な行為である。

「いいかあ、隅々まで探せよ。もし見つからなかったな、給食のデザート抜きだからな」

 本日のデザートは、子供たちの大好きな冷凍みかんゼリーである。給食の献立表は壁に貼られているので、みんなが知っている。児童のほとんどが楽しみにしていて、それを取り上げられては、算数の連続以上にガックリなことである。皆、馬力を込めて探していた。

 たいして広くもない教室内を行き来する子供たちを、担任は厳めしい顔で見ていた。本心としては、これは愉快とほくそ笑んでいるのだが、態度にはあらわさなかった。両腕をきつく組んで仁王立ちしながら、どんな些細なサボリも見逃さないぞ、というオーラを出していた。

「なあなあ、ここになんかある。なんかあるって」

 さっき佐竹にマウントされていた吉川が、教室後ろの棚と掃除用具ロッカーの隙間に、なにかを見つけたようだ。わらわらと子供たちが集まり、「あ、ほんとだあ」とか、「あった」とか大声を出していた。

「見つけたのか」

 担任がやってきて、小さな猟犬らが注視しているウサギ穴をのぞき込んだ。「ふむ」と頷くと、ガリガリと大仰な音を響かせながら鋼鉄のロッカーをずらした。

「あ、オレんだ」

 教師が開けた隙間に、平たい金属ケースが垂直に立っていた。それを見るなり、田川が血相を変えて飛び込んだ。埃の綿がくっ付いた色鉛筆のケースを拾い上げて、よかったよかったと喜んでいる。

「ほら、ほらほら、ぬすまれてなかったっしょや」

 佐竹が勝利を宣言した。小太郎が窃盗犯だというクラスの合意は、この時点でようやく破棄された。

「棚の上に置いてたら、隙間に落ちてしまったんだろうな」担任の推理に、誰もが納得した。

 盗難だと思われた色鉛筆セットが無事に発見されたので、三年三組が終日算数の授業となることはなかった。給食の冷凍みかんゼリーも没収されることなく、全員にもれなく供給される。小太郎も下手人とはならずに、善良な貧相少年のまま暮らせることとなった。一件落着である。

 給食の時間となった。今日の欠席者は二名なので、パンと牛乳とデザートが二人分余ることとなる。飲み物の持ち帰りは許されていないので、コッペパンと冷凍みかんゼリーが誰かのものになる。

「んん~、あれ~」

 いつものようにコッペパンを取りに行った小太郎は、冷凍みかんゼリーまで余っていることに気づいた。激しい取り合いになる絶品デザートが、薄っぺらな長方形のケースの隅っこでぐずっている。それらを自分が貰っていいのか判断できずキョロキョロしていると、色鉛筆セットの持ち主である田川がやってきた。

「小太郎、もってけよ。もってけって」

 そう言って、戸惑っている小太郎の手に、無理やりゼリーを持たせた。

 奪い合い必須なそれらを、不思議なことに、今日にかぎって三年三組の誰も求めなかった。小太郎がもらうべきだとのコンセンサスが、そういう空気というか雰囲気が、子供たちのなかに薄く広がっていた。担任も、温食の汁物をすすりながら「もらっとけ」と小さく呟いた。

「んん♪~」

 こんな幸運は滅多にあるものではない。とくに担任教師からの許可は心強く、後から文句が出ることを心配しないで済む。冷凍みかんゼリーを得た小太郎は、喜んで席に戻った。

「ああー、いいなあ」

 コッペパンではなく、果汁いっぱいの冷たそうなデザートを見て、佐竹が流し目を送った。

「んん~、さたけにも~、あげる~」といって、右手に持ったそれを彼女の机の上に置いた。

「ああ、うん」

 その分け前は当然である、という態度はとらなかったが、感謝というには少しばかり素っ気ない態度だった。家に持ち帰って夕食後のデザートにすることを企んだ小太郎は、ニヤつきながらカバンにしまった。佐竹は、さっさとその場で食べてしまった。

 放課後、小太郎は図書館で時間をつぶさずに、自販機の釣り銭あさりをしていた。ビール自販機の釣り銭口に指を突っ込んでいると、トントンと背中を叩かれた。

「ん」

 振り向くと、そこに佐竹がいた。彼女も学校帰りである。

「ほらこれ、いいっしょ」と言って、平たい金属性のケースを唐突に見せた。

「んん~」

 それがなんなのか、小太郎はすぐにわかった。24色の色鉛筆が入ったケースである。自慢するために見せているのかと思ったが、真相は斜め上から降ってきた。

「かっぱらってきたんだ」と佐竹が言った。

 とても不穏な言葉だった。小太郎のお腹がキュッと締まる。

「これは、佐藤洋子のだよ。ランドセルからかっぱらったさ、ふふ」

 佐竹は同じクラスの女子児童から盗んできたと、さも楽しそうに告白した。

「田川のも、わたしがかくしたんだよ。あいつ、金持ちだからって、いい気になってるっしょ。だから、かくしてやったんだ」

 あろうことか、今日の事件の黒幕は佐竹だった。田川が机の中に置き忘れてしまった色鉛筆セットを見つけ、それを投げ捨てるように隠したのだった。

「いい気味。ざまみろ、ざまみろ」

 その場で、佐竹が色鉛筆のケースを開けた。ほとんど使われていないまっさらな鉛筆を数本握り取ると、その拳を小太郎の顔の前に突き出した。

「ほらっ、あげる」と言った。しかも、やや断定的な口調である。

「ええ~、んー、んー」

 いつも腹を空かせ、物にも恵まれない小太郎だが、良心回路はわりとしっかりと機能している。つるつると光る新品同然の色鉛筆は、たしかに垂涎の的であった。しかしながら、あきらかに不正な行為で手に入れものは受け取れなかった。

「ん~、ぼ~く~、いら~ない~」

 消え入りそうな声だった。佐竹の顔を見ることができず、目線は彼女の足にしがみ付いていた。

「なしてさ。なくなっても、また買ってもらえるんだよ。だったらいっしょや」

 家が比較的裕福な子供たちは、文房具がなくなってもすぐに代わりを買ってもらえると、窃盗少女が強弁した。

「わたしや藤原なんて、なんもないっしょ。いっつも、いっつも、なんもないって。お弁当だってないんだよ。あんたなんて、コペパンだけっしょ。いっつもコペパン食べてなんなのさ。ばかじゃないの。ばか藤原」

 やるせない自分の境遇を吐き出しているうちに、佐竹は小太郎を口撃し始めてしまった。

「・・・」

 叱られているときは沈黙するにかぎることを、小太郎は知っていた。黙して反論せず、ひたすら首を垂れていた。

「だから、とったっていいの。藤原にもやるから。ほら、やるから」

 卑劣な犯罪者が共犯者を求めるように、佐竹は色鉛筆を渡そうとする。

「いやー、いらない~、んん~」

 だが、小太郎は頑なだった。物をもらうときには、そのありがたい気持ちを精いっぱいの作り笑顔で示すのだが、拒絶するときは、存外に不愛想な能面となった。

「なにさ、ばか藤原っ、よわ虫、ばーか、死ね」

 キレた佐竹が小太郎を罵った。

「もう、口きいてやんないから。ぜっこうだから。みんなに言ったら、ノロってやるから」

 少女の中で、いろんな思惑がドロッと滴っていた。口では強がっているが、真ん丸な瞳からは涙が滲んでいた。説明のつかない衝動が、彼女の人生を場末の安酒場へ導こうとしている。

「んーっ」

 小太郎は走りだした。これ以上、佐竹に関わるのは耐えられなかった。良い友だちだと思っていたのに、他人の大事にしているものを隠したり盗んだりと、とても恐ろしい悪事を働くのだ。

 逃げながら、いつの間にか泣いていた。ウンウンと唸りながら、彼女が滴らしていた以上の涙を流し続けた。物置の家についても、その嘆きは治まらなかった。薄汚れたせんべい布団の上でジタバタと手足を動かし、信じていた者に裏切られたという感傷に溺れていた。そうしているうちに時が過ぎて、時刻は夕方を越えた。

「メシーっ」

 藤原夫人の声が響いた。いつもなら、アルミボウルを持った少年が一目散に駆けつけてくるはずなのだが、台所の勝手口付近は静かなままだった。

「メシだー」と夫人が四回ほど叫んだところで、ようやく小太郎が姿を見せた。足を引きずるようにゆっくりとやってくると、いつもの銀色の食器を、不貞腐れたように差しだした。

「おまえ、呼んだら早く来いよ。何様のつもりだ、キモ焼けるなあ」

 反抗期なのかと訝りながら、藤原夫人がボウルをひったくった。チャッチャと舌打ちをしながら奥へと引っ込む。小太郎は泣き止んでいたが、目の周りが腫れていた。黄緑かかった粘着質の鼻水を何度もぬぐっていたために、ジャージの袖が汚れていた。

「んー、んんんー」

 ただでさえ弱っている幼い心に、さらなる衝撃が走った。藤原家の台所に見慣れぬモノがいたのだ。

「ああー、いーぬ~、んん、いぬ~、」

 あの野良犬だった。小太郎にまとわりつき、一時は物置に居座り、さらに突然いなくなり、再び降臨して早朝糞をしたあの犬が藤原家の台所にいるのだ。

「んん~、な~んか、くってる~」

 犬はエサを食べていた。小太郎が使用しているアルミボウルより二回り大きなホーロー容器に、白飯と肉っぽい色をした塊がのっていた。野良犬らしくがっついて食うのかと思いきや、イヤそうにクンクンとニオイを嗅ぎながらの、ためらいがちな食事である。おそらく、晩めし以前に満腹になるほどのエサなりオヤツを与えられたのだろう。

「ほら、今日はこれだよ」

 それに対し、小太郎の晩めしはうどん汁ご飯であった。残り飯に、うどんの残り汁をぶっかけたものである。藤原家では、うどんを食べる際には海老や野菜類の天ぷらも揚げられるのが恒例だ。残念ながら、それらのタネが小太郎に供されることはなかったが、廃棄物として有り余った天かすは、彼のうどん汁にたっぷりと入れられていた。

「あ~りが~と~、んん」

 じつは、うどん汁ぶっかけご飯は小太郎の好物だった。大量の天かすはうま味の宝庫であるし、汁はかつおと鶏の出汁がよく効いていた。料理上手な藤原夫人が作る美味しい雑炊なのだ。運が良ければ、かしわ肉が二つから三つは入っている。

「ふん」と、あくまでも機嫌の悪さをぶつけながら、藤原夫人が勝手口を閉めた。小太郎は扉が閉じられる最後まで見ていたが、犬のほうは振り返ることさえしなかった。

 今日は、なかなかにハードな一日だった。経験したことのない感情が小太郎の内部をかき回したので、いつもより多めのカロリーを消費してしまった。うどん汁ご飯は人肌程度に生ぬるくて、ちょうど食べごろである。すっかりと空になった胃袋が、ぐうぐうと音を鳴らし、早く早くとせっついていた。犬のことは頭の片隅にうっちゃって、早くご飯を食べようと物置へと歩いていると、横のほうから声がかかった。

「お、小太郎、ちょっと来い」と手招きするのは、藤原家の男主人である藤原敦夫だ。タバコを買いに行って、帰ってきたところだ。

「んん」

 早く自分の部屋に入ってうどん汁ご飯をかき込みたい小太郎だが、主人の命令ではしかたなかった。

「今日からな、子犬を飼うことになったんだよ。庭をうろついているのを敦子が見つけてな、すごくなつくから、家の中で飼ってんだ。散歩させるときに会うけど、噛んだりしないから大丈夫だぞ」

 あの糞垂れの野良犬が、正式に藤原家の愛犬となっていた。しかも、当時の一般家庭としては、それほど多くない室内飼いであった。

「いやあ、可愛い犬でな。しっぽ振って愛嬌あるんだ。ウインナーをやったら、二袋もたべてさあ、かわいそうに腹へってたんだなあ」

 小太郎が藤原家で二袋のウインナーを消費するには、一年以上はかかるだろう。

「まあ、いままでひもじかったんだろうな。これからは、うちで腹いっぱい食べさせてやるさ。はっはっは」

 善行をしているという気概で、敦夫の気分はよくなっていた。今日から家族となった愛犬のことを思い浮かべながら、呼び止めた小太郎のことなどかまわずに、上機嫌で家の中に行ってしまった。

「ああ~、んん」

 小太郎の心が痛んでいた。切なさや悔しさ、悲しさがひっきりなしに交錯している。

 三十秒ほどその場にいた。それから肩を落として、トボトボとした足取りで物置に帰ってきた。薄明りの下でベッドの縁に座り、晩めしであるうどん汁ご飯を食べる。じゃばじゃばと音を立ててかき込んでいると、ほんのりとウインナーの匂いがした。もしかしてと思いアルミボウルの底をまさぐる小太郎であったが、あの野良犬に訪れた幸運を味わうことはなかった。

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