第10話

「おまえらー、はやく席に座れ。もたもたしてるやつはビンタするぞ」

 朝っぱらから担任の叱咤がとんで、三年三組の教室内はゴキブリの群れに殺虫剤を噴霧したかの如く、子供たちが右往左往していた。

 なにせこの若い教師は、教育には給料の半分以下の情熱しかそそがないが、体罰をすることについては、しっかりと給料分の働きをする。朝からビンタやゲンコツをもらいたくないので、児童たちは急いで席に戻るのだった。

 いつもなら担任が教壇に立って、日直が起立・礼・着席をいうまで静かにしているのだが、今朝は違っていた。隣の席の者同士がヒソヒソと話し、ざわざわと落ち着きがなかった。

「今日はなあ、転校生を紹介するからなあ」

 原因は、彼の後ろにいた女の子である。三年三組に転校生が来たのだ。

「佐竹めぐみだ」と、担任は素っ気なく言いうだけで、黒板に名前を書いたりはしなかった。

 自分たちのクラスに新たなメンバーが加わるというのは、小学生も中学生も、さらに高校生でも事件である。転校生がどんな性格なのか、自分と友だちになるのかなど興味津々だ。

 担任は、転校生に自己紹介する隙を与えなかった。彼女の緊張を慮ったわけでもなければ、新入りにワザと冷たくしてナメられないようにしたわけでもない。ただ単に面倒くさかっただけだ。

「よし、ちょうどいい機会だから、席替えをするぞ」

 そして、唐突に席替えを宣言した。転校生が来たからというわけでもなく、なんとなく、この時がいいと思ったのだ。

「ええーっ、いまのとこでいいのに」

「なおちゃんと離れるの、いやだよう」

「やったー。席がえ、さんせい」

「おれ、後ろがいい。うしろ」

 慣れ親しんだ席順に愛着を持つ者は嫌がり、いまの位置に不満がある者、特に最前列の男子は、もろ手を上げて喜んだ。

「じゃあ、くじ引きにするからなあ」

 教師の職権として、独断と贔屓で自分の思い通りの席順を児童たちに強いることもできるのだが、三年三組の席替えはいつもくじ引きであった。理由は、それを考えるのが面倒くさいからだ。

 転校生の女子は、本来なら好奇の目で見られてなにかと質問されるものだが、席替えという大きな行事により、彼女の存在がしぼんでしまった。クラス中の誰もが、おのれの席順がどうなるのかに意識を集中させている。彼女への興味は薄れていた。

 しかし、ここに一人だけ席順を気にしない児童がいた。

「ん~」

 小太郎である。彼は席順騒動から一人距離をとっていた。なぜなら、彼の席は不変だったからだ。

 このクラスに、あえて不潔で辛気臭い小太郎のそばに近づきたいと思う者はいなかった。それは三組の最高権力者である担任教師もわかっていて、面倒なトラブルが起こらないように、教師の権限で小太郎の席を教室後ろ端に固定した。

 だから小太郎は、クラスのざわめきを気にすることなく転校生を見ていた。佐竹めぐみは、教壇に立たされたままであった。ただでさえ初めての場所で不安なのに、席にもつかされず、知らない者たちの衆目にさらされて存分に戸惑っていた。

「ん~、ん~、んふ」

 その少女を、小太郎は可愛いと思った。気弱で貧相で成績も悪く、いいところがほとんど見当たらない孤独な少年であるが、いっちょ前に男の子なのである。女子の品定めぐらいできる年頃になっているのだ。

 担任が学級委員長に、くじをつくるように命じた。指名された者は、さっそくノートを細かく切り取り、一つ一つに席順の番号を書いた。それらの破片を折り畳んで机の上にバラまくと、小太郎以外の児童がやってきて自分の分を取る。勝手がわからない佐竹はまごまごしていたが、最後に残ったくじをあてがわれた。誰もが、駄菓子屋の十円くじを引くよりも真剣な表情だった。

 一時間目を使い切って席替えが終了した。喜ぶ者、がっかりする者、無表情な者、どうでもいい者など、それぞれの心情が顔によくあらわれていた。

 小太郎の席は相変わらず一番後ろの端っこだが、一つ大きく変わったことがある。あの転校生が隣の席にきたのだ。

 佐竹めぐみの容姿はごく普通の小学三年生である。ブサイクでもなければ、とりたてて可愛いというレベルでもない。特徴のない平面的な顔立ちであり、現に、小太郎以外の男子で胸をときめかす者はいなかった。

 彼女が着ている赤ジャージは薄汚れていた。膝の部分が擦りむけて、小さな穴があり生地がほころんでいた。当て布やパッチを施されておらず、保護者の無関心ぶりがわかる。古いデザインであり、しかも上下のメーカーが違っていた。あきらかに誰かのおさがりであり、そうとうに使い古されている。

 席替えが終わって、教室の中はしばらくガヤガヤとうるさかった。一時間目のほとんどが経過していたので、いまさら授業をすることができず、担任は児童たちの好きにさせていた。

 佐竹めぐみは、クラスの誰からもほぼ注目されなかった。彼女の周囲の席にいる者は、新しく近所になった級友たちとの親交に忙しく、転校生の存在を気にかける余裕がなかった。

「あの~、んん~」

 なんと、その転校生に声をかけた最初の男は小太郎だった。

「あん~ね~、ぼ~くね~、犬~、いるん~だよ~」

 最近物置の家に図々しく居候している犬のネタをこれ幸いとして、女子の関心を買おうという作戦だ。

「うん」と、少女は頷いた。それ以上は言わず、いきなりなれなれしい初対面の男子を警戒している様子だった。

「あん~ね~、いぬ~ね~、すごいんだ~」

「へえ~、すごいね」

 犬のなにが凄いのかを説明されていないのだが、返答することを忘れなかった。

「んん~」

 その少女にまとわりついているオーラの色が、自分に近いと感じていた。保護者に顧みられることなく、子供のくせに十分に孤独で、さらに貧乏であることに耐えている。そういった境遇を強いられている者同士が発する目に見えない信号を、敏感にキャッチしていた。

「わたし、犬、好きなんだ」

 佐竹は少し心をひらく。彼女もまた、小太郎の恵まれぬ身の上をすぐに見抜いていた。そして、荒野に放り出された仲間同士であると認識した。

「犬ね、かわいいよね。小さいのが好きなんだ。見たいなあ」

「んん~、い~ぬ~、んん~、うふふ」

 か細いながらも親しげな答が返ってきて、小太郎の胸がときめく。友だちとして、ぜひとも仲良くなりたいと思っていた。

 一時間目の終業チャイムが鳴り、担任が教室を出ていった。三組の児童たちは短めの休み時間を有意義に使おうと、あっちこっちで、ああだこうだと騒いていた。 

 何人かの女子が転校生と話したいと思い佐竹の席に近づいたが、そのきっかけを邪魔する奴がいるので躊躇していた。

 小太郎と佐竹は、休み時間までに仲良しとなっていた。転校したての不安を払しょくしたくて、佐竹はいつもより多めに感情を出している。最初に友だちとなった者に対する感謝と、これからも仲良くしてもらいたいとの願いを込めて、けな気に、そして一生懸命に相手をしていた。

「うわああ、転校生が小太郎と話してるぞ。オエー、くっさあ」

 三組で一番のおちょうし者である男子が、さっそくからかい始めた。

「なあ、おまえ小太郎が好きなのか。小太郎とチューしたのか」

 小太郎は下を向いて固まり、佐竹も黙ってしまった。二人ともなじられるのは多少の耐性があり、そういった場合の対処は沈黙にかぎることを知っていた。

「こじきとこじきのケッコンだあ」と囃し立てる。

 嘲りは、小太郎と同列に見なされた者にも容赦がなかった。

 佐竹は、転校初日から学校カーストの底辺へと位置付けられてしまった。声をかけようとしていた他の女子連中も、波が引くように後退する。もっとも、前の小学校でも孤立していたので、佐竹本人にはそれほどダメージはなかった。かえって、似たような境遇の者が近くにいるので、気持ちとしては楽であった。

 ここにいれば一日中無言でいることはなさそうだ。楽し気なざわめきの中で、自分だけが静かであるというのは、耐えがたく辛いものである。佐竹は、小太郎みたいな存在を欲していた。新たな学校でやっと孤立を回避できそうな予感に、思わず顔がほころんだ。

「おらあー、おまえら、うるせえぞ。算数の時間だから席につけ」 

 担任の教師がやってきた。子供たちのうわついた情動を静めるには、算数の授業は効果絶大なのである。

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