星売りの子

松竹梅

星売りの子

 雨に濡れた土の匂いが鼻をくすぐる。じわり、じわりと、脳にしみわたるようにゆっくりと空気を吸い込む。やたら甘くて、じめっとして、気持ち悪い。命の匂いだ。


 小さな丘の上。視界を遮るもののないゆるやかな斜面からは、向かいの山までの景色が見える。大自然に裏打ちされた、雄大で美しい景色だ。


 雲一つない夕闇の空。太陽の光は山向こうの奥から漏れていて、深く濃い木々の緑が黒く染まる。それだけで恐ろしい情景に見えて、ゾッとする。麓に流れる太い川は、地元の子供たちがよく遊んでいる場所で有名だと聞いた。梅雨が明ければ、男女問わずにぎやかな声であふれるという。


 緑をまとったゆるやかな丘の連続には自然の豊かさを感じるが、その中にも人の生活が息づいている。ところどころに存在する小さな家の集まり。だがもう18時を回るというのに、どの家にも明かりは灯っていない。これだけ広い場所になると、自然の生命力が元から強いのだろう。


「ここか……」


 足元のラベンダーには目もくれず、だだっ広いだけの平野を眺めて口を閉じる。太陽の光が薄まって、暗い夜の世界が訪れ始める。


 無精髭を伸ばし、登山家のような恰好をした壮年の男は再び深く息を吸った。風を受けて翻る帽子のツバに大きく「シダレ」と書かれている。マスク越しでも感じる暗い生命力に、彼は気が遠くなった。


 +++


 日本全国から人の光が消えて数百年。植物の大繁栄によって生存圏を狭められた国民はその数の大半を失っていた。その元凶はただ一つの植物種「星喰ほしぐい」。長野県の山間部に位置する変電所の分電盤から伸び始めた蔓は一気に近くの発電所にまで及び、周囲の街4つ分の電力を飲み干した。鳥も寝静まった真夜中のことで、異常に気づくものは一人としておらず、発電所に人がいたとしても電力が失われた場所で外との連絡手段はないも同然だった。


 その発電所の近くにある一軒の家の主の話だ。いつも夜明け前には目を覚ますその老人が、朝焼けも感じられない空を不思議に思い外に出てみると、一枚の大きな花びらが空を覆っていたという。柔らかで薄桃色の花弁の表面は異常なほどにでこぼこで、花弁の端とそれを支える軸はまるで鋭利にとがった悪魔の牙。黒々として光も飲み込むほどの大きさと「まるで地球ごと食べられているように見えた」という老人の言葉から「星喰ほしぐい」という名称がついた。


 吐き出した花粉は分厚い雲のように広がり、全国的に大雪警報が発令された。同時に花粉情報が超常的な数値をたたき出したと気象庁の記録に残っているが、真相を知る者は少ない。その後24時間以内に同様の事象が全国の発電所、変電所で確認され、まもなく日本中の電気が枯渇し、ライフラインは致命的な打撃を受けたのだった。


 資源不足と物価高騰で配給もままならなくなった政府は優生思想を国益のためと嘯いて、一時的な選民制度に基づいた緊急避難指示を出した。しかし、そもそも情報を得ることの出来なかった人々が多いのは火を見るよりも明らかだ。日本という国土を捨てて生き延びたのはたった1万人だった。


 一方、山の緑が隠れるほど莫大な花粉により家を出ることもままならなくなった残された人々は、その多くが自活の道を求めた。以前に大流行した感染症以降、支給された最新式のマスクだけが政府の残した温情だと思われた。しかしネット社会に溺れた人々は火のつけ方も知らない人ばかりで、やがて光のない日本での生存圏をかけた争いが始まる。コミュニティ同士の紛争は日常茶飯事だったのだ。


 紛争の種は目下最重要とされた、花粉に犯されていない土地、水、食料だった。次第にサバイバル能力に長けた知識人は賭けの対象にされ、様々な土地を転々としながら、一定の地位を得た。


 各地で歓待を受ける一方で、貴重な物資と同列に扱われた彼らは、やがて多くの人々に追われる身となった。そして受け継いできた知識を次の世代に残すため、訪れた土地の様子や人々との会話、生命のやり取りのすべてを記録するようになり、自分たちの命を守るように努めた。自らを”辺郷文士”を呼んだ彼らも生きるために必死だったのだ。


 シダレもその一人だった。


 シダレは悩んでいた。突然の「星喰」の成長の急停止と退廃、花粉の消滅により自由が認められたのはいいが、彼自身は自分の人生にもう悔いはないと思っていた。出し惜しみのない人生だったと感じている。残すべきものはすべて書き残したと感じていた。


 生きる目標を失った人間はすぐに死を選ぶ。マスクを外すだけで花粉に犯され、供花として「星喰ほしぐい」に”成った”人間は何人も見てきた。それだけで簡単に生を諦めることができたのだ。


 花粉にまみれた世界ではそんなことが当たり前だったが、今となっては死ぬことの方が難しい。腹を切るか、海に飛び込むか、息を止めるか、それくらいしか思いつかない。陳腐な想像だがそれも当たり前か。死んだことなんてないのだから。


 悩みにあえぎながら、シダレは歩き続けた。目的地もなく、ただ漫然と。


「人間は死ぬべきときに死ぬものだ」


 師だった男によく言われた言葉だ。死の選択権は意志ではなく、環境が決めるのだと。過酷な世界で生き残ってきた彼らしい意見だ。


 気づけばシダレは大きな島にたどり着いていた。かつて北海道と呼ばれた場所。昔からあらゆる自然に神が住まうとされ、土着の民に崇められていた土地。彼は日本で2番目に大きなこの島に降り立ったことがなかった。そして最初に訪れた村で予想だにしない景色を見た。


「まさかあれは、光……?」


 遠くに点在する小さな家々には星よりも明るい光が灯っていた。先人の残した知識を知っていなければ、見とれることもなかっただろう。かつて夜空に広がっていたという星は、今では全く見ることのできないものになっていた。見えないものは恐ろしい。この時代において、星と光は恐怖の対象だった。それは日本全土に広がった常識だと思っていた。


 農道の端で休憩していた老夫婦は笑ってシダレに話した。


「この土地から離れることは出来ねえな、星売りの子が来てこの村の夜に希望をくださったのだから」


「んだんだ」


 シダレは首を傾げた。


「星売りの子?」


「星の光を売ってくれたんだ。別にお金が必要なわけでもないんだけんど。まるで売り子さんみたいにきれいな子なんだぁ。お兄ちゃんも見たらびっくりするべ。あんなちんまい娘っ子が暗い生活を照らしてくれたんだからな」


 緩んだ頬から喜びが漏れている老人の言葉からは、生の実感が伝わってきた。記録をかきながらシダレは思った。


「星売りの子に会いに行こう」


 +++


 そして訪れたのが、小さな丘に花畑がだんだんに続くこの場所だった。


 老人曰く「星売りの子は何日もかけてその場所の星辰を見るそうだ。ただ闇ばかりの空をじぃっと見つめて時を待つ。見通しのいい丘の上で、飲まず食わずで立ち続けるのだ。そして燃えるような星が落ちるとき、夜の天地に光をもたらしてくれるのだよ」、と。


 シダレはあたりを見渡して、その娘を探した。老人の話を信じるならば、このあたりにいるはずだ。が、なかなか見つからない。小高い丘はそこかしこにあるから、もしかしたら別の場所にいるのかもしれない。老人から娘の特徴をもっと深く聞いておくべきだったと後悔した。


 太陽が山の端にまで落ちて光が消えかかる。夜が来るのだ。


 仕方なく野宿の準備でもするかと思いついた瞬間、そのときは来た。


 白く尾を引いてひときわ明るい光が夜空の一点に現れた。黒い紙面に一筆書きで描いた白い墨が落ちていくように広がって見える。それはとても美しい光景だった。


 思わず見つめて固まったシダレは、眼下にぽつんと立つ幹の太い樹に目が留まった。いや、そのそばに立つ小さな人影に目が留まった。短い腕を精いっぱい空に伸ばし、ゆらゆらと若草のように揺れている。下から吹く風に乗って、女の子の歌声が聞こえてきた。


「星の降る夜 われ祈祷せん

 人の営みに光あれ

 零れ落ちる星 それは神の涙

 訪れる闇に希望あれ

 われらは未来を夢見るもの

 道なき夜に輝きあれ」


 祈るように、身を捧ぐように。静かで、穢れのない歌声。


 聞いているこっちが恥ずかしくなるほど、忘れていたはずの初心な感情が湧き上がってくる。一度も涙をこぼさなかった師が最期に涙を流したとき、なぜか輝いて見えたのをふと思い出した。


 一瞬、空が震えた。尾を引いた星が二重、三重になり、視界いっぱいの闇に光が落ち始めていった。


 それは一つの星だったはずだが、割れるように散らばった後、夜の地上に零れ落ちた。やがて丘に点在する家々に光が灯り始め、余った光は再び空に戻って行った。その様子を見守って再び地上を見ると、昼にしか見て取れなかった色を見ることができた。


 丘に広がる花畑の緑。足元のラベンダーの淡い紫。闇ばかりだった空は墨色で、黒から白の見事なグラデーションを映している。一条の太い雲にかぶって、星よりも大きな丸い光が存在感を露わにしていた。


「あれが、月……?」


 シダレが見た光景はおよそこの世のものとは思えなかったが、間違いなく今まで見た何よりも美しい光景だった。死んだ命の染みついた土の匂いも気にならなくなるほど、涼し気で爽快な緑。夜闇の中で昼のように色を見ることができるなんて想像もしていなかった。


 かつての師の話を思い出す。


「昼よりも明るいその世界を、人はきれいだと言ったそうだ。闇に対抗するように輝く光に活力をもらったり、ロマンと感じたそうだ。私も見たことはないから分からないが、光には希望を感じるのが常だったようだ。人の力で作られた光に、生活の脈動を感じた、同族意識というやつかもしれんな。ただ俺は、その夜景の良さがわからんかった。自然の中で生きてきたからな。自分の命は自分で守ってきたし、自分のために使ってきた。夜が何も見えないのも、一人で生きるのも当たり前だった。だが私たち人間は光からエネルギーをもらっているのも事実だ。空に存在したという月が太陽からエネルギーをもらっていたのと同様にな」


 廃屋と大きな木々に挟まれた木陰のなか。死期を悟った師が選んだ最期の場所で私に言い聞かせた遺言は、先人への文句だった。最期くらい慰めになることの一つや二つ、言えればいいのに。


 最後まで自分勝手な彼に目を向けることができず、私はそっぽを向いて膝を抱えていた。むくれた私を見てなのか、自分の最期を面白がったのか、鼻で笑った彼は優しい声で続けた。


「本当は……私たち人間は自然と共存できる道もあるはずなんだ。そんな世界がもしできるなら、そうだな……もっと長生きしてもいいと思えたかもな」


 次に見たとき、星のように小さな輝きが彼の穏やかな死に顔に尾を引いてこぼれた。


「どうされましたか?」


 突然の問いかけに、シダレははっと我に返った。目の前に自分の胸ほどの高さの娘が立っている。先ほどまで樹のそばにいた子だろうか。


「泣いているみたいですが……何か悲しいことでも?」


「あ、いや、別に何でも」


「そうですか?ならいいのですが」


 慌てて目をそらすシダレをいぶかし気に見る彼女は、なにやら小さな箱のようなものを取り出して差し出した。


「これは?」


「カメラという、旧時代の記録機です。目にした風景を時をそのままに切り取ることができる優れものです」


 そう言ってシダレの手の中にごつごつとした機械を収めた彼女はにこにことしている。


「……なぜこれを私に?」


「旅の方とお見受けしました。この世界で旅をする方といえば辺郷文士でしょう。このカメラも使うべき人の手に合った方が喜ぶはず。使い方を知らない私よりも、知っていそうなあなたにふさわしいと思いまして」


「はあ……」


 カメラのことはたしかに知っている。師が記録のためにと使っていたが、死の数週間前に壊れたため遺品とともに墓標にした。彼のお気に入りだったようでシダレが使ったことはない。そんなものを渡されても困るだけだ。それにシダレの興味はカメラよりも目の前の彼女にある。


「君は、星売りの子と呼ばれる人かな?」


 シダレの問いに彼女は答えず、ただにこにこと見つめてくる。いや、カメラをチラチラと気にするあたり、早く使ってほしいみたいだ。


 溜息を吐きつつも、シダレは仕方なくカメラを構える師の姿を思い出す。師の記録に残っているだろうし、自分が使うと思っていなかったので使い方を記録していなかったので完全に見様見真似だった。わたわたと不慣れな姿をさらして恥ずかしく思いながら、なんとか旧人類の異物を構えてみる。


 レンズの向こうに見える景色はひどく不格好で、本当にこれで撮れるのかと不安になったが、意を決してボタンを押した。


 パシャ


 撮る瞬間、尾を引く星が再び現れて、暗がりに戻り始めた自然の夜景が目映ゆい光に包まれた。すべてが無音で、自分の呼吸だけがやけに大きく聞こえた。


「どうです、撮れました?」


 唾を飲み込むシダレの横で、娘が片手を空にゆらりと掲げながら聞いてくる。穏やかで見守るような笑顔に、シダレは思わず微笑んだ。


「ああ、とてもきれいだ」


 その答えに満足したように微笑を返した彼女は、緩やかにお辞儀をして呟いた。


「あなたに星の加護があらんことを」


 甘くて柔らかで心地いい。夜の星にささやくような、清らかな声だった。

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