第12話

 ごくふつうの家庭環境で育つ子供は、学校行事の多くに好意的となる。退屈な授業をしなくて済むし、遠足となれば母親がおいしいお弁当を作ってくれる。友だちと好きなだけおしゃべりを楽しみ、非日常を味わうのはスリルがあって面白い。

 しかし、家庭環境があまり穏当ではない、あるいは貧困家庭の子供にとっては苦行となることが多い。給食がないのでお弁当の場合が多く、両親の事情や経済的困窮などで平等の原則が崩れてしまう。貧富の格差や、おのれが持って生まれた運や業というものを、これでもかというほど見せつけられることになる。そういう子供にとっては、楽しいはずの学校行事が、往々にして将来への忘れえぬトラウマとなってしまうのだ。

 小太郎が通う小学校は、今日が運動会だ。早朝に鳴り響く打ち上げ音響花火の爆音を心待ちにしている児童もいれば、地球が破滅するほどの大嵐を願う子供もいる。

 小太郎は、どちらかというと乗り気ではなかった。彼は地味な存在だが、じつは賑やかな雰囲気は嫌いではない。ワイワイガヤガヤしているサークルの縁で、そういう様子を見るのは好きだったりする。なんとなく、自分も楽しんでいるような気になるからだ。

 ただ運動会が微妙なのは、それぞれの家庭でお弁当をこしらえてくるので、給食は休みとなることだ。数日前の晩めし呼び出し時に、藤原夫人には運動会のお便りプリントを渡してあるのだが、彼女は面倒くさそうに受け取ると、速攻で丸めてゴミ箱へと放り投げてしまった。

 思えば、一年生、二年生の時も藤原家からの参加者はなかった。過去二年は、お昼になっても行くところがなく泣きながら徘徊していると、気の毒に思った保健医からおにぎりを食わせてもらって、どうにか昼食にありついたのだった。昭栄台小学校の教師たちは、児童たちの境遇にはわりと無関心であって、また、そういう怠惰がなんとなく許容されている時代でもあった。 

 三年生に成長した小太郎はコッペパンをストックしていたので、昼食抜きの事態は避ける算段はできていた。だがクラスメートのほとんどの親は、それこそ気合の入ったご馳走を用意している。楽し気に団らんしながら美味いものを食う傍らで、ボソボソとネズミのようにコッペパンを齧るのは、さすがな貧相マスターでも気が引けた。一、二年生の時の記憶も、しっかりとトラウマになっていた。どこまでも果てしなく青い空を見上げながら、少年の心情は複雑だった。登校する足取りは、いつもよりは重かった。

 集合はグランドではなくて三年三組である。いったん教室で全員集合し、整列をしてから堂々とグランドへと行進となる。教室内は、いつもとは違う種類のざわめきに満ちていた。

 小太郎はコッペパンを二つ持ってきた。一つは自分用、もう一つは特別な女の子にあげようと思っていた。

「あんね~、んん~、さたけの~パン~、もって~きたよ~、んん」

 同じネグレクト家庭である。当然、彼女の家の者が運動会に来ることなどないと確信していた。もしパンを持ってきていないのなら、余計に持ってきたから大丈夫だよと告げて、ニッコリとほほ笑みかけた。

「ええ、ああ、うん」

 だが、佐竹はよそよそしかった。いかにもバツが悪そうに、モジモジとしている。

「今日ね、お父さん来るんだ。だから、パンは大丈夫なの」

「んん~、ああ~、んん~」

 小太郎は平静を保って聞いているが、胸の中はざわついていた。

「お父さんね、今日はお弁当を注文してるんだって。さいきん、お金持ってるんだ。運がついてきてるっていってるの」

 小学生ながらに佐竹と女の子は、相手の状況や気持ちを慮って行動することができる。空気の読める賢い女の子であるが、この時は思わず無邪気になってしまった。どうやら父親のギャンブルが好調らしく、佐竹家の金回りが一時的に良くなっていた。

父親は上機嫌で娘に接し、ふだんは口にすることもない料理が食卓に並んでいた。美味しいものをたくさん食べて、さらに父親にかまってもらえる。家の中が明るいということがなによりのご馳走であり、親子らしい時を楽しんでいた。

 今年は女の子と一緒にお昼を過ごせると思っていたので、あてが外れた小太郎は気落ちしてしまった。しかし、それを態度にあらわすのは彼女に対して失礼であり、またいらぬ気づかいをさせてしまう。ここは漢らしく笑って祝福するしかない。

「んんん~、よかった~ね~。おとう~さん~、いい~ひと~」

 咎められたり、不貞腐れた態度をされるかと少し不安になっていたが、小太郎は優しかった。佐竹はホッとする。いつもより口数が多くなり、父親が豪華なお弁当を買ってくれると喜んで話した。

「よーし。めんどくせえけど行くか」

 担任教師のやる気のない掛け声が、クラス全員を起立させた。児童たちは廊下に出て整列し、二組の後に続いてアリの群れみたいに歩き出した。

 グランドでは児童たちの行進が始まっている。三年三組も、気だるい教師を先頭に、入場行進曲に合わせて子供たちが堂々と胸を張っていた。

 こうして、昭栄台小学校最大の行事、大運動会が始まった。白組と紅組に分かれた全校児童たちが、力のかぎりを尽くして競い合う。運動自慢も鈍い児童も、今日という日は一生懸命に走るのだ。

 虚弱体質な小太郎は、徒競走でも障害物競争でも常にビリケツであった。

 その姿は、走っているというよりも、腹をすかせた野良犬に追いかけられて喘いでいると表現したほうがしっくりとする。手足の振りが不規則で、とにかく滑稽なのだ。

 他の児童が小気味よく駆けていくのに、はるか後方で一人だけ雪中を漕いでいるようなスローさに、観客から失笑がもれていた。彼がゴールする頃には、係りの者は次の走者の準備をしるので、誰にもゴールを祝福してもらえなかった。小太郎は、息を切らした千鳥足で自陣に戻るのだが、そこでもねぎらいの言葉はかけられなかった。

 対照的に、佐竹が気張っていた。徒競走や障害物競争で一等賞をとっていた。足の速い児童が少ない三組で、唯一の複数回トップランナーだった。小太郎同様クラスでは極力目立たない少女なのだが、今日という日は大いに存在感を増していた。

 もともと運動神経が良いのだが、本日は素敵なお弁当をもって父親が見にきている。俄然、元気溌剌となり、いつもより倍の運動量で勝負していた。

「すご~い、佐竹さん一等ばっかだ」

「はやいい」

「うん。さたけ、すんげっ」

「ウルトラさたけマ~ン、こ」

「さたけっちょ、ライダーマンよりはやい。ぴょ~い」

 佐竹が自陣に戻ってくるなり、クラスの連中から称賛を受けた。

「うん。ふう」

 誇らしい気持ちだった。転校してからというもの、貧乏じめじめキャラが定着していたので、常日頃からそういう視線と扱いをされていた。唯一話すのも、最底辺男子の小太郎ぐらいである。

 それが一等賞を連発すると、いままで話したこともないクラスメートから賞賛の言葉がかかった。友だちが増えた気がして、心の中が熱くなった。うれしくなって、思わず後方の家族エリアに向かって手を振る。景気のいい今日の父親は、穏やかに見ているはずだ。

「佐竹、おまえ早いからリレーいけや。アンカーでぶっこ抜いてやれ」

 やる気のない担任教師が、めずらしく佐竹にやる気を押しつけてきた。リレーの選手はすでに決まっていたが、クラス推薦でイヤイヤ走らされるので、佐竹が代わりに走るのは大賛成であった。

「うん。わたし、走る」

 もちろん快諾である。そして急遽、選手交代となった。

「んんん~、さ~たけ、がんば~って~」

 後ろのほうで小太郎がなにか言っていたが、佐竹の耳にも眼中にも入っていなかった。体育帽子を深めにかぶり、運動神経抜群の貧乏少女がリレーのスタート位置へと向かった。

 三年生クラス対抗リレーは、ビリから二番目でバトンを受け取ったアンカーの佐竹が激走を見せた。肩を右に左に揺らしながら前走者を次々と抜き去り、一位でテープを切った。

 これで三つ目の一等賞獲得であり、しかもリレーのトップになったので、クラスの名誉が存分に加算されることになった。

「佐竹に、はくしゅだ」

 自陣に帰ってきたクラスの功労者を、担任教師が称えた。自ら大げさに手を叩き、ほかの児童たちにもそうするよう暗に強要する。

「さたけっちょ~」

「あっひゃあ、さたけまん、すげえ」

「すんげえ、けっぱたなあ」

 ふだんはつれない態度の級友たちから、思った以上の賛辞がよせられた。転校してきて、いまのところ小太郎しか友だちのいない佐竹には、絶好の機会が訪れた。同じクラスの女子と仲良くなれるチャンスである。多くは望まないが、二人くらいは、ほしいと願っていた。もし一人が風邪などで休んでも、もう一人いれば孤独を回避できるからだ。

「さた~け~、んん~、んん~」

 三組の陣地の後ろで小太郎が呼んでいた。黄ばんだ体育帽子をうれしそうに振っている。佐竹は、サッと顔を伏せて気づかない振りをした。せっかくクラスの皆に認めてもらえたのだ。ここで貧乏神と仲良くしてしまうと、繋がり始めた希望の糸が切れてしまう。彼とは誰もいないときに話せばいいし、そして徐々に距離を置かなければと計算していた。

 運動会は終盤となり盛り上がりを見せていた。白組と紅組は接戦であり、一つの競技で優劣が逆転する状況だ。三組は白組なので クラスで最もいきの良い男子たちが大声を張り上げ、真っ白な旗を大仰に振りながらの応援だった。トラックのすぐ傍で、手を振り旗を振り、白組走者にむかってやんやの声援であった。

「がんばれー、けっぱれー」

 その最前列には佐竹もいた。通常なら日陰者の彼女がいると、即座にクラスのリーダー的な男子児童に罵られ追い払われるのだが、功労者である今日は特別待遇である。いや、かえって彼らの中心に位置して、一緒になって吠えていた。

 今までに味わったことのない連帯感を得て、少女は心の熱量をあげていた。話しかけたことのない男子に積極的に声をかけて、さらにたったいま目の前を通過した走者を指さしながら、もっと応援するようにと脇を小突いたりもした。普段の彼女からは考えられない大胆な行動だ。

「よし、いけーいけー」

「がんばがんば」

「うひゃー、あひゃー、ぎゃあ」

「んん~、がん~ば~れ~、」

 児童たちはそれぞれのやり方で応援し、最後の競技で白組が勝った。陣地から歓声が沸きあがり、佐竹は男子と抱き合いながら喜んでいた。

 すべての競技が終了し、お昼休みとなった。昼食は各家族での団らんとなり、その後は閉会式を行って帰宅することとなる。児童たちは、お弁当を用意しながら待っている家族のもとへ駆け出した。

 皆が昼食を取り始めた頃、小太郎は校舎内をさ迷っていた。食材を探していたのではない。今年はコッペパンを持参していたので、食料は確保されている。問題なのは食べる場所であった。グランドの家族エリアでの一人飯は、みじめさが際立ってしまう。去年のように保健室で食べられたらと考えたのだが、今年から保健の先生が替わってしまったので、その希望はかなわなかった。

 ほかにも家庭の事情で両親が来ていない児童もいたが、そういう家庭は爺さん婆さん親戚が親の代わりをしている。 

「藤原っ」

 コッペパンと水筒を入れたカバンをもって、小太郎が教室の前をウロウロしていると、後ろから声がかかった。

「おまえ、だれか来てんのか」

 担任教師であった。運動会が終わるまでは、ケガでもしない限り校内への立ち入りが禁止されている。小太郎は、返答に窮して下を向いて沈黙した。

「黙ってたらわからんって」

「んん~」

 小太郎に責任はないのだが、後ろめたい気持ちがあった。

「あんねえ~、いそがしい~、の」

 育ての親は多忙のため来ていないのだと、舌っ足らずの言い訳をした。

「まあ、忙しいのはしゃあねえべな」

 三年三組の担任は生徒の家庭環境に全く関心がないし、関わろうとの気概もなかった。

「うん~」

 昨年までの体験から、ひょっとしたら担任が昼食を食べる場所を見つけてくれて、さらにお弁当などを分け与えてくれるのではないかとガラにもなく期待した小太郎だが、いつものようにその気持ちは打ち砕かれた。

「校舎に入ったらだめだぞ。すぐに出ろ」

 首根っこをつかまれて、あえなく外に出されてしまった。行く当てなく焦った小太郎は、ネズミのようにチョロチョロするしかないし、実際にそうしていた。

 運動会という大舞台で期せずして輝いてしまった佐竹は、やや上気気味な心模様で父親のもとへと向かった。グランドに設置された家族エリアは満員御礼であり、シートが隙間なく敷き詰められていて通路などない。他家のエリアに侵入し、カラフルな敷物を踏みつけながら家族のもとへと行く。

「おとう・・・、」

 佐竹はお父さんと言おうとしたが、その言葉を即座に飲み込まなければならなかった。なぜなら、佐竹家のエリアには、父親の他に三人の男たちがいたからだ。

 そこでは宴会が催されていた。メンバーは佐竹の父親と、そのギャンブル仲間である。いつの間に来たのか、いかにも昭和のチンピラといった風体の若者と角刈りの博徒、パンチパーマのヤクザが日本酒や焼酎、ビールを飲みながら騒いでいた。

 すでにしたたか酔っ払ってしまった男たちは、誰はばかることなく大声を喚き散らしていた。当然、周囲の家族は大迷惑だ。見かねた一部の父兄が注意するが、待っていましたとばかりに絡みだして、その場は混乱し始める。

 相手が暴力団員であるのは一目瞭然であるので、凄まれれば一般人は黙るしかない。教師たちがやってきて、やんわりと諭すのだが、タチの悪い酔っ払いにどんなことを言っても馬の耳に念仏だ。

 男たちはさんざん喚き散らし悪態をついて、気のすむまで酔っ払っていた。下手に触ると危険であると悟った父兄と教師は、無視することにした。家族の和やかな空間に酒臭いくさびを打ち込んだ博徒たちは、周囲の予想に反し、あんがいに早く帰ってしまった。周りの父兄たちは、一様にホッと胸をなでおろしている。 

 佐竹が一番に楽しみにしていた豪華注文弁当は、まるで野良犬にでも食い散らかされたかのように汚らしい残飯となっていた。父親は酔っ払って寝てしまっている。イビキをかきながら時々大きな屁をするので、そのたびに周囲の者たちが笑っていた。

 天井付近まで昇りつめた佐竹の地位は、午後には地に堕ちてしまった。ここは公共の場であり、やってはけないことを、彼女の父親とその仲間たちが仕出かしたのだ。当然、佐竹本人も同類と見なされる。クラスメート及びその父兄たちから、侮蔑の眼差しが容赦なく射られた。それらは汗が冷えた小さな体に次々と突き刺さり、救われぬ境遇を存分に思い起こさせるほどに鋭い痛みを与えた。

 娘は、寝転がって大いびきをかいている父親を見ていた。下唇をぐっと噛みしめて、目頭に涙滴が溢れた頃合いにくるりと踵を返し、ロボット的な歩き方でその場から逃げ出した。彼女の生涯で、この時ほど父親を憎んだことはなかった。

 同じく涙目になってあちこちさ迷っていた小太郎の昼食場所は、体育館と物置の間のスペースに落ち着いた。その場所は年中日陰となっているので、雑草もわずかしか生えておらず、苔生してジメジメとしていた。ワラジ虫やザトウムシが足元をせわしなく徘徊するが、小太郎はまったく動じることはなかった。

 それらは物置の家ではおなじみの皆さまであり、さらにラスボスとして巨大な鬼蜘蛛や雑菌だらけのげっ歯類が登場することもあるので、忌避するというよりも、どちらかといえば常連客なのだ。

「んん~、っしょ」

 その空間は、余分なパイプ椅子の一時保管場所になっている。それらから一つを取り出して展開し、尻をのせる部分にコッペパンと水筒を置いて机とした。その前に正座した小太郎は、いただきますと小さく呟いて、遅めの昼めしを食べ始めようとした。

「んっ、んん~」

 さっそくコッペパンをかじろうとしたが、誰かの気配を感じて動きを止めた。地面に膝をついて正座し、パンを両手でつかんだまま顔をあげると、女の子が一人立っていた。佐竹であった。

「んん~、どう~したの~、さた~け~」

 少女の顔は、少女とは思えぬいかめしさに満ちていた。あきらかに怒っているようであり、自分が彼女の癪にさわることをやってしまったのかと、小太郎は不安になる。どういう一言を発しようか慎重に吟味していると、佐竹の強張った表情がぐんにゃりと崩壊し、立ちすくんだまま、わんわんと泣き始めた。

 せっかく活躍したのに、せっかくクラスメートに認めてもらえたのに、せっかく豪勢なお弁当が食べられると思ったのに、醜態をさらした父親のためにすべてが台無しとなった。それどころか、ただでさえ低空すれすれを飛行していた佐竹のクラス内ヒエラルキーは、小太郎と同じく最下層で固定されてしまった。やるせない気持ちが悲哀の燃料となり、しぶとく泣き続ける。

 小太郎はどうしたらいいのかわからず、またこんな時に食べては不謹慎だろうと、パンをかじるのを止めた。苔が生えた地面をぼんやりと眺めていると、湿りきった空気が少しばかり乾いてきた。数分が経過する。

「パンっ」

 ようやく泣き止んだ彼女がそう言った。不良が獲物にガンをつけるように、目の前の少年を睨みつけていた。

「んんっ、え~」

 一瞬なんのことかわからず、小太郎はポカンとする。鋭い眼差しにあてられて、若干腰が引けていた。

「パン、ちょうだいよっ。くれるって言ったっしょや」

 豪華弁当を食いそこねた涙目の少女は、空腹で不機嫌だった。もう自分には家族団らんなど訪れないとの絶望混じりの諦めが、彼女の癇癪球に火を近づけていた。

「ああ~、んん」

 この時、佐竹家の父娘に如何なることがあったのか、小太郎は知らなかった。お父さんとおいしいお弁当を食べていると思っていたので、なぜ自分にパンをくれというのか不思議だった。どうしたんだろうと疑問に思いながらも、カバンからもう一つのコッペパンを取り出した。佐竹はひったくるようにそれをつかむと、乱暴に包装ビニールを破ってかぶりついた。

「あ~」

 佐竹が食べているコッペパンは、下のほうが白くカビていた。まずいかなと思ったが、小太郎基準では、それくらいのカビは許容範囲なので黙っておくことにした。下手に余計なことを言うと、怒られそうな気がしたからだ。

「みず~、のむ~」

 小太郎の水筒には、メインのキャップのほかに内コップもある。本来は純白なのだが、程よく黄ばんだそれに生ぬるい水を注いで差し出した。気づかいのつもりだった。

「のむっ」

 佐竹が、やはりひったくるようにしてそれを奪うと、一気に飲み干してしまった。「なんかぬるい」と文句を言うのを忘れなかった。

 さびしい昼食を終えた佐竹は無言で立ったままだった。気まずい雰囲気が嫌であったが、小太郎は腹がへっていたので、相手を刺激しないようにできるだけ音を立てずにパンを食べることにした。

「わたしにお弁当はないんだ。ぜったいないんだ」

 それが運命だと悟ったような言い方だった。自分の考えの正しさを誰かに後押ししてもらいたいとの気持ちがあり、小太郎をぎゅっと見つめた。眉間に太い皺を寄せて、小学生らしくない重苦しい表情だった。

「ん、んん~、ええ~っと、んん」

 どうして佐竹が怒っているのかわからず戸惑う小太郎であったが、きっとカビの生えたコッペパンをあげたからだとの結論に行きついた。

「大丈~ぶ、だ~よ~」

 多少のカビぐらいではお腹はこわさないよ、という意味だ。

「なにがー、だいじょうぶさっ。だって、おべんとうないんだよ。わたしわー、ずっとたべられないんだよー。なしてさー、なしてさー」

 逆上してしまった。いまの佐竹には、どんな言葉をかけても激高するだけなのだ。

「ん~」

 叱られるままに、小太郎は肩をすくめていた。まだ、コッペパンがカビていたために怒られているのだと思っていた。

「んん~、こん~ど~、は、ちゃん~としたの~、あげる~から~」

 これ以上不機嫌を当てられてはたまらないと、小太郎は逃げにかかった。そそくさと後片づけをすると、ぴゅーっ、といなくなってしまった。

 癇癪が治まらない佐竹は文句を言い続けた。誰もいない狭い場所で、自分がいかに恵まれない子であるのかを、くどくどと吐き出していた。


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