第9話

 なにかと不潔な小太郎であったが、まるっきり汚れたままというわけではない。藤原家の者がたまに衣服の洗濯をしてくれるし、風呂にだって入ったりするのだ。

 小太郎が住んでいる市の福祉課では、生活保護の母子家庭に銭湯の無料券を配布していた。昭和のこの時代、風呂がない格安アパートがけっこうあったのと、当時は福祉予算にそれほど制限がなかった。かえって、緊縮財政だらけな現在よりも充実していたといえる。

 藤原家は母子家庭ではなかったが、養護施設から引き取られた経緯を考慮して、小太郎にも無料入浴券が与えられていた。ただしひと月に四枚で、小学生以下という限定であった。大人は使えないので、藤原家の者たちが取り上げることはしなかった。したがって、その権利は小太郎本人のためだけに使用され、月に四回の入浴が保証されていた。

「めしーっ」

 藤原夫人の甲高い声が飛んだ。小太郎は、いつものようにただ一つの食器であるアルミボウルを持って馳せ参じる。へへへと愛想笑いしながらそれを差し出すと、女主人はさも不機嫌な顔で受け取った。台所に向かって姿を消すと、ややしばらくして戻って来る。毎度おなじみの光景だ。今晩の晩めしは、麻婆豆腐のぶっかけ飯である。

「ありが~と、へへへ」

 豆腐がほとんど入っていない濃い残り汁だらけのぶっかけ飯だが、タクアンとナスビの漬物がのっていた。これはこれでご馳走の部類に入るし、ご飯の盛り方も多かったので小太郎は喜んだ。

「それと、今日は風呂に行きな。遅くなるんじゃないよ」

 そう言って、藤原夫人は無料入浴券を小太郎の汚れたズボンのポケットへとねじ込んだ。

「んん~、ああ~」

 ぶっかけ飯を持った小太郎は、微妙な表情で物置へと帰り、晩めしを食い始めた。今晩も残り物のみの献立だが、料理上手な女主人の汁ご飯は美味かった。ただし、めしの半分は迷惑な居候である犬に分け与えなければならないので、目方がだいぶ減ることになった。それでも食事の満足を得ることはできた。最後に残していたタクアンの切れ端をボリボリと噛みしめながら、ため息混じりに呟いた。

「ん~、なんか~、やだな~、ん~」

 銭湯に行く日はとくに決まっていない。藤原夫人の気分次第で紙切れを渡される。広い湯船で誰の顔色をうかがうわけでもなく伸び伸びと温まれるので、本来は大好きなのだが、最近はできれば行きたくないという心情になっていた。

「お~まえ~、いく~」

 腹を満たしてうずくまっている犬に向かって、入浴無料券を差し出した。少しニオイを嗅ぐと、それは興味なさそうに下を向いた。

「んん~、やだ~な~」

 藤原夫人の言いつけは絶対であり、よほど体調が悪い時でないと断れない。風呂に入らずに臭いままでいると怒られるし、学校でも露骨に嫌がられてイジメの的になってしまう。犬ではなくて、小太郎自身が行かなければならないのだ。  

 鈴木商店というブランドネームの入った汚い手ぬぐいと、すり減った石鹸をもって近所の銭湯へと向かった。ちなみに、石鹸は小学校の水飲み場にあったものを無許可で持ってきた。

 平塚湯というのが、小太郎が通っている銭湯である。造りは古く、建物のわきには建築廃材が山のように積まれていた。それらを用いて、ボイラーで湯を沸かしていた。

 番台のおばちゃんに無料入浴券を渡し、脱衣所で服を脱いだ。薄汚れた鈴木商店の手ぬぐいで股ぐらを隠しながら、おそるおそる風呂場へと入った。

「おう、ぼうず、きたか」

「んん~~~~」

 背中に般若の入れ墨をしたパンチパーマの男が声をかけてきた。彼は、もっとも入り口側の洗い場で体を洗おうとしていた。

「ちょうどいい。背中を流せや。あとでいいモン買ってやっからよ」

 大好きな入浴を避けたくなったのは、この男がいるためだった。

 二か月前に遭遇してしまったのだが、なぜか小太郎を気に入ってしまい、会うと必ず背中流しを強いていた。

 ヤクザという存在を詳しく知らない小太郎だが、背中に描かれた入れ墨が、とても禍々しいものであるとの直感を得ていた 逆らってはいけないと本能が察知していた。言われるままに背中を流すしか道はなかった。

「んん~、んん~、んん~」

 まだ湯船につかっていないのに、いきなりの重労働である。痩せた体が上下に忙しく動いていた。

「ぼうず、もっと力を入れろや。なにやってんだっ。撫でてるのか」

 少しでも手を抜こうとすると、気合の入った檄が飛ぶ。本職の叱咤は、恫喝かと思うほどに強烈なのだ。小太郎は思わず肩をすくめ、一生懸命にゴシゴシする。

「どうれ」

 頃合いを見計らって、入れ墨男は洗面器いっぱいのお湯を勢いよく自分の体にぶっかけた。石鹸を洗い流そうと、何度も何度も叩きつける。

「うひぇ」

 たいして熱くないお湯だが、大量の飛沫がまだ温まっていない小太郎にぶつかって、かえって冷たく感じた。さらに他人の汚れた泡混じりなので、ヌルヌルとした感触が気持ち悪く、身もだえる小太郎であった。

「ぼうずのちんぽ小さいなあ。でっかくねえと、女にもてねえぞ」

 そう言って、入れ墨男が小太郎の性器を握った。ヤクザなりのスキンシップのつもりなのだが、小太郎はこれをされるのがイヤでたまらない。力を抜いているとはいえ、もっとも神聖不可侵な個所を無遠慮に掴まれるのは、あらゆる意味で不快なのだ。

「ああー、うう~」

 老女のようなへっぴり腰となって、酸っぱい梅干を噛みしめたような表情だった。

「よーし、あったまってこいや」

 入れ墨男は、小太郎の尻をパーンと叩いた。右の尻ほっぺが手形状に赤くなる。やっと解放された小太郎は、半べそをかきながらお湯に浸かった。ここ最近、こういうパターンが続いていた。

 入れ墨男が絡んでくるので、せっかくの、そして唯一の極楽である入浴タイムが負担になってしまっていた。遭遇したくないので少し時間をずらしたりしたが、なぜかぴったりと遭ってしまうのだ。ヤクザは毎日来ているらしく、違う日に来ても無駄である。そもそも藤原夫人が、今日行けと言ったらその日に行かなければならない。この難事を避ける手段はなかった。

 小太郎は落ち着かない入浴をそそくさと終えて、脱衣所に急いだ。濡れた体を濡れた手ぬぐいで拭く。バスタオルと違って、鈴木商店のそれは水気をあまり吸ってくれなかった。

「おう、もうあがってたのか」

 ヤクザも上がってきた。小太郎を見つけてまた尻を叩くと、上機嫌で鼻歌など奏でている。般若な彼は、全裸のまま飲み物が売られている冷蔵庫から、瓶入りの牛乳を二本買った。それらをもって小太郎のもとへ近づき、ドスの効いた声で話しかける。

「ぼうず、しっかり勉強してるのか。男はなあ、勉強ばかりじゃダメなんだ。ナメたヤツはぶっ潰してやるんだぜ」

 ビン牛乳の紙蓋を乱暴に押し込んで、ゴクゴクと美味そうに飲み干した。二本あるが、小太郎に分け与えることはなかった。すべて自分で飲んでしまうのが常だった。

「もう帰るのか。また来いよ」

 濡れている体に下着が貼りついて、あまりいい気分ではなかったが、その男と一緒にいるよりはマシである。下を向いたまま、黙って銭湯から出ていった。

 小太郎の帰り道は急ぎ足であった。あの入れ墨男が追ってくるわけはないのだが、万が一という可能性を考えていた。もたもたしていたら、どこかに連れていかれてしまうのではないかと不安であった。

 公園の水飲み場までやってきた。細長い息を切らして、辺りをキョロキョロと見た。水銀灯に照らされた薄暗い公園内には誰もいない。もちろん、あのヤクザが追ってくることもなかった。

「ん~」

 一安心した小太郎は、湯上り後の一杯を楽しむために蛇口をひねった。暗がりの底にジョボジョボと流れ落ちる水塊に顔をくっ付けて、のどを鳴らして飲んだ。その小さな口では拾いきれない水流が足元で撥ねて、安い紐なしズックと裸足を濡らしていたが、小太郎は気にしていなかった。

「さ~むい~」

 失った水分以上を補給したので、腹の底が冷えてしまった。夜の肌寒さにぶるぶると震えながら急ぎ足で家路についた。


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