アンフィスバエナとウロボロス
アル=ミラージからいくつかは空の檻が続くので、それほど時間のない私たちは早足で通り過ぎた。
次に足を止めたのは、二つ並んだ強化ガラスのケースの一つである。中には太陽灯が設置され、その足元で、巨大なミミズのような、はたまた蛇のような、生き物だということは直感的にわかるがそれ以上の特徴を説明しようがない、太い紐が転がっていた。
「この子は……アンフィスバエナですね。アフリカの北部が生息地で、一応爬虫類型の幻獣とされています」
女史が言った。
「よく覚えておいでだ。見た目はミミズトカゲと大して違いないですが、こいつの特徴はこれですね」
話しながら、私は手の甲で目の前のガラスをとん、と叩いた。
音に反応して体がぴくっと動いた……と思った次の瞬間、トカゲは弾けるように跳び上がり、ガラスにぶつかった。衝撃で、ケース全体が揺さぶられる。女史も小さく悲鳴を上げ、手で顔を覆って後ずさりした。
「驚かせてしまいましたか。すみません」
「いいえ! 大丈夫です」
よく見ると、指の隙間から目をらんらんと輝かせ、女史はアンフィスバエナを観察していた。
床に落ちたアンフィスバエナは、その最大の特徴である、体の両端にそれぞれついた頭をもたげ、二つの赤い口を開いてこちらを威嚇した。
「どちらかが偽首、ということはないですよね」
既にまったく怖がっていない女史は、ガラスに張り付くようにして両方の頭を見つめている。
「はい、両方とも本物です。こいつの餌は普通の蛇なんかと同じように小動物ですが、どちらの頭からでも飲みこむことができますよ」
「へえ――」
彼女は元々大きな目をさらに丸くしていたが、次第にその目元にしわが寄った。
「ちょっと待ってください。この子、その……出すほうはどうやるんでしょう?」
私はくっくと笑う。
「さて、どうすると思いますか?」
「そうですね……」
女史はその場にかがむと顔を横にして、ガラス越しにアンフィスバエナの胴の下をのぞきこむ。
「お腹、見せてくれないかな」
しかし相手のほうは闖入者にますます警戒して、威嚇を続けるばかりだ。埒があかないので私は種明かしした。
「正解を言いましょう。アンフィスバエナは排泄をしません」
「しない⁉︎」
女史は声を上げる。
「で、でも、食べるんですよね。食べるのに出さない……?」
女史が固まってしまったので、私は解説を続ける。
「アンフィスバエナはね、ただ単に頭が二つあるトカゲというわけじゃない。こいつには『後ろ』が存在しないんですよ」
「あっ、わかった!」
女史は手を叩いた。
「先生の本によく出てくる、『概念生物』ですね」
「その通り」
「前」とか「後ろ」とか、あるいは「上」や「下」でもいいが、そういった言葉は、人間が世界を認識するために発明した、抽象概念である。具象度の高い言葉、例えば「足」であれば、「足」のない生物というのは普通に存在する。しかし、概念である「後ろ」のない生物はあり得ない。
にもかかわらず、目の前のトカゲには「後ろ」がない。見てくれだけではなく、既知の科学ではわからない方法によって、アンフィスバエナが食ったものは消化器の中からどこかに消える。
「食餌後のアンフィスバエナを密閉したケースに入れて、ケースごと秤に乗せるとね、時間が経つにつれて重量が軽くなっていくんですよ」
「排泄物が消えていくからですか」
「ええ。質量保存則を破ってね」
女史は頭に手をやって、悩ましげに目を閉じた。
「物理法則無視ですか。……それは秘密にもしたくなりますね」
先に現代科学がひっくり返ると述べた理由はこれだ。幻獣はしばしば、物理を超越した振舞いを見せる。
「残念ながら幻獣たちと同様に我々の研究結果も、ごく一部の例外を除いてこの建物から外に出すわけにはいかない。研究者としては口惜しいですが」
「いっそのことみんなまとめて逃してやったら面白いかもですね!」
女史はそう返すと、まだ赤い口を見せているアンフィスバエナに「またね」と手を振って、もう一つのガラスケースに視線を向けた。
「次はもっと概念的ですよ」
女史が中をのぞきこむ前に、私は機先を制した。
「へえ、何だろう? チェシャ猫でも出てくるんですか」
私は女史の背中から首を伸ばした。
こちらは太陽灯のない、薄暗い床である。その上に地味な茶色の蛇がいる。
「これは――ウロボロスだ!」
だんだん地が出てきて、女史は半分くらいため口になっている。が、それも好もしい。
「お見事、正解です」
自身の尾をくわえて輪になった姿で、蛇はゆっくり蠕動している。
「でも意外と地味ですね、この子。その辺にいるシマヘビと大差ない見た目ですし。ウロボロスって『世界蛇』とか『永遠の象徴』とかいわれてるから、なんというかもっと仰々しいものを想像しちゃいますけど」
女史はあごに手を当て、さらに首を傾げた。
「ウロボロスが永遠や不滅という概念の象徴だというのは事実ですよ。だから概念的、と言ったんです。よくご覧なさい」
「はい……」
じっと見つめていると、蛇の胴体は少しずつ動いているのに、蛇のいる場所はほとんど変わっていないのがわかる。
「一か所で回転してるんですか、この子?」
女史の質問に、私は首を横に振る。
「頭の位置を見てみなさい」
「はあ」
ガラスに額をくっつけて観察するうち、女史は「むっ」とうなった。
「体が回転してるのに頭の位置が変わらない?」
「そういうことです。つまり――」
「この子は自分の体を飲みこんで、その分だけ成長している!」
そう叫んでから、女史は天井を見上げてため息をついた。
「確かに概念的、としか表現できないですね。果てしなく自分を飲みこみ続けるなんて。無限そのものというか」
指で空中になにやら文字を描いている。考えている時の癖らしい。
「不思議ですよね。『概念』っていうのは人間が考えたもののはずなのに、何故かその概念通りに振舞う生物がいるんですから」
私はうなずいた。
「だからね、私は思うんですよ。幻獣は、人間が生み出したんじゃないかと」
「人間が? どういうことですか?」
女史は不思議そうに聞いてくる。
「それを知るために、次の幻獣を見てみましょうか」
ウロボロスのケースから少し離れた大きな檻を、私は眺めた。
女史も隣に立ち、私の顔とその視線の先を交互に見る。
「お次は何でしょう?」
「歯の僭主。こちらもインド産の古株です」
ヴンダーカンマーの幻獣たち 小此木センウ @KP20k
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