殺し屋の手は冷たい

myz

 心の湖面はいつも平静フラットだ。

 初めては父親クズだった。酒をしこたまかっくらって俺とオフクロを好きなだけぶん殴ってから湯舟の中でウトウトしてたアイツの頭を、水面の下にまで押し込んで冬のナマズみたいにおとなしくなるまで手を離さなかったときも、肩がぶつかったとかガンをつけたとか因縁つけてきたチンピラがチラつかせてきた折り畳みナイフを逆に奪い取って刃の部分が見えなくなるまでそいつのアバラの隙間に埋め込んでやったときも、いまのを渡されて初めてをしたときも――いつも、心の中は凪いでいた。

 淀んだ暑気の中でも冷え切ったままの手の温度を感じて、俺はそのことをもう一度確認する。

 手の冷たい人は心が暖かい、とか人は言う――嘘だ。

 手の温度は心の温度だ。

 心の湖面は常に平静で、澄んだ冬の大気ときっかり同じ温度を保っている。

 今回の不届者クズは身内だった。しかも俺の同類ナカマで、何度か組んで仕事をこなしたこともある。腕はいい。だが、他組織ヨソに唆されて組長オヤろうとした。それで俺が行くことになった。

 初手でり損ねたのは俺の失点ミスと言えるが、その程度は織り込み済みだった。仕事は滞りなく進行している。

 奴の根倉ヤサから燻り出して、埠頭ウミベまで追い込んだ。

 午前四時。

 動く気配は、弾を一発食らった右脚を引き摺りながら逃げる奴の荒い呼吸と、一定の調子リズムでそれを追う俺の靴音だけ。ぽつぽつと設置された常夜灯の光が白々しい。灰色のコンクリートに、点々と落ちた奴の血の跡が黒々として見える。

神川こうかわよお~~~っ」

 ぷしゅ、ぷしゅ、と気の抜けた音を出した俺の拳銃ハジキの弾が奴の足下のコンクリートを抉る。奴がたたらを踏んで向き直り、倉庫の壁にもたれかかりながら、銃口を俺に向ける。

「それぇ~っ、いいかげん疲れただろ……? ……脚」

 奴はギラギラとした眼で俺を見つめ返してくる。

「そのままじっとしてたらよぉ~っ」

 手負いの獣の眼だ。

「ゆっくり休めるぜえ~っ、永遠によお~~~ッ」

 だが、まだ死んでない。

伊佐原いさはらぁーッ!!」

 大きく肩で息しながらも、奴の銃口はぶれない。

「……もう、殺ったつもりか?」

 脚の失血は大きい。額に脂汗を滲ませ、青褪めた顔をしながら――でも、奴はまだあきらめていない。

「お前のグロック……いま二発撃ったよな……? 俺の脚に食らわせてくれたのが、十五発目だった……」

「……」

「あと一発しかねえよなあ~ッ!! それで俺を殺れるつもりかてめえ~~~ッ!!」

「関係ねえぜえ~ッ、てめえの脳天にブチ込めばよお~ッ、一発で済むよなぁ~ッ」

 土壇場の奴の冷静クレヴァーさは厄介だ。

 だが、俺も冷静だ。

 ちゃんと数えてる。

 奴のベレッタの残弾も、あと一発。

 俺と奴との距離は、もう十メートルを切っている。

 どちらも、撃てば必中の間合い。

 あと一発で、俺か奴か、どっちかが死ぬ。

 淀んだ夏の夜の空気がとめどなく重ったるく体に絡みついてくる感触。

 だが――

「!?」

 ふいに奴ががばりと背後を振り返る。

 俺に銃口を向けられていることすら忘れたのか、あまりにも無防備なその背中に、俺は撃ち込む――ことができなかった。

 視線が、釘付けになる。

 女だった。

 白い人影が、奴の背後、奴のもたれかかっている倉庫の陰から、するりと抜け出して、足音も立てずに歩き出す。

 顔は見えない。

 胸元まで垂れた長い黒髪が常夜灯の光にてらてらと光る。

 真っ白いワンピースと、血の気の失せた肌。

 なんの気配も感じさせずに、この修羅場にすべり込んできた女は、頼りなげな足取りで、とぼとぼと海に向かって歩みを進める。

「!!」

 奴が動く。

 女の首に左腕を絡めると、その肩越しに拳銃を握った右手を俺の方に突き出す。

「動くんじゃあねえッ!!」

 ぴたりと射線を俺に向け、叫ぶ。

 そのぶれない銃口と、女の眼を交互に見て、俺は口を開く。

「……おい、神川」

「ああッ!?」

「ひとつ、忠告してやる」

 ゆっくりと言葉を選びながら、俺は奴に言う。

「それ以上、止めとけ」

 奴が、心底意外なことが起きた、という風に、中途半端にこわばった顔をする。

「それから離れて、おとなしく、俺に殺られとけ」

 一瞬、眼を丸くして――奴は堪えようがなかったように吹き出した。

「ケひッ!? ヒャハハハハハハハハハハっ!!」

 ヒステリックな哄笑を上げながら、まだ奴の銃口はぶれない。それだけは大したもんだ、と俺はぼんやり思う。

「て、てめえっ……そんなタマだったのかよ……っ!!」

 ひぃー、ひぃー、と笑いの余韻を引きながら、奴が言う。

「……わけのわかんねぇ女、人質にされたぐらいでよォ~……っ!!」

 だが、瞬間――明らかに怒気を漲らせながら、吠える。

「そんなハラで俺を殺るつもりだったのかよテメエぇ~~~ッ!!」

「……」

「いいか? こいつはただのだ」

「……」

「てめえの腕でもよぉ~っ、俺のドタマにだけブチ込むのは、ちょっぴりだけしんどいだろ……?」

「……」

「そんだけのことだよ……さあ、ヤろうぜ、伊佐原ぁ……!!」

「神川よぉ~っ……」

「あぁ?」

「……忠告は、したからな」

 俺は銃口を下ろす。

「はぁッ!?」

 得物を懐にしまいながら、奴と女に背を向ける。

「……てめえええエェ~ッ!?」

 一瞬遅れて、奴が叫ぶ。

「どんだけ俺を虚仮コケにしやがんだあぁ~~~ッ!!」

 ほとんど半狂乱に発されるその声を背中に聴きながら、俺は足を進める。

 仕事は終わった。

「な!?――ヒッ!?」

 本当に冷静だったら、奴にも分かったはずだ。

「な、なんだッ!? てめえっ、こんなッ……!?」

 こんな厄介事に巻き込まれても、女は一言も――短い悲鳴すら上げていない。

「や――止め、ウゲッ」

 そもそも、こんな未明に、こんな埠頭に、なぜ女がいるのか。

「ぎ、ぎぁあああああああああああああああっ!!」

 女の眼を見たとき、俺と女の視線は合わなかった。

 女の顔の眼のある位置、そこにはぽっかりと黒い穴が開いていて、虚ろな眼窩の中に凝った闇だけが、じいっと俺を見つめ返していた。

「ひ、い、ぃぎぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ――」

 長く尾を引く奴の断末魔の呻きに、俺は耳を塞ぐ。

 べつに聴きたくない。

 もし、奴のお望みどおり、撃ち合ってたら、俺も危なかった。

 あれは、絶対に関わっちゃあいけない類のヤツだ。

 俺は生来そういう体質タチだから仕方がないが、奴はそうじゃないはずだ。

 そうじゃない――奴――にもふつうにえて、ふつうに触れられるようなヤツは、本当に始末に負えない。

 所詮、指先だけでギリギリこの世にしがみついてるような連中は、生きている人間には大した障りはもたらせない。ただ惨めったらしい視線を生きてる奴らに向けて、グジグジとこの世に居座り続けながらすこしづつ蒸発していくだけのような存在だ。

 だが、誰の眼にも視える――例えば、昼間の渋谷のスクランブル交差点の中央になんの脈絡もなく当たり前のように立ってるようなのは、

 ――アレも多分、そういう類のヤツだ。

 奴はこの先、永劫に――人間にとってはそう言っていいぐらいの時間――アレに縛りつけられて、無限に続く苦痛を味わいながら、すこしづつ存在そのものを摺り潰されていくのだろう。

 ばきり、ごきり、めきり、ぐしゃり、ぐちゃ、ぐちゃ、ぐちゃ、ぐちゃ。

 奴が惨たらしく、人じゃないに変えられていく音を背中に聞きながら、俺は一定の靴音の調子でそれから遠ざかっていく。

 ――兄貴アニキにはどう報告したものか――それだけが、すこし煩わしい。

 心の湖面は、平静なままだった。

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