参院選の終わりに

鶴崎 和明(つるさき かずあき)

夏真昼 銃火に負けぬ 票一つ

 思い返してみると、私は自己表現が苦手な子供であった。


 日記や作文は苦手であり、絵を描けば笑われてしまい、楽器を弾くこともできない。

 持病による影響もあったのだが、運動神経はどこにあるのだろうかという有様で、だからこそ小学生の頃の私はどこか暗いものを抱えていた。

 それが中学生になりそれでも良いと踏ん切りをつけ、高校で文芸に出会い、自分を表現する方法を手にすることができた。

 物書きとして上手かと言われれば「はてな」が浮き出てくるのだが、それは一生の精進で改めるしかない。


 視覚的な自己表現も動画作成を始めてから手にすることができた。

 人気があるか、技術力があるかと問われればこれまた穴を探して隠れたくなるが、それでも細々と続けているのは一人でも見て下さる方がいるからである。

 自己表現というのは、自分や自分の思ったことを他の方に知ってもらうということであり、その手段があるというのは幸せなことだ。

 会社にはそれを仕事に求めよと言われてしまいそうであるが、なに、その方法はいくらあっても困るものではない。


 いつもより長く感じられた参院選がいよいよ終わりを告げた。

 この原稿を書きながらその結果を追いかけているのだが、単純に数字と名前を眺めているだけで感慨深いものがある。

 積み増されていく一票にどのような思いがあり、どのような生活があるのか。

 それを受けた候補はそれをどのように体現していくのか。

 単なる数字ではないからこそ、その奥にあるものを想像するのは楽しい。


 言ってしまえば、選挙もまた自己表現の一つなのだと思う。

 ある人はこの先の生活をどのようにしたいかを考え、ある人は今の生活への不満を固め、ある人は過去への反省を行い、投票する。

 それが投票用紙に書かれたものであり、開票されていくことによって世界中に発信されていく。

 これほど大きな表現方法などなかなかないのだが、利用されない方もいるようでこれには驚くしかない。


 そのようなことを思うのがいつもの選挙なのだが、今回はその最中に安倍元首相が銃撃され命を落とすという大事件が起きた。

 それについての思いは別の話で書いたためここでは今回の参院選への思いを書くのだが、投票率が伸びそうだという報道にほっとしたというのが正直なところである。


 民選議員がその任期中に殺されたというのは政治的な意味も大きいが、何よりその人に託された多くの思いが奪われたという点が大きい。

 その裏にあるものは分からないが、少なくとも一人の手によって多くの思いがなかったことにされるというのは、表現をする者にとってこの上なく恐ろしいことだ。

 民主主義への挑戦や冒涜という言葉が翌日の新聞には並んだが、これほど鋭く新聞が反応したのは自己表現が暴力によって塗り替えられてしまうという危うさを感じていたからである。

 読売新聞の「卑劣な言論封殺 許されぬ」という言葉が、最も短くこれを表していた。

 民主主義と表現の自由は常に一つのものであり、その先にあるのが私たちの生活である。


 だからこそ、投票という形で自己表現が行われたというのは、何よりの弔いになったのではないだろうか。

 安倍氏の所属政党などに投票することが大切という声もありそうだが、あくまでも民選議員という立場で見た場合にはその在り方が続くことの方がより大切である。

 むしろ、一人一人の思いよりも故人への配慮が優先されるのであれば、それもまた暴力による自己表現の塗り替えでしかない。

 個人ごとに気に入る候補と気に入らない候補はあるのだろうが、そして私自身もあるのだが、それを飲み込んで認めることが本当の自由である。

 考え方の違いを言葉でぶつけ合うことはしても、その存在を否定することはできない。


 間もなく全ての議席が確定するが、与野党ともに当選者が出ており、どうやらまだこの国は健康であるようだ。

 そして、安倍氏の通夜が本日営まれるという。

 私は焼香には伺えないが、投票に行くことはできた。

 この意志のある限り、一枚の紙に私の思いを映し続けよう。

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参院選の終わりに 鶴崎 和明(つるさき かずあき) @Kazuaki_Tsuru

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