ヴンダーカンマーの幻獣たち

小此木センウ

プロムナード〜アル=ミラージ

 とある地方大学は動物生態の研究で有名だ。一般に開放された動物園も付属するので、休日には家族連れが多く訪れ、大学構内とは思えない雰囲気である。

 動物園は、街の中心から川を渡って向こうの緩い丘陵に散在する大学関連施設の一つで、周囲の緑も豊かだ。客たちは一様に休日の午前のなごんだ顔つきになって、のんびりと園内を回っている。

 余暇を楽しむそんな面々と違って、私は少しばかり重たい用件があってここに来たわけだが、ただ春の若葉の匂いに囲まれて歩けば気分も快くほぐれ、ゆっくりセンザンコウやらナマケモノやらの檻を覗きながら、目的の建物に向かった。


 あたりの穏やかな空気とは相反し、その建物はいかつい真四角のコンクリートでできていた。

 扇型の幅広の階段がいざなう入口は、中二階といってもいいほど高い場所に設置されており、外から内側の様子を伺うことはできない。

 階段を一段ずつゆっくりと上っていると、後ろから駆け上がってくる足音がする。振り返った目に映ったのは、飼育員の作業服がまだ新しい、若い女性だ。

「あっ」と声を上げ首すじに手をやった後、立ち止まって私を見つめる。

 好奇心に満ちたくるくるよく動く瞳を、私は気に入った。

「もしかして、今日お越しになる予定の――」

「ええ。お会いするのは初めてですね」

 一応ここの顧問という肩書きだが、顔を出すのはごくたまにだ。私は軽く会釈した。

 彼女の方も頭を下げて、名前を名乗る。

「お目にかかれて嬉しいです。私がこの道に進むきっかけになったのも、高校のころ先生の本を読んだからなんです」

「それはそれは。こちらこそ光栄です」

 階段を上り終えると、「関係者以外立入禁止」と書かれた立て看板の先に、大きなガラスの扉がある。中が暗い上、ガラスが薄茶に色づいているので向こうの様子はよくわからない。

 ガラスを押し開けてすぐの守衛室の窓口で来訪者の記入をして、女史と一緒に長く薄暗い廊下を進む。左右には分厚い鉄の扉が並んでいる。

「この研究所には、いつからお勤めですか」

 私が聞くと、女史は作業着のポケットから鍵束を取り出しながら答えた。

「所員としては、まだほんの数ヶ月です。その前はここの大学院にいました」

「では教授の推薦で研究所に?」

「はい」

 女史はうなずき、私も知っている教授の名を告げた。確かな人物である。

 今回は期待以上だ。私はにっこり笑った。

「そちらの研究室の出でしたか。それなら才能も熱意も十分ですね」

 彼女は初々しく、ぱっと顔を赤らめた。

「いえそんな! 私なんてまだまだ知らない、わからないことだらけで」

 照れ隠しなのか、鍵束を目の高さに持ち上げて、じゃらじゃらと鳴らしながら答える。

「では、そのわからないことを見てみましょうか」

 立ち止まって、私は言った。

「はい!」

 廊下のどん詰まりである。鉄扉、という表現がふさわしい、ところどころに錆の浮いた、古くしかつめらしい扉が私たちの行く手を阻んでいる。

 女史は、今度は高揚で頬を染めながら、鍵束の中からひと際大きな鍵を取り出した。

「嬉しいなあ。私、この奥に入るの初めてなんです。しかも先生にご案内していただけるなんて」

 世界の秘密を開陳するような大仰な音を立てて扉が開く。

 好奇心の光を目にいっぱいためて、女史は私の存在も忘れたかのように扉の向こうへ歩んで行く。私は苦笑いして、また別種の思惑を胸に秘めて後に続く。


 扉の先は、体育館のように柱がなく天井の高い広い構造で、その下に巨大な檻やガラスのケースがひしめいている。窓は一つもない。

「幻獣廠です」

 期待のあまりかすれた声で、女史がつぶやいた。

「この国でただ一つ、海外の幻獣を飼育、または保存している施設」

 私が引き取ると、女史は感慨深そうにうなずく。

「ほんの一年前まで、こんな場所が現実に存在するなんて考えてもみませんでした」

「私の本の中で匂わせてはいますよ」

「先生の著作の場合は、それらしく作りこまれたフィクションとして読んでましたから、現実とは思わなかったんです」

 それはそうだ。事実だと気づかれたら大変で、それこそ現代科学がひっくり返る大騒ぎになる。

 女史は一番手前に置かれた小さめのケージに近寄った。

「これはアル=ミラージですね。インドの伝承に出てくる」

 檻の中にいるのは、斑点のある体毛に包まれたウサギである。可愛らしいものだが、その額からは一本の長い角が突き出ていて、先端はいつも濡れている。そこから毒液が滴っているからで、これに刺されたら人を含めて大抵の生き物は助からない。だからアル=ミラージに近づく動物はいない。とはいえ、こちらからちょっかいを出さなければ襲ってくることもないから、外から眺める分にはごく平和的な幻獣だ。

「かわいい」

 女史は小学生の女の子の顔になって、そのままそこに座りこみそうな様子だったので、私は軽く咳払いをして先を促した。

「あっ、すみません!」

 彼女は慌てて立ち上がり、名残惜しそうにちらっと檻を見てから歩き出す。

「ご存じですか? アル=ミラージは、幻獣廠の中でも最古参なんですよ」

 そう聞くと、女史は斜め上の空中に視線を定めた。

「ええと、それも先生の作品で読みました。二十世紀の始めに仏教教団主体で中央アジアとインドの学術調査があって、その時に考古学的な資料と一緒に幻獣も連れられて来たって」

「そう、いわゆるO探検隊です。仏教関連の遺跡や古物の調査が主目的だったんですが、主導していた教団の法主が博物学的な興味を持っていたせいで、幻獣にも目が向いたんでしょうね」

 法主と当時の学長が個人的な知己だったため、幻獣たちをこの大学で預かることになったのが、幻獣廠と動物生態研究所の始まりである。

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