殺し屋の手は冷たい
myz
―
心の湖面はいつも
初めては
淀んだ暑気の中でも冷え切ったままの手の温度を感じて、俺はそのことをもう一度確認する。
手の冷たい人は心が暖かい、とか人は言う――嘘だ。
手の温度は心の温度だ。
心の湖面は常に平静で、澄んだ冬の大気ときっかり同じ温度を保っている。
今回の
初手で
奴の
午前四時。
動く気配は、弾を一発食らった右脚を引き摺りながら逃げる奴の荒い呼吸と、一定の
「
ぷしゅ、ぷしゅ、と気の抜けた音を出した俺の
「それぇ~っ、いいかげん疲れただろ……? ……脚」
奴はギラギラとした眼で俺を見つめ返してくる。
「そのままじっとしてたらよぉ~っ」
手負いの獣の眼だ。
「ゆっくり休めるぜえ~っ、永遠によお~~~ッ」
だが、まだ死んでない。
「
大きく肩で息しながらも、奴の銃口はぶれない。
「……もう、殺ったつもりか?」
脚の失血は大きい。額に脂汗を滲ませ、青褪めた顔をしながら――でも、奴はまだあきらめていない。
「お前のグロック……いま二発撃ったよな……? 俺の脚に食らわせてくれたのが、十五発目だった……」
「……」
「あと一発しかねえよなあ~ッ!! それで俺を殺れるつもりかてめえ~~~ッ!!」
「関係ねえぜえ~ッ、てめえの脳天にブチ込めばよお~ッ、一発で済むよなぁ~ッ」
土壇場の奴の
だが、俺も冷静だ。
ちゃんと数えてる。
奴のベレッタの残弾も、あと一発。
俺と奴との距離は、もう十メートルを切っている。
どちらも、撃てば必中の間合い。
あと一発で、俺か奴か、どっちかが死ぬ。
淀んだ夏の夜の空気がとめどなく重ったるく体に絡みついてくる感触。
だが――
「!?」
ふいに奴ががばりと背後を振り返る。
俺に銃口を向けられていることすら忘れたのか、あまりにも無防備なその背中に、俺は撃ち込む――ことができなかった。
視線が、釘付けになる。
女だった。
白い人影が、奴の背後、奴のもたれかかっている倉庫の陰から、するりと抜け出して、足音も立てずに歩き出す。
顔は見えない。
胸元まで垂れた長い黒髪が常夜灯の光にてらてらと光る。
真っ白いワンピースと、血の気の失せた肌。
なんの気配も感じさせずに、この修羅場にすべり込んできた女は、頼りなげな足取りで、とぼとぼと海に向かって歩みを進める。
「!!」
奴が動く。
女の首に左腕を絡めると、その肩越しに拳銃を握った右手を俺の方に突き出す。
「動くんじゃあねえッ!!」
ぴたりと射線を俺に向け、叫ぶ。
そのぶれない銃口と、女の眼を交互に見て、俺は口を開く。
「……おい、神川」
「ああッ!?」
「ひとつ、忠告してやる」
ゆっくりと言葉を選びながら、俺は奴に言う。
「それ以上、止めとけ」
奴が、心底意外なことが起きた、という風に、中途半端にこわばった顔をする。
「それから離れて、おとなしく、俺に殺られとけ」
一瞬、眼を丸くして――奴は堪えようがなかったように吹き出した。
「ケひッ!? ヒャハハハハハハハハハハっ!!」
ヒステリックな哄笑を上げながら、まだ奴の銃口はぶれない。それだけは大したもんだ、と俺はぼんやり思う。
「て、てめえっ……そんなタマだったのかよ……っ!!」
ひぃー、ひぃー、と笑いの余韻を引きながら、奴が言う。
「……わけのわかんねぇ女、人質にされたぐらいでよォ~……っ!!」
だが、瞬間――明らかに怒気を漲らせながら、吠える。
「そんな
「……」
「いいか? こいつはただの盾だ」
「……」
「てめえの腕でもよぉ~っ、俺のドタマにだけブチ込むのは、ちょっぴりだけしんどいだろ……?」
「……」
「そんだけのことだよ……さあ、ヤろうぜ、伊佐原ぁ……!!」
「神川よぉ~っ……」
「あぁ?」
「……忠告は、したからな」
俺は銃口を下ろす。
「はぁッ!?」
得物を懐にしまいながら、奴と女に背を向ける。
「……てめえええエェ~ッ!?」
一瞬遅れて、奴が叫ぶ。
「どんだけ俺を
ほとんど半狂乱に発されるその声を背中に聴きながら、俺は足を進める。
仕事は終わった。
「な!?――ヒッ!?」
本当に冷静だったら、奴にも分かったはずだ。
「な、なんだッ!? てめえっ、こんなッ……!?」
こんな厄介事に巻き込まれても、女は一言も――短い悲鳴すら上げていない。
「や――止め、ウゲッ」
そもそも、こんな未明に、こんな埠頭に、なぜ女がいるのか。
「ぎ、ぎぁあああああああああああああああっ!!」
女の眼を見たとき、俺と女の視線は合わなかった。
女の顔の眼のある位置、そこにはぽっかりと黒い穴が開いていて、虚ろな眼窩の中に凝った闇だけが、じいっと俺を見つめ返していた。
「ひ、い、ぃぎぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ――」
長く尾を引く奴の断末魔の呻きに、俺は耳を塞ぐ。
べつに聴きたくない。
もし、奴のお望みどおり、撃ち合ってたら、俺も危なかった。
あれは、絶対に関わっちゃあいけない類のヤツだ。
俺は生来そういう
そうじゃない――奴――にもふつうに視えて、ふつうに触れられるようなヤツは、本当に始末に負えない。
所詮、指先だけでギリギリこの世にしがみついてるような連中は、生きている人間には大した障りはもたらせない。ただ惨めったらしい視線を生きてる奴らに向けて、グジグジとこの世に居座り続けながらすこしづつ蒸発していくだけのような存在だ。
だが、誰の眼にも視える――例えば、昼間の渋谷のスクランブル交差点の中央になんの脈絡もなく当たり前のように立ってるようなのは、存在としての次元が違う。
――アレも多分、そういう類のヤツだ。
奴はこの先、永劫に――人間にとってはそう言っていいぐらいの時間――アレに縛りつけられて、無限に続く苦痛を味わいながら、すこしづつ存在そのものを摺り潰されていくのだろう。
ばきり、ごきり、めきり、ぐしゃり、ぐちゃ、ぐちゃ、ぐちゃ、ぐちゃ。
奴が惨たらしく、人じゃないなにかに変えられていく音を背中に聞きながら、俺は一定の靴音の調子でそれから遠ざかっていく。
――
心の湖面は、平静なままだった。
殺し屋の手は冷たい myz @myz
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