第8話

 今日の給食はパンの残りが多かった。

 休みの児童がけっこういたのと、ひときわ不味いコッペパンだったために遠慮されてしまったのだ。

「い~ち、にい~い、さ~ん~、しい~~い、ご~、ろっく~~、ひひ~」

 だが、小太郎はニンマリ顔である。カバンの中に収められた残り物のコッペパンを、さも嬉しそうに数えていた。これでしばらくは朝食抜きになることはないと、喜びと安堵が入り混じった笑みが気持ち悪かった。隣の席の女子が、さもイヤそうな顔で見ている。

「ふふふ、んん~んん~」

 小太郎の機嫌は最高に良かった。じつはパンのほかにチーズも余っていて、三角形の美味しいヤツが三つも手に入ったからだ。チーズは他の児童にも人気品なので、いつもならクラスの上位グループに属する男子たちが奪ってしまうのだが、なんの偶然か、今日は彼らが揃って風邪をひいてしまって休みだった。結果、チーズの余りの半分は小太郎の懐に収まったのだ。

 帰りのホームルームが終わって下校時間となった。小太郎は図書室に寄ることなく家路についた。たくさんのパンとチーズを手に入れたので、それらの一つずつを、おやつとして公園で食べていこうと思ったのだ。

 まずは水飲み場で、水筒をたっぷりと満たした。相変わらず上機嫌に笑みを浮かべながら、カバンの中からコッペパンを取り出した。

「ち~ずは、んん~、どう~しよ~かな~」

 チーズは貴重品である。数は三つだけなので、おやつとして食べてしまうには惜しいと思った。朝食時にコッペパンのおかずとしたほうが、その朝は有利になる。

「んん~、んん~、うう」

 塗装の禿げた汚いベンチに座りながら、しばし逡巡する小太郎だったが、いまそこにある欲望に抗えるはずもなく、結局食べることにした。

 ラップのようなビニール袋を破って、コッペパンを取り出した。続いてチーズの銀紙包装をゆっくりと外して、しっかりと弾力のある臭いそれを愛おしそうに見つめる。もうすぐ晩めしのくせにこんなぜいたくをしてよいのかと、困窮に慣れきった精神が、嬉しそうに問いただしていた。

「ん?」

 小太郎が粉っぽいコッペパンに最初の歯型を刻もうとした時、足首に生温かな感触がぶつかっていることに気がついた。

「あ~れ~、なんだ~」

 ふと下を見ると、一匹の犬がいた。いつのまにベンチの後ろから近づいたのだろうか、黒白模様の子犬がじゃれついていた。 

 この当時、野良犬は珍しくなかった。町はずれや廃工場などには、群れをつくって野犬化していることもあった。

 その子犬は、なかなかに人なつっこかった。しっぽを千切れんばかりにふりふりして、なにかしかの欲望をアピールしていた。

「ああ~、んん~」

 小太郎は、せっかくのおやつ時間を邪魔されたくなかった。コッペパンを持った手を振ってシッシとやるが、子犬はその手にしたモノの匂いを目ざとく嗅ぎつけ、余計にしっぽを振った。さらに足首にまとわりつき、調子にのってアマガミさえする始末だ。

「ちょっと~、じゃ~ま~、んー」

 コッペパンにつられているとわかったので、もう一方の手でシッシとやったが、これが大失敗となった。

「ああーっ、ちょっと~、だめええ」

 その手にはチーズがあったのだが、振りおろしたさいに絶妙のタイミングで子犬が飛びつき、それをくわえて食べてしまった。

「ああああー、ああ~、ああ~、んんんん~、このー」

 少年の絶望が果てしなく響く。せっかく楽しみにしていた三時のおやつを、小さな畜生ごときに食べられてしまったのだ。がっくりと肩を落としていると、その不幸につけ込む小悪魔は、さらに容赦のない仕打ちをする。

「あっ、な、な、なにすんの~、ああ、ああ、んんん~」

 なんと、落胆のあまりだらりと垂らしてしまった手から、コッペパンまで奪ってしまったのだ。  

 見た目は可愛らしい子犬であるが、食い意地には野生の本能が即座に充填される。まるで親の仇のように唸りながら、その粉っぽいパンを地面にこすり付け、そして食べ始めた。

「だめ~、だめ~だって~~~。やめて~」

 小太郎は、ようやく三分の一ほど奪い返した。もたもたしていて再び食べられてはならずと、急いで口に運ぶ。

「にが~い~」

 地面の土が付着したパン片は、じゃりじゃりとひどい口当たりであったが、それほど苦くはなかった。ただ、砂と土を噛みしめた食感を表現するには、苦みを強調するのが妥当なのだ

 おやつの時間は散々なものとなった。悲しみにくれながら、小太郎が公園を後にする。

 しかし、困った問題が起こった。とぼとぼと歩いていると、あの子犬がついて来るのだ。いくら追い払っても、石をぶつける振りをしても臆することはない。かえって喜んでしまい、足首に飛び掛かってきた。

「あっち~へ~、いけ~ってさ~」

 小太郎は気弱で臆病な性格である 相手が子犬であっても、居丈高になれなかった。

「ん~」

 だから走った。小さな犬から逃げるように全力で突っ走る。途中、なんどか振り返ったが、あの食いしん坊な子犬の姿は見えなかった。念のため、もうしばらく走ってから追ってこないと確信して、走るのを止めた。それでも多少急ぎ足で帰った。

 物置の家に戻った小太郎は、さっそくカバンからコッペパンとチーズを取り出した。さっき子犬に食われてしまったので、仕切り直しておやつの時間にしようかと考えたが、やっぱり朝食にとっておくことにした。楽しみは後にとっておいたほうが、喜びが大きい。

 ベッドに横になりニヤニヤしながらチーズなどを愛でていると、突然、犬がキャンと吠えた。

「ええ~、なして~」

 ビックリして扉を開けると、さっきの子犬がいるではないか。行儀よく座って、小首を傾げながらしっぽを振っていた。

「うわあ~、んん~」

 驚いた小太郎が目を白黒に点滅させていると、子犬が勝手に入ってきてしまった。すぐに追い出そうとするが、ベッド下の狭い空間の、さらに奥へと潜り込んでしまって出てこない。

「ちょっとう~、なして~」

 日々町中をうろついている宿無しの野良犬にとって、そこは適度に狭く安心できる圧迫感があって居心地が良かった。雨風をしのげてカラスや他の野犬たちを気にせずに済む、格好な寝床を手に入れたわけだ。

「ほ~ら~、でて~おいで~、おいで~」

 自分の家に侵入者がいるのを放ってはおけない。しかも、それは存外に食いしん坊だ。小太郎はベッド下の隘路に潜って子犬を出そうとするが、それはもっとも奥まった箇所で巻貝のようにジッとしている。非力でへっぴり腰な小太郎に引っぱり出すのは無理そうである。

「で~て、おいで~。パン~だよう」

 小太郎は作戦を考えた。パンをエサにしておびき出そうという魂胆である。大事なコッペパンを千切って、ベットの下に点々と置いた。食べ物につられて子犬が出てくると思いきや、彼は小利口だった。それを穴の奥から興味なさそうに見つめるだけで、犬らしい積極性を発揮しようとはしなかった。しょうがないので、一度床に置いたそれを小太郎が食った。

「んん~、ちーず~」

 パンで釣れなければ、今度はチーズである。目の中に入れても痛くないほど貴重なそれは、エサとしてはもったいなさすぎなので、子犬に食われる前に回収するつもりだ。包装紙の銀紙を剥いて、ほらほらと見せびらかしていた。

「あ、ああ~、ああ~」

 小太郎は野良犬の野生を甘く見ていた。子犬は、目にもとまらぬ早業でチーズをくわえて食べてしまった。しかも、相変わらずベッドの下からは出ようとしない。無駄骨を折っただけであった。

「もう~、知らない~」

 これ以上の追跡をあきらめ、そのうち出てくるだろうと不貞寝を決め込んだ。ブツブツ独り言をいって憂さを晴らそうとする。階下では、子犬がのん気にあくびをしていた。

「メシー」

 晩めしの時間になった。藤原夫人の刺すような声が飛んでくると、小太郎はいつものアルミボウルを持って馳せ参じる。今日の献立は、冷や飯の上にタクアンがふた切れ、ザンギが二つだった。

「あり~がと~、へへへ、ザンキ、ん~」

 ザンギとは醤油とニンニク、ショウガなどで濃い下味をつけた鶏肉の唐揚げである。料理上手な藤原夫人のそれは絶品であり、小太郎の大好物であった。

「ふふ~んん~んん~」

 少年は、鼻歌混じりに物置へと帰っていく。中に入ると水筒の水を用意して、さっそく豪華なディナーと洒落こもうとした。

「ええ~、なん~だよ~、んん~」

 アルミボウルをもってベッドに腰かけ、これから飯をかっこもうとした時、足の下からあの子犬がでてきた。キャンとひと吠えすると、しっぽを千切れるばかりに振った。

「だ~め~、あげない~よ~」

 子犬はエサが欲しくて、小太郎の足首にじゃれつき始めた。ザンギめしの美味そうな匂いに誘われたのだ。

 この子犬には、パンもチーズも食べられてしまった。少しばかり憎たらしいと思っていたが、クンクンと無邪気に懐いてくる姿に、小太郎の心はほっこりと和んでしまった。さらに野良犬で常に腹をすかせた境遇が自分と重なるところがあり、シンパシーを感じた。だから、この食事を一緒に食べることにした。 

「すこし~、だけだよ~」

 だが、さすがに珠玉のおかずであるザンギを分け与えるのは躊躇われた。子犬の分は、ザンギの油が滲み落ちた冷や飯だけで充分であると考え、よってザンギの下にあるごはんを箸で掬って床に置こうとした。

「うわ~」

 その時、ご馳走にありつけると喜んだ子犬がジャンプし、鼻先でアルミボウルを突き上げてしまった。食器は一回転半して着地した。もちろん、中身のすべてを床にぶちまけてである。

「あわわあわ~、んん~」

 大事な晩めしがまき散らされてしまった。これは一大事である。

 小太郎は、すぐに四つん這いになって食い始めた。手で拾って容器に入れている余裕はない。子犬がすでに食らいついているからだ。気が焦ってしまい、常識的な判断ができないでいる。とにかく犬に負けないように犬のように食う姿は、もう、どっちが犬だかわからない状態だった。

 勝負という観点から見れば、小太郎の負けであった。なぜなら、藤原夫人自慢のザンギは、二つとも子犬が食ってしまったからだ。

 床にぶちまけられた飯のうち、その約半分とタクアンを回収したが、ザンギは逃してしまった。小太郎は中途半端にしか腹を満たせなかったやるせなさと、ザンギを盗られてしまったことに対する怒りで、珍しく大きな声をあげた。

「どーするのー、なんーなのー、もー、もー、あーっ」

 叱られていると感じた子犬が、ベッド下に逃げ込んだ。天敵の侵入を許さない一番奥の位置で、ジッと息を潜んで突風が過ぎ去るのを待っていた。

 どうにも気持ちの荒ぶりを抑えられない小太郎は、それでもアルミボウルをちゃちゃっと洗い、雑巾で床の汚れを拭いた。その作業をしている間、ずっと恨みの言葉を吐きだし続けた。子犬は得もいわれぬストレスを受けながら、暗がりの中で小さな目を光らせていた。

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