後編
いつもどおり、自室の窓からアルフレッドがやってくるのを心待ちにしていたセリスは、見慣れない壮年の郵便配達人が館の傍を走り抜けていくのを見て、眉をひそめる。
今のように、アルフレッド以外の郵便配達人が館の傍を走り抜けていくことはそう珍しい話ではない。
しかし、なぜか嫌な予感がしたセリスは窓から身を乗り出し、壮年配達人がどこへ向かうのを注視する。
曲がり角に差し掛かった壮年配達人が、館の正門側へ曲がるのを目の当たりにしたところで、まさかと思いながらも慌てて玄関広間へ向かった。
ほどなくして、ドアノッカーを叩く音が響き渡る。
玄関扉を開けると、案の定、先程目にした壮年配達人がセリスを出迎えた。
「公爵様へのお手紙を、お届けに参りました」
ベテランなのか、少しの緊張も感じさせない声音で定型句を述べ、手紙の束を差し出してくる。
「ご、ご苦労様です……」
手紙の束を受け取ったセリスは、ドレスのポケットに入れているアルフレッドへの手紙を手に取るも、すぐに思い直し、友人への手紙のみを壮年配達人に渡した。
公爵令嬢と文通していることが
それゆえの判断だった。
壮年配達人が立ち去ったところで、深々とため息をつく。
文通していることもあって、アルフレッドの休養日は把握している。
だから、たぶん、ちょっと風邪を引いて休んでいるだけだろうと、自分に言い聞かせる。
そんな言葉では払拭しきれない、暗雲にも似た予感を胸の内に抱えながら。
踵を返し、トボトボと自室へ戻る。
その途上だった。
背後から突然、父――ボラードが衝撃的な言葉を投げかけてきたのは。
「あの少年は、もう
あまりにも聞き捨てならない言葉に、セリスは即座に振り返り、父親を睨みつける。
「まさか、お父様の仕業ですの!?」
「そのとおりだ。いつまでもあんな戯れを続けていては、お前のためにも、あの少年のためにもならないからな」
「それは、わたくしが貴族で、アルフレッドが平民だからですか」
ボラードは、微塵の迷いもなく首肯を返す。
「貴族社会は身分が物を言う。公爵家の令嬢が平民の子と一緒になることが、権威の失墜に繋がる恐れすらあるほどにな。ゆえに、アルフレッドなる少年がどれほど
「そ、それはそうかもしれませんが……友人として文通することも許されませんの!?」
「友人か……。アルフレッド少年を見る限り、向こうは友人程度の間柄で満足しているようには見えないが?」
全くもってその通りなので、セリスは口ごもってしまう。
「お前が喜々として文通を続けているということは、アルフレッド少年の想いが、こちらの身分に目が眩んだものではない、純粋な想いであることは認めてやろう。だが、だからこそ言わせてもらう。アルフレッド少年のことを想うなら、下手に希望をちらつかせるような真似をするのはやめなさい。文通を続ければ続けるほど、アルフレッド少年が傷つくのは目に見えているからな」
この言葉もまた、正しすぎるほどに正しかった。
どれだけ文通を続けても、どれだけ心を通わせても、セリスはアルフレッドと一緒にはなれない。
セリスが貴族で、アルフレッドが平民である限りは――と思ったところで、不意に閃く。
「そうですわ! アルフレッドをマルシニアス家の養子として迎え入れ――」
「却下だ」
こちらの言葉を遮ってまで、ボラードは一蹴する。
「貴族が平民の男子を養子にするのは、あくまでも
どこまでも正しい言葉を吐き続けるボラードは、とどめとばかりに、セリスがあえて曖昧にしていた部分を問い質す。
「そもそもの話、お前はアルフレッド少年のことをどう想っているのだ?」
「そ、それは……」
返答に窮してしまう。
少なくとも、アルフレッドが自分にとってかけがえのない人間になりつつあることは確かだった。
しかしそれは、異性としてなのか、友人としてなのかはセリス自身にもわからなかった。
わからなかったから、答えを返すことができなかった。
「セリス……平民と親交を持つには、お前の
諭すような言葉を最後に、ボラードはセリスの前から立ち去っていく。
そんな父の背中を、セリスはただ見送ることしかできなかった。
◆ ◆ ◆
上司から担当区域の変更を言い渡された際、アルフレッドは特段驚いたりはしなかった。
相手が公爵家である以上、いつかはこんな日が来るとは思っていた。
セリスの父であるボラードが気を利かせてくれたのかどうかは定かではないが、担当区域の変更という処分だけで済んだだけでも御の字だった。
しかし、だからといってセリスのことを諦めたくはないけれど……現実問題、今の自分にはもうどうすることもできなかった。
「……はぁ……」
自然、深々とため息が漏れてしまう。
そのせいか、あるいは、担当区域が変わったことに慣れていなかったせいか。
配達に回る家は全て回ったはずなのに、鞄の中に一通手紙が残っていたことに、アルフレッドは頭を抱えた。
幸い、貴族のように定時の配達を希望している手合いではなかったので急ぐ必要はないが、だからといってのんびりしていたら日が暮れてしまいそうだったので、手早く配達を済ませるためにアルフレッドは走り出す。
その途上、偶然と呼ぶべきか。
あるいは、運命と呼ぶべきか。
アルフレッドは聞き捨てならない話を耳にすることとなる。
それは、セリスの父を目の敵にしている、サディライト公爵の館の傍を通りがかった時のことだった。
「しっかしボロい話だよなぁ」
館を囲う塀の向こうから、およそ貴族らしからぬガラの悪い声が聞こえてきて、思わず立ち止まってしまう。
「マルシニアスだっけ? とにかく、そこのお嬢様を
続けて聞こえてきた別の男の言葉に、アルフレッドは瞠目した。
「おい、お前たち。んな話をデカい声でしてんじゃねえよ。誰かに聞かれたらどうすんだ」
さらに別の男が窘めたところで、これ以上ここに留まるのは危険だと判断したアルフレッドは足音を殺しつつもその場から離れた。
いやにうるさい心臓の鼓動が
マルシニアスのお嬢様を攫うと言っていた。
向こう一〇年は遊んで暮らせる金が手に入ると言っていた。
その話を窘める人がいた。
そして、文通でセリスから聞いた話になるが、サディライト公爵家は、セリスの父であるボラードを何かと目の敵にしているとのことだった。
ここまでの要素が揃っている以上、冗談の類ではないことは、幼い自分でも理解することができた。
できたから、気がつけば、足がマルシニアス公爵の館へ向かっていた。
◆ ◆ ◆
ボラードが厳しめに釘を刺して以降、セリスは自室に籠もりっきりになっていた。
父親としては、このままそっとしておいてやりたいところだが、今夜開かれる社交パーティには王族も出席する。
正当な理由もなしに欠席するわけにはいかないので、心を鬼してセリスの部屋の扉を叩いた。
「セリス。わかっているとは思うが、今日は王族も出席するパーティが――」
「わかっています。今支度していますので、もう少々お待ちくださいまし」
常よりも険のある声音で返され、ため息をつく。
どうにもこれは、こちらが思っている以上に重症かもしれない。
「一〇分だけ待つ」
そう言って、セリスの部屋から離れようとした、その時だった。
玄関扉に穴を空けんばかりに激しい、ドアノッカーを叩く音が響き渡ったのは。
近くにいた使用人が玄関広間へ向かおうとするも、
「ぼくですッ!! アルフレッドですッ!! 開けてくださいボラード様ッ!!」
ドアノッカーを叩いた人間がアルフレッドであること。
セリスではなく自分を名指しで呼んでいることから、ボラードは使用人を制止し、何があってもセリスを部屋から出さないように言い含めてから、玄関広間へ向かって玄関扉を開ける。
走ってきたのか、アルフレッドは膝に両手をついて荒い呼吸を繰り返してから、ボラードに訊ねた。
「セリスさんは!?」
なるほど。
あえて
やはり、賢しい子だと思う。が、だからこそ、セリスの父としては少々気に入らなかった。
「君に教える義理はない」
「……ッ。だったら、僕の話だけでも聞いてください」
「話を聞く義理もない」
あえて突き放すように言う。
だがアルフレッド少年は、こちらの返事を無視して、ボラードを瞠目せしめる言葉を吐いた。
「サディライト公爵様が、荒くれ者を雇ってセリスさんを攫おうとしてるんですッ!!」
それは本当か!?――という言葉を、無理矢理にでも飲み込む。
確かにサディライト公爵ならば、それくらいのことをしてきても不思議ではない。
狙いとしては、荒くれ者どもを使ってセリスを傷物にすることで、社交界における公爵令嬢としての価値をなくそうとか、そんなところだろう。
今夜、王族も顔を出す社交パーティがあることを考えると、パーティ会場へ向かう道中など襲撃のタイミングとしては打ってつけだ。
しかし、そこまでわかっていてなお、アルフレッド少年がセリスに会いたいがためについた嘘だという線も捨てきれなかった。
セリスと文通している以上、こちらとサディライト公爵が犬猿の仲であることを知っていても、そうおかしい話ではない。
だからこそ、セリスの父として、マルシニアス公爵として、酷な言葉をぶつけるしかなかった。
「言いたいことはわかった。だが、今の話が事実であると、君は何をもって証明する?」
アルフレッド少年が、言葉に詰まる。
それもそうだろうと、ボラードは思う。
おそらくは郵便配達中、偶然そういう話を聞いたとか、そんなところだろう。
そこまでわかっているからこそ、彼の不確かすぎる情報を鵜呑みにするわけにはいかなかった。
わざとこちらに情報を握らせ、理由なく社交パーティを欠席させることで、マルシニアス家の評判を落とすという、サディライト公爵の策略である線も否定できないのだから。
「……証明はできません」
それが、アルフレッド少年が悩みに悩んで末に出した答えだった。
(開き直ったか。まあ、状況的にそれくらいしかできることがないと言えば、それまでだが)
そのことを、少しだけ残念に思っている自分がいることに内心驚く。
(娘が見込んだ少年だからこそ、覆すことを期待しているというのか、私は?)
そんな自問すらも覆すように、アルフレッド少年は、ボラードをして吃驚せしめる言葉を決然と紡いだ。
「ですが、もし僕の話が嘘だった場合は、僕の首を刎ねてくれて構いません」
「な、何を言っとるんだ君は!?」
「証明ができないなら、この命を賭けるしかない――そう思っただけです」
今度は、ボラードの方が言葉に詰まる番だった。
アルフレッド少年は、今確かに、こちらに向かって首を刎ねてくれても構わないと言った。
その言葉を証明すること――例えば証人が複数人いるとか――ができるのであれば、その言葉どおりに平民の首を刎ねる権限を持つ貴族に向かって。
だからこそ命を賭けるという言葉に嘘偽りはなく、だからこそボラードが受けた衝撃は大きかった。
そのせいか、つい、わかりきった問いをアルフレッド少年に投げかけてしまう。
「なぜ、そこまでする?」
「セリスさんが、ぼくの命よりも大切な人だからです」
予想どおりの答えが、予想以上の淀みなさで返ってくる。
年端も行かぬ子供にここまで男を見せられては、最早是非もなかった。
「……一つ訊くが、サディライト公爵が娘を襲うという話はどこで聞いた?」
「サディライト公爵様の館の傍を通りかかった際に、荒くれ者たちの会話からです」
「雇った連中をすでに敷地内に入れているということは、やはり今夜、セリスがパーティ会場へ向かっているところを襲わせる魂胆と見て間違いないか……」
ボラードの独り言じみた言葉を聞いた瞬間、アルフレッド少年の表情が雲間から顔を覗かせた太陽のように明るくなる。
なぜなら今の言葉は、アルフレッド少年の言葉を信じていなければ出てこないものだったから。
その表情に気づいたボラードは、「うぉっほん!」とわざとらしく咳払いをし、
「勘違いはしてくれるなよ。あくまでも娘の安全を第一に考えた上での判断だからな」
そんな言葉さえも嬉しいのか、アルフレッド少年は屈託のない笑顔で「はいッ!」と答えた。
「……後のことは、私が責任を持って取り計らっておく。君はもう帰りなさい」
一目でもいいからセリスの姿が見たいと思っているのか、この時ばかりは一瞬だけ表情を曇らせるも、賢しいがゆえにそのようなワガママを言うことはせず、素直に「はい」と返して、素直に館を出て行った。
その後ボラードは衛兵を集め、その中でもとりわけ腕が立つ者を選出し、セリスが乗るはずだった箱馬車に彼らを乗せて出発させた。
ボラードの推測どおりならば、これでサディライト公爵が雇った荒くれ者どもを返り討ちにした上で、生け捕ることができるはずだ。
全ての指示を終えたところで、ふと気づく。
自室に籠もっていたはずのセリスが、いつの間にか部屋を出て、こちらを――というか、アルフレッド少年が出ていった玄関扉をじっと見つめていることに。
その表情がどこか熱に浮かされているのを見て、ボラードは得たくもない確信を得てしまう。
セリスが、ボラードとアルフレッド少年のやり取りを全て聞いていたことを。
それによって、曖昧だったセリスの想いが、明確に定まってしまったことを。
セリスの父として、マルシニアス公爵家の当主として、思うところしかなかったボラードは、つい深々とため息をついてしまった。
◇ ◇ ◇
その後、ボラードの狙いどおりに荒くれ者どもを一網打尽にし、サディライト公爵に雇われたという証言まで得ることができたものの、肝心のサディライト公爵が知らぬ存ぜぬを貫き通したために罪に問うことはできなかった。
しかし、サディライト公爵の人柄を知る貴族たちは、公爵が荒くれ者どもを雇ってセリスを攫おうとしたことは事実だと認識しており、度が過ぎたやり口に貴族の多くが公爵に嫌悪感を抱いた結果、サディライト公爵家の権威は地に落ちることとなった。
そして――
セリスは、マルシニアス公爵家に挨拶に来た、緊張でガッチガチになっている
少年貴族は、元々は平民の出だが、セリスの友人である伯爵家が跡継ぎに恵まれていなかったこと、公爵令嬢誘拐を未然に防いだ功績、そして何よりセリスの父ボラードの推薦もあって伯爵家の養子として迎え入れられた。
ここまで語れば、最早言に及ばない。
少年貴族は、元々は郵便配達人だった少年――アルフレッドだった。
いまだガッチガチになっているアルフレッドに、セリスは笑みを優しげなものに変えつつも挨拶する。
「こんにちは。
「え? や……い、今のぼくは……伯爵家の長男で……」
「でも、手紙にはそう書いていましたわよね?」
指摘されたアルフレッドの頬に、朱が差し込む。
セリスと文通するためについた嘘を、このタイミングで蒸し返されるとは思っていなかったご様子だった。
「でも、問題ありませんわ」
そう言って、顔を近づけ……アルフレッドの額に口づけをする。
途端、アルフレッドは石像のように固まる。
顔は、耳まで真っ赤になっていた。
「だってあなたは公爵家長男でも伯爵家長男でもなく、わたくしの、たった一人の王子様ですもの」
そうして、アルフレッドが一五歳を迎えた頃に、二人は正式に婚約を結んだわけだが。
そこに至るまで、ボラードが散々モダモダしたことは、最早言に及ばなかった。
公爵令嬢と小さな郵便配達人 亜逸 @assyukushoot
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