アルストロメリア
碧川亜理沙
アルストロメリア
それは瞬く間に過ぎていったくせに、心の中にずっと居着いてしまうくらい、忘れられない存在となっていた。
彼と出会う前と同じひとりになった部屋は、静かで、少しだけもの悲しい。
彼がいたという痕跡はもうなくなってしまっているけれども、1枚だけ共に映った写真が、唯一存在を感じさせている。
「
名前を呼んでも、もう返事をしてくれる人はいない。
あの何を考えているのか分からないような笑みも、子どものようにはしゃぐ姿も、時折全てを突き放したような冷たい顔も。
もう、見ることはない。
頬を伝う涙は、何を思って流れたものか。
遥はそっと、まぶたを閉じた。
* * * * *
「何描いてんの?」
真白とはじめて話をしたのは、ゴールデンウィークが明け少し気だるげなとある日、選択授業の時だった。
ちょうど真白が転校してきた日で、中庭の少し木陰になったところに座っていたところ声をかけられた。
見上げると、人懐っこい笑みを浮かべて立っている真白がいた。エキゾチックな顔立ち、スラリとした姿、さらさらと切りそろえられた髪が風に揺れている。
彼が立っているところだけ、まるで異国にでもいるような、そんな錯覚を覚える出会いだった。
「……あの桜の木」
「あ、あれ桜なんだ。ピンクじゃないと、分かんないな」
真白はスケッチブックもペンも何も持っていなかった。
2年生の中では浮きそうなくらい真新しい制服に土がつくのも厭わず、真白は遥の隣に腰をおろした。
「……君は描かないの?」
「まだどの授業受けるか決めてないからね。美術選択することにしたら描くよ」
今日は見て回るだけなので描かないのだと言った。
「てか、名前教えてよ。俺、あんたの名前知らない」
唐突に真白は尋ねた。
「遥」とだけ答え、視線はスケッチブックに注いでいた。遥にしてみれば、この時間は他人と話すよりも、静かに絵を描いていたかった。
「遥……遥、ね」
妙に噛み締めるように名前を呼ぶものだから、思わず遥は視線を向ける。
「うん、覚えた。よろしく、遥」
その時の、真白の表情は今も覚えている。
目を細めて、口元は綺麗に弧を描いて。
その時遥は、人に向かって「美しい」という言葉はこういう時に言うんだろうなと思った。
この時はまだ、真白との関係はただのクラスメイトで終わるのだと思っていた。
「あれ、遥だ」
授業が終わり、図書室で放課後を過ごして寮へと帰宅した遥。
自室へ向かう前に、寮母さんに呼び止められたと思ったら、何と、そこに大きめのボストンバッグを抱えた真白がいた。
「遥くん、真白くんのこと頼んだよ。新しいシーツとかは、部屋の前の籠に入れてあるからね」
口を挟むまもなく説明され、「よろしくね」とだけ言い残し、寮母さんは奥へと引っ込んだ。
残された遥と真白。遥は突然の同室者に心の準備ができていなかった。
この学生寮は、基本2人1部屋となっている。ベッドと机とクローゼット。部屋には基本これしかない。トイレやお風呂などは共同だ。
新年度に入り、新入生も入ったことで、つい1ヶ月ほど前に新たな部屋割りになったばかりだった。
運良く1人余ったため、遥は現在2人1部屋の部屋を1人で使っていた。
そこに突然、なんの前触れもなく増えるというのだから、遥にとってはあまり喜ばしいことではなかった。
「こっち側でいい? 反対側、もう使ってたから」
真白を部屋に案内し、軽く自室を説明する。
「就寝自体は22時だけど、俺たまに勉強とかしてるかも。眩しかったら、カーテンで真ん中し切れるようになってるから言って」
テキパキと説明をしている遥を、真白は時折頷きながら、静かに聞いていた。
一通り説明終わり、そこで遥は部屋に入ってから改めて真白を見た。
真白は部屋の中を見回していてその視線に気づいていないようだったけれど、これから最低でも来年の3月まで、彼と同室でやっていけるのかと一抹の不安を覚えていた。
遥の心配は無用となった。
真白と出会って数日、彼と過ごすことは、遥にとってわり心地よいものであった。
必要以上にお互い干渉し合わないからかもしれない。
気付けば、寮以外でも、真白と行動を共にすることが多くなった。
行動を共に取るようになり、遥は真白のことをどんどん知っていった。
兄弟がいること。
生まれも育ちも日本ということ。
家は割と裕福なこと。
甘いものが好きだということ。
部屋では、些細なことでもよく笑っていること……。
そして、一緒にいるようになって気づいたのが、遥と接する時とクラスメイトと接する時の表情が異なっていたこと。
おそらく、遥しか気付いていないのだろう。
クラスメイトと話す時は、傍から見れば特に違和感などない、普通に笑って普通に話しているだけ。
でも遥と一緒にいる時のような柔らかさが感じられなかった。
1度、その事について聞いてみたことがある。
「だって、遥といる時のほうが楽しいでしょ?」
さも当たり前のように答えられ、返答に困ったことは記憶に新しい。
遥自身は、平凡で、クラスでも特に目立つ訳でもない、どちらかと言えば大人しめの部類に入っていると思っていた。
だけど、真白からみた遥という人間は、他のクラスメイトよりも接しやすい、馴染みやすいのだと言う。
「俺、好きだと思った人以外に優しくするほど、善人ではないよ」
多分、それは独り言だったのかもしれない。
思わず声をかけそうになったけれど、あの時の真白の表情をみて、遥は結局、声をかけることはできなかった。
真白はいったい、何を考えているのか。
それはいつも遥の中に漂っている問だった。
──代わり映えのない、だけど去年よりは楽しい日々を過ごしていたある日。
気付けば、数日後には夏休みが待っていた。
「ねぇ、遥。遥は夏休み、どうするの?」
寮の自室で勉強していたところ、後ろから真白が問いかけてきた。
「どうって……部活して、宿題して……かな」
「遊びには行かないの?」
「……行く相手いないし」
そう言って、今の言葉は余計だったかなと思った。
勉強の手を止め、椅子ごとくるりと振り向くと、ベッドで横になって本を読んでいる真白の姿。
「真白は? 夏休みの予定、決まってるの?」
「んー……宿題して、寮でゴロゴロして?」
遥とあまり変わらないような回答が返ってきた。
「あ、でも、お盆になったら、いったん家に帰るかな」
その言葉に、真白は視線を遥に向ける。
「実家、帰るの?」
「まぁ、1週間くらいは帰ることになるかな……。そういう真白も、だよ」
「俺?」
遥たちが暮らしている学生寮は、夏のお盆の時期と冬の年末年始、それぞれ約1週間ほど全員が一時帰宅することになっている。
正直、遥はこの一時帰宅が結構億劫だった。できることなら、寮に居残っていたいが、皆余程の理由がない限り帰宅することになっているため、いつもギリギリになってから帰宅することにしている。
「ふーん……じゃあ、俺もその頃帰ろうかなぁ」
遥の説明を受け、真白は少し考えてそう言った。
「いいの? 別にその前に帰っても全然いいんだけど」
「なーに。遥、俺に早く実家帰って欲しいの?」
「違くて! ……真白の親とか、早く帰ってきて欲しいとか思ってるかもしれないじゃんって思って」
「それはないよ」
ぴしゃり、あまりにも冷たい声だったので、遥は一瞬返答が遅れた。
「……じゃあ、帰る日決めたら教えるから。真白も決まったら教えてくれると嬉しい」
「オッケー」
少し気まずい空気を残したまま、遥は机へと向き直った。
──おそらく、少しずつ、真白の変化はあったのだと、後になって思い返す。
夏休みに入り、実に平凡な毎日を過ごしていた。
週に3回、日中は部活に行って、あとは寮で宿題をしたり本を読んだり真白とくだらない話をしたり。
今までで1番真白と一緒に過ごす時間が長かったと思う。丸一日、一緒にいる日もあった。
──だから、真白のほんの少しの変化に気づいていながら、それを見知らぬ振りをしてしまっていた。
「……真白、行ってくるね」
8月の2週目。遥は今日、実家に帰ることにした。
「行ってらっしゃい。来週の木曜日には帰ってくるんだっけ?」
「寮が再開するの、その日からだから」
ちなみに、真白は明日、実家に帰ることになっていた。
「……なんかここ最近、毎日真白と一緒にいたから、離れるのがすごく違和感あるような気がする」
「あー、夏休み入って遥の部活ない日は、俺と一緒にずっと部屋籠ってるからね」
「俺も、遥帰っちゃったらそう思いそう」と、真白は困ったように笑った。
遥も笑いながら、自分が思ったよりも、遥との同室を楽しんでいたのだなと改めて気付かされた。
「でも、来週には戻ってくるんだから、少しの辛抱だよね」
「…………そう、だね」
──あの時の真白の表情を、声を、態度を、もっと気にかけていればよかった。
「真白?」
困った表情のままの、歯切れの悪い真白の顔をのぞき込む。
「どうかした?」
具合でも悪いのかと、額に手を当ててみるも、特に熱がありそうな訳でもない。温かい、真白の体温が手のひらに伝わってくるだけ。
「……何でもない」
そっと遥の手を額から離す。
少しだけ、手が離れる寸前に、ギュッと、真白が遥の手を包み込むように握った。
「じゃ、気をつけて帰るんだよ」
さっきまでの雰囲気が嘘のように、いつもの笑顔で手を振る真白。
遥は何かをいいかけて、止めた。
真白の様子が少しおかしいと感じたけれど、もうすっかりいつも通り、普段の真白に戻っていたため、それ以上聞くのははばかられた。
「……うん。じゃあ、行ってきます」
後ろ髪ひかれる思いを残しながら、真白は寮を出た。
──さようなら。
ぽつり哀しく、その場にこぼされた言葉は、誰に届くでもなく、虚しく消えていった。
そして、その日を境に、もう2度と、真白に会うことはなかった。
* * * * *
『真白くんが、亡くなったって』
それを聞いたのは、遥が寮に帰ってきてから3日後のことだった。
『真白は昔から自傷癖があって……。
前の学校で、1度自殺未遂をしてしまってね。それがあったから転校したの。
転校してからは余り連絡取ることなかったんだけど、落ち着いてるって聞いて安心した矢先のことで……』
葬儀に参列した時に、真白の母だと言う人が泣きながら言っていたのが耳に入った。
真白の姿は見ることは出来なかった。
真白が目の前の棺の中に眠っているということすら、嘘なのではないかと思う。
現実味がないまま時間だけが過ぎていき、9月に入ろうかという頃になり、ようやく遥は、真白がもういないということを実感した。
寮の自室で、ひとりぼうっと部屋を眺める。
つい数週間前まで一緒に話したりしていたはずなのに、この部屋には、もう真白がいたという痕跡がなくなっていた。
一緒に過ごした時間は、まるで夢だったのではないかと疑うくらい、あまりにも真白がいなかった。
それなのに、遥の中には、たくさんの真白が居座っていた。
たった3ヶ月ほど、短いともとれる時間だけれども、遥にとっては今までで1番大切なものとなっていた。
だからその分、後悔もある。
真白の異常さ、真白に潜む危うさに気付いていた。気付いていながら、見て見ぬふりをしていた。
楽観視していた、とは違う。
遥は結局、行き着く先がどうなろうと、真白と共にいれればそれでいいと思っていた。
思っていた結果が、これだ。
真白が遥と過ごしていた時間をどう感じていたのかを知るすべは、もうない。
語り合ったあの言葉たちが、どこまで彼の本心だったのか。
残される相手のことを、遥のことを、真白は少しでも考えてくれたのか。
「……真白」
名を呼んでも、答えてくれる声はない。
遥の内にできた後悔は、ずっと遥の中に残り続ける。
真白と共に。
「……真白」
気付けば、頬に温かい涙が伝っていた。
そこで遥は、ようやく自分が泣いていることに気が付いた。
真白が死んだと聞いた時も、葬式で最期の別れを告げた時も、真白の荷物をまとめた時も、涙は出なかった。
「ま、しろ……っ」
大声で、感情の溢れるまま、真白の名前を呼ぶ。
遥の心の叫びだけが、誰もいない、がらんとした部屋に虚しく響いた。
* * * * *
これが、これからの遥の人生を変えてしまうほどのきっかけを与えてしまった、真白という男との出会いと永遠の別れの話である。
-完-
アルストロメリア 碧川亜理沙 @blackboy2607
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