第11話

 給食の時間となった。当番の児童が真っ白なエプロンとキャップをかぶって、配食の準備を始めた。本日の主な献立は、ラーメンと干しブドウパンである。

 給食のラーメンは子供たちに人気のメニューだ。あらかじめ茹でてあるソフト麺に、生ぬるくなった具入り汁をぶっかけるだけなのだが、当時はラーメン屋で外食するのは贅沢なことであったので、食欲と気分が高揚するのだ。

「んん~。め~~~ん、んん~」

 もちろん、食いしん坊の小太郎は大喜びである。ソフト麺とはいえ、給食のラーメンはインスタントと比べて一味も二味も違う。飢えた小学生男子は、その本格的な味付けにメロメロであった。

「に~~く~~、んん~」

 しかも、今日は汁と具材が多めに盛りつけられていた。配膳した児童がテキトーな性格で、雑に盛っていたために均等に配れていなかった。結果、具材が多めなものもあれば、汁だけのもあった。

 大きめのバラ肉が二切れものっていた小太郎は、予期せぬ幸運にニタリ顔が止まらない。

「いいなあ。わたしのおツユだけだもん」

 隣の転校生はハズレを引いてしまったらしい。ナルトの破片すら入っていない汁だけラーメンを、さもうらめしそうに見ていた。

「ああ、ん、ええっと~、んん」

 小太郎が悪いわけではないのだが、仲良くなったばかりの女の子が落胆する姿を見たくはなかった。

「んん~、すこし、いるう」

 ナルト半分とバラ肉一かけらを分けてもいいと思った。肉片は小さいほうをあげようとした。

「いいもん。わたし、いっつもこうだから。まえの学校でも、いっつもこうだよ。お金をはらってないんだから、いっぱい食べたらダメなんだって」

 以前の小学校で、佐竹の家は給食費を払っていなかった。そのことを担任の教師は、ことあるごとになじっていた。ホームルームの時間にやるものだから、クラスの全員が知っていた。ただでさえいじめられていた彼女は、そのことでさらに追い詰められていたのだ。

「ああ、ううん」

 返答に困ってしまった。小太郎は貧相な少年ではあったが、藤原家が給食費を滞納することはなかった。なぜなら養護施設から養子を迎えた家庭は、給食費を市が免除していたからだ。

「じゃあ~、とっかえこしようよ~。ぼ~く~、ら~めん~、そんな~、すきじゃ~ないから~。んん~」

 どうしても友人がほしい小太郎は、白々しいウソをついてまで最大限の譲歩をする。   

「だって~、」

 ある意味、この転校生は貧困ということに関して小太郎より上である。佐竹家は父子家庭であり、日雇い労働者の父親はギャンブルにのめり込んで、いつも金がなかった。娘の養育など眼中になく、つねに外出しており、食事を用意してないことが多かった。藤原家本体が健在な小太郎とは、不幸の色あいが少しばかり違っていた。

「いいよ~、ほ~ら~、とっかえっこ~。んん~」

 誰かにモノをもらったり優しくされたりの経験がほぼない佐竹は、急な善意の申し出に戸惑っていた。本心としては欲しくてたまらないのだが、取り替えてもらうことでバカにされたり、上下関係の優劣を決定されるのではないかと疑っていた。

「は~い~、これで~ん~、いい~」

 そんな動揺する女心にかまわず、小太郎は自分のカップと彼女のそれを取り替えてしまった。

「あっ」

 勝手に替えられてしまったので佐竹は抗議しようとしたが、目の前のラーメンには脂身がハンパないバラ肉が二片ものっかっていた。しかもナルトまであるではないか。これを元に戻すのは至難の業だと、本能が訴えていた。どういう言い訳をしようかと考えながらも、結局は受け入れてしまった。

「うん、ありがと」

 いっぽう、小太郎の手元にあるのは具がほとんど入っていない素ラーメンだった。それでもラーメンはご馳走であるので、惜しいとは思わなかった。

「いただきまーす」

 日直の号令がかかり、お待ちかねの給食が始まった。

「うふ~~ん」

 人肌よりもだいぶぬるくなったラーメンを、まずバラ肉から食べた転校生は、その甘さと脂っこさに喜んだ。小太郎と同じくネグレクトに直面している彼女は、小太郎と同じように飢えていた。学校の給食が栄養摂取の主な手段であることも、小太郎と同じだった。

 具材がない汁だけラーメンだが、小太郎は満足していた。隣の席でおいしそうに食べている女の子の表情が、良き香辛料となっていた。

 ラーメンを食べている佐竹は、パンは半分ほど食べたところでやめた。ビニールの口を縛り、半分になったそれを大事そうにカバンの中に入れた。

 その様子を見ていた小太郎は、すぐにピンときた。彼女は、今晩か明日のためにワザと残しているのだと。

「きょう~ね~、パンねえ~、あまるよ~、んんん~」

 あま~い甘納豆が練り込まれたパンや揚げパンは子供たちに大人気だが、干からびたウサギの糞が点在する干しブドウパンは大変不評で、いつもより余りが多い。だから、全部食べても持ち帰り分があることを教えてあげたのだ。

「ここって、ラーメンの日にもパンがあるんだね。まえの学校は、ラーメンだけだったから」

 ラーメンにパンがつくのが当たり前だと思っている小太郎は、佐竹が言っていることがよくわからなかった。

 給食の時間が、もうすぐ終わろうとしている。余った干しブドウパンは教室前の給食台のパンケースにあった。

「ねえ、あんねえ、ん~、パンをね、んん~、もらって、こようよ」

 デザートなどのおいしい余り物はクラスの有力児童が強奪してしまうが、コッペパンや干しブドウパンの時などは、その活動が停滞した。そして、三組のスカベンジャー小僧たる小太郎の独壇場となる。

「えー、だってえ」

 小太郎の誘いを受けた佐竹は、本心ではもちろんパンが欲しいのだが、とりに行くことについては躊躇いがあった。以前の小学校では、余りものに手を出そうものなら、クラスの連中からの心無い誹謗に晒されていたからだ。

 彼女が動こうとしないので、常連の貫録を発揮した小太郎は一人で行ってしまった。そして、余った干しブドウパンを四つ持って帰ってきた。

「こ~れ~、あげる~よ~、んん~」

 そのうちの二個を、佐竹の机に置いた。

「いいの?」

 転校生は、心配そうに周りをキョロキョロと見ていた。

「この~パン~、カビるから~、はやく~、たべたほうが~、いいよ~、んん~」

 女の子にいい恰好したので、小太郎はいつになく上機嫌だった。無駄におだってしまい、持ち帰る予定だった干しブドウパンの一つを食べ始める始末であった。

 二個の干しブドウパンを貰うと決めた佐竹は、それらを素早くカバンの中にしまった。彼女もランドセルは持っていなかったが、小太郎のカバンよりは幾分見た目がきれいだった。

 ラーメンと干しブドウパン二個は、いかに常時飢餓状態である小太郎でも重かった。それでもゲップをしながら頬張る表情には、人生における重要ななにかを得たという満足感があふれていた。


 満腹になりすぎると、午後の授業はある種の我慢との戦いになる。うとうとしながら、小太郎は眠りの底に落ちてしまわないように背骨に力を込めていたが、いつの間にか、まどろみの海へと泳ぎだしていた。

 貧乏性な少年は、もったいないとでも無意識がざわめいたのか、そのか細いレム睡眠でさえも無駄にしなかった。現実では、とてもマネできない脚本を描いていた。


 小太郎は、よく整った小ぎれいな部屋にいた。怪獣や車の消しゴムやオモチャ類が、ニスがピカピカな木製の棚に行儀よく並べられている。ベッドの上には、ふっさふさの白い子犬が座っていて、しっぽを揺らしていた。

{んん~、ぼく~ね~、げーむ、んん~、あるんだ~よ~ん}

 当時、子供だけではなく大人にも人気のあったボードゲームを床に広げて、小太郎は得意気だ。一緒にプレイするのは、転校生の佐竹、近所の橋の下に住むホームレスのじいさん、濡れ犬のシェパードだ。クラスメートは佐竹だけで、他のメンバーが意味不明なのは、夢の中だからである。

 藤原夫人がおやつを持ってきた。いつものアルミボウルへ、よく焦げた野菜炒めを山盛りにしている。さっそく濡れ犬がガッつくが、小太郎がすかさず制止する。

{それ~わ~、だめ~っしょ~}

 みんなで食べることを説明すると、濡れ犬は引き下がった。佐竹が喜びながら焦げすぎた人参を食うと、それがどれほど美味いのかを、小太郎は得意になって説明し始めた。


「ふぇんふぇんふぇ~ん、んん~、ふぇんふぇん」

 意味不明な寝言が、教室の後ろのほうから聞こえてくる。

 夢の中でのカッコいいセリフが、現実世界ではマヌケな音となっていた。理科の時間、三年三組の教室内に可笑しくも不穏な空気が醸成され始めた。

「なんだあ」

 黒板に下手くそな生物を描いていた担任教師は、背後でのざわめきを感じて振り返った。すでに何人かがクスクス笑いだして、それらは三秒おきに倍数となって増えていた。

「誰だー、ふざけてんのは」

 彼は教育者としての仕事は不熱心で、ぶっちゃけどうでもいいと思っているのだが、子供ごときに自分の授業を妨害されるのは癪に障る性質だ。教壇の上からカラスのような目玉が、獲物となる子ネズミどもを睥睨していた。

「ふぇん、んんん~、ふぇんくー、ふぇんふぇん」

 いったい、どこの人類の言葉なのか、という奇妙な寝言だった。小太郎は授業中にもかかわらず、すっかりと夢の住人になっていた。机の上に頭部を乗せて、顔はあくまでも転校生のほうを向きながら、涎をたらして寝ていた。

 そこへ向かって、担任教師がゆっくりと歩いてゆく。獲物が感づいて目を醒ましてしまわないように、ゆっくりと、それでいてどす黒い殺気を、もわ~っと発散させながらの接近であった。

 佐竹が心配していた。彼女がいた前の学校でも、教育者による体罰は日常茶飯事であった。むにゃむにゃと、惰眠を貪る小太郎がひどいことになるのが予想できた。声をかけて起こそうかと考えたが、時すでに遅しであった。

「ふざけんなっ」

 担任教師に、ためらいはなかった。握った拳にハアーと息を吹きかけて、そのまま真っ直ぐに落とした。

 ゴン、と音がした。ゲンコツが小太郎の後頭部を直撃した音ではなくて、その殴打の衝撃で、若干空中に浮いていたおでこが机に当たったのだ。

「ふぇ、ふぇ~ん」

 涎を垂らしながら目覚めた小太郎は寝ぼけていたので、その衝撃の真意がわからなかった。マヌケな声をあげて、さらに物置の家で目覚めたときは必ずしている生理現象を披露してしまった。

「ぷふぇ」

 屁をこいたのだ。その貧弱な体格に似つかわしい、細くて気弱な一発だった。だが、静まり返った教室の四方に響き渡るくらいの音色はあった。一瞬後、どっと笑いが起こった。

「くこォのう」

 大人の前で堂々と放屁することは、当該大人にとっては侮辱であり、屈辱を感じざるを得ない。大ウケしている児童たちの笑い声が、彼のプライドに屁臭い泥をぶっかけていた。

「藤原っ、こいっ」

 首根っこを掴まれた小太郎は強制的に立たされた。そして、やはり強制的に連れていかれ、教卓の前に立たされた。

「フジワラ、がー、べんきょうー、の、最中に、ねてたー」

 担任教師は小太郎を憎々し気に見つめて、そう言った。

 おかしな箇所で言葉を区切っているのは、じつは意図的にではない。あまりにも憤慨したために心が動揺して、言葉が詰まってしまったのだ。

「オマエらー、これは三組全員の責任だからな。みんなの責任だからな」

 隣にいる大人が、なぜガミガミと怒りをまき散らしているのだろうと、まだ寝ぼけから醒めきらない小太郎は、ぼうーっとして聞いていた。

「わかってんのかっ、」

 ポカポカとゲンコツを貰って、ようやく目が覚めた。小太郎は、冷めた顔で自分を見ているクラスメートたちと対面する。

「今日の放課後は全員で掃除をするからな。全員だからな」

 全員で掃除ということは、小太郎が居眠りしていた罰をクラス全体で共有するということだ。よくある全体責任というやつである。

「えー、」

「なんだよもう」

「やだよー。おれ、きのうそうじしたばかりだって」

 当然、ブーイングが沸き起こることになるが、クラス全員が掃除をするという決定が覆ることはない。あまり不平を言い続けていると、担任教師の体罰が自分に降りかかってくる。まもなく、不満の声は自然とフェードアウトした。

「藤原、おまえは廊下に立ってろ」

 狭小に過ぎる担任教師のプライドは、この幸薄な少年をどこまでも追い詰めることにした。小太郎は授業が終わるまで廊下に立たされてしまった。バケツを持つことはなかったが、それでも一人教室の外に出されたのは寂しくて、みじめでもあった。廊下に立たされるというのは、マンガやドラマでよくあるが、実際にその罰を受けた者は、よほどの常連でないと平常心ではいられない。小太郎は、涙目になりながら立ち続けた。

 帰りのホームルームが終わった。本来なら掃除当番以外は帰れるのだが、小太郎のやらかしにより、クラス全員が残って掃除をすることになった。当然、多くの児童は不服顔で、とくに男子は露骨にイラついていた。

「ばか小太郎」

「小太郎、うんこ」

「あっちいけ」

 ほうぼうから罵声を浴びながらも、小太郎は箒を動かしていた。嘲りや無視されるのは慣れているが、憎しみがこもった鋭角的な悪口は、さすがに堪えた。再び涙目になりながらゴミを集めていると、佐竹が近づいてきた。

「わたし、そうじって好きなんだよ」

 やさしい気づかいは、時として人を追い込むことがある。情動があふれ出して、もう堪えきれなくなった。

「ん、ん、ん、うえ~」

 とうとう泣き出してしまった。

「うえーーーーん、うえーーーん、うえーーーん」

 たまに泣く小太郎の声は、存外に大きくて教室中に響き渡った。 

 あーあーと泣きながらも、小太郎の箒は仕事を止めなかった。しぶとくチリや埃を集め、自分の犯した罪を償おうとする。それらを、チリトリを持った佐竹がしゃがみ込んで、まるでよく気が利く女房のようにすくい取るのだった。


 きわめて全体主義的な掃除が終わり、三年三組の児童たちは、ようやく帰ることを許された。ひとしきり泣いた小太郎は、佐竹のさりげない気づかいでなんとか涙を引っ込めて、いつもの貧相な子供に戻っていた。怨嗟の声を避けるために、もっとも最後に教室を出た。

 小太郎に友だちはいないので、学校帰りはいつも一人だ。教室を出ると力なく廊下を歩き、背を必要以上にかがめて下駄箱から外靴をとりだし校門を後にする。放課後の図書館が閉鎖している最近では、いつもといえばいつもの道のりであった。同級生と一緒に仲良くおしゃべりながら下校するなんてことは、一度も経験したことがなかった。

「んん~」

 それが今日は違うのである。佐竹が彼の後をついてくるのだ。親しげに並ぶわけでもなく、かといってお互いの姿が確認できなくなるほど距離をとるわけでもなく、つかず離れずの間隔を保って、しかも無言でついてくる。

「い~え~、こっ~ちゃなの~」

 小さな橋の真ん中で、小太郎は立ち止まった。気まずさに耐え切れなくなったのだ。

「・・・」

 佐竹は相変わらず無言だ。カバンを持った右手をだらりと下げて、ついでに頭も垂れている。道に食い物でも落ちているのかなと、釣られた小太郎が彼女の足元を探った。

「はやく帰りたくないんだ。いま帰ると、お父さんがいるから。夜になると、どっかいくから、それまで帰らないの」

 か細く、自信のない声でそう言うのだ。

「ああ、んん~」

 佐竹の父親は彼女にやさしくなく、どちらかといえば辛く当たるのだろう。大人からまともに扱ってもらえず、幼くして人生の悲哀を味わっている小太郎には、なんとなく彼女の気持ちがわかった。

 佐竹は、夜になるまでどこかで時間をつぶしたいわけだが、見知らぬ土地で、その場所を見つけられない。どうしていいのかわからず、親しくなった唯一の男の子の後を考えなしに歩いていた。小太郎はつとめて後ろを振り返らないようにしていたが、彼女がいつまでも離れないので困惑していた。 

「んん~」どうしようと思ったが、小太郎にはどうにもできないし、どうにかしようとの意志もなかった。結局、佐竹は藤原家まで来てしまった。家の門の前で二人は並んだ。小太郎が初めて家に友だちを連れてきた、という既成事実が出来上がった瞬間だった。

「へえ、けっこうりっぱなんだ」

 二階建ての藤原家を見て、佐竹は率直な感想を述べた。

「うちなんか、古いアパートだから、きたないんだ」

 ふつうの女の子であるならば、自分の家のボロさを吐露したりはしない。貧困な環境に慣れてしまい、恥じらいの感情が欠損していた。

 佐竹のおしゃべりに小太郎は返事をしない。ややうなだれたように、彼の本当の家へと歩を進めた。

「ねえ、家に入んないの」

 玄関の前をなんら躊躇することなく通り過ぎた少年を、転校生はいぶかしく思っていた。

「そっち~、は~、んん~、ちがう~、いえ~~」

「えっ」

 二人は物置の前までやってきた。佐竹は、まだ首をかしげている。

「ねえ、ここに犬がいるの」

 小太郎が犬の話をしていたのを思い出して、きっと物置で飼っているのだろうと推測した。

「いぬ~、いる~よ~」

 そう言って、小太郎が物置の引き戸を開けた。

「はい、って、いい~よ~、んん」

 薄暗くて狭い物置の中から、いくつものニオイが吐きだされた。学校給食の食器のような、なにかの食べ残しのような、ジメジメした臭気が女の子の体にまとわりついた。

「ここに住んでるの」

「そだよ~、んん」

「なんで、家に入らないの」

「あそこ~、ね、んん~、いえ~、じゃないか~ら~」

「じゃあ、家はどこ」

「ここ~、だよ~、んん」

 不幸な父子家庭であっても、佐竹めぐみは頭がよくて感もいい子供だ。それ以上の事情を訊かなくても、藤原家の大人たちから小太郎がどういう扱いを受けているのかを察した。

「すごいね。りっぱな家だね。わたしはアパートだもん」

「んん~、そう~、かな~」

 物置の家をバカにされると思っていたので、佐竹の返答は意外であり、またうれしくもあった。二人は煎餅のように固くなったベッドに腰かけた。

「ねえ、犬はどこにいるの」

「あれ~、ああ~、んん」

 居候の犬がいなくなっていた。小太郎にとって喜ばしいことだったが、いまはいてほしかった。男の部屋で、いきなり女の子と二人っきりは緊張する。間を保つネタが欲しいと思っていた。

「ねえ、夜までいていい」

「んん、いいよ~」

 父親のいる時間には、なんとしても帰りたくないのだ。前の学校でも、図書室やスーパー、近くの公園などで時間をつぶしていた。似たような生活をしている小太郎は、断ろうともしなかった。

 しゃべるのは、おもに佐竹で小太郎はウンウンと頷くだけだった。友だちをもったことがないので会話の距離感がつかめないのと、女の子が食いつくような話題も持っていない。主導権は、彼女におまかせのほうが楽であった。

 しばらく話を聞いていた小太郎は、これから起こるある重大事を思い出した。

「ああー、んん~、ああ」

 もうすぐ晩めしの時間なのである。

「どうしたの」

「う~ん、そのう」

 物置の家に友だちがいるのを知ったら藤原夫人はなんというだろうか。おそらく怒られるだろうと、その光景を思い浮かべて背中に冷や汗が出たが、すぐに佐竹がここにいる限り見つかることはないことに気づいて安堵した。

「だい~じょうぶ~、んん~、あっ~、でも~」

 だがしかし、問題はもう一つあった。

「晩ごはんだったら、わたしはいいよ。いらないから。給食のパンがあるし」

 晩めしである。

 小太郎の表情からもうすぐ晩めしの時間であり、佐竹の分までは供されないことを本能的に察知し、いらぬ気づかいをしないように予防線を張った。なにごとも望まない人生を、望んではいけない生命を、彼女は生きている。

「うん、んんん」

 食いしん坊な少年であったが、ひもじい女の子の前で自分だけメシを食う薄情者ではなかった。 

「はんぶ~んん~こ。・・・、んん~、ね、ね」

 半分ずつ食べることを提案した。佐竹は固辞するが、男の矜持にかけて引けない小太郎であった。んん~、んん~、と唸りながら押し込んでくるので、しまいには佐竹がおれた。どうせ家に帰っても父親は食事の用意などしないし、なにかを買う金もない。給食のパンを食うしかないので、食べさせてもらうなら有難いと思った。また、よその家の晩メシを食わせてもらうなんて初めてなので、少しドギマギしている。小太郎には、「うん」と微かに頷いた。

「メシーっ」

 どこからか甲高い声が飛んできて、佐竹は少し緊張した。小太郎はいつものアルミボウルをもって出て行こうとする。 

「いま~、もってえ、くるか~ら~、ね。でちゃあ~、だめだ~よ~」

 自分がここにいることは秘密なのだと、佐竹はもちろん理解していた。小太郎が引き戸を開ける際には、外から見つからないように壁際にくっ付いていた。

 ほんの一、二分ほどなのだが、佐竹にはとても長く感じられた。小太郎は晩めしをもってくると言ったが、じつは家の中で家族と一緒に食事をし始めたのではないかと疑ったりした。

 佐竹は過去に、仲良くなった友だちの家で一人部屋に残されたことがあった。その友だちが家族と夕食をとっていたのだが、もどっきた友だちはすぐに帰るように言ったのだった。さすがに呆気にとられてしまったが、そういう家庭もあるのだと、気落ちしながらも納得するしかなかった。

 だが小太郎という男は、見た目は踏み潰されたナナフシみたいに貧弱で幸薄な少年だが、なかなかに義理堅い性分でもあるのだ。

「ん~、きょう~わ、ね~、しちゅ~、だよ~」

 今晩の献立はクリームシチューであった。ボウルにメシがあり、その上にやや黄ばんだシチューが豪快にぶっかけられていた。具材としては、コーンとジャガイモとニンジンとごく少量の肉があって、まだ熱々なのかいかにも食欲をくすぐる湯気を立てていた。

「じゃ~、ぼく~わ~、こっちゃ~からね~、んん~。さたけ~わ~、そっちゃあ、から~」

 小太郎の半分分けは独特であった。例えば別の容器に佐竹の分を取り分けるでもなく、例えば代わる代わる食べるのでもなく、要するにシチュー丼が盛られたボウルの両側から、それぞれが同時に食べるというものだった。

「ええーと、」

 ごはんと汁ものとおかずは別々の食器だと思っていた佐竹は、かなり面食らっていた。彼女の家もネグレクトなので、食事はあったりなかったりなのだが、ボウルにご飯と汁ものを一緒に入れることはなかった。これではまるで犬ご飯であり、しかも同時に食べなど、ひどく行儀の悪い食べ方だと思った。

「さあ~、んん、はや~く~、たべる~よ~」

 どこから持ってきたのか、小太郎は先割れスプーンを二つもっていた。それらは学校給食で使われているものだ。盗んできたのではない。誰かがイタズラ目的で盗み、校庭に投げ捨てたのを拾ってきたのだ。彼はそれを汁物が多いメシの時に使用していた。

 彼女の戸惑いなどお構いなしだ。少女は気圧されるままに、先割れスプーンを受け取った。

「ああー、これ、すごくおいしい」

 その人柄や人格はいざ知らず、藤原夫人のつくる料理はどうしようもなく絶品なのである。犬のエサのように盛りつけられたシチュー丼は美味かった。最高のご馳走が学校給食である佐竹には、未知なる至極の味覚だった。

「おいしー、おいしいね」

 少女は、まさに腹をすかせた野良子犬のようにがっついた。小太郎も負けてはならぬと、先割れスプーンで口に運ぶ。

 勝敗は決した。佐竹が7で小太郎が3の割合であった。いつものようにメシの量が多かったので、佐竹はもとより小太郎もいちおうの満腹感を得た。

「おいし~、でしょ~、んん~~~~」

 勝利は、物置の家主たる小太郎が宣言した。佐竹の満面の笑顔が、彼女の敗北を決定づけている。

「うん、ありがと」

 晩めしを食べ終わってから三十分ほどが経った。女の子の帰宅の時間となる。藤原家の者たちは、家の中にいるのでとくに見つかるわけでもないのだが、佐竹はコソコソと物置の家を出た。小太郎も足跡を消しながら、彼女を見送るために外へ出た。

「コタロウ、きょうはありがとね」

 呼び捨てではあったが、自分の名前を言ってもらえたので、小太郎はうれしかった。なんといっても佐竹めぐみは女の子であり、そして彼にとっては可愛らしかった。暗がりの中、小太郎は一歩足を踏み出した。

「んん、め、め、んん~」

 めぐみ、と名前を叫びたかったが、結局言葉が詰まってしまった。そこは漢になりきれない小太郎なのだ。

「またあしたね。きゅうしょく、楽しみだね」

 バイバイと言って、転校生は行ってしまった。裸電球だけの外灯の下、まっすぐ一本道を走っていく少女を、小太郎はいつまでも見ていた。

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