第7話 アイリス
毛足の長い柔らかなカーペットが敷き詰められたフロアは、僕にとってあまりに異世界で落ち着かない。
本当に僕はここに立っていていいのかと誰かに許可を貰いたくなるが、そう都合よく「君はここにいていいんだよ」と言ってくれる人が現れるわけもなく、若干の居心地の悪さを感じつつ柱の陰に立っていた。
「あ、ほんとに来てくれたんだ」
夜のように艶美な濃紺のドレスを纏った春原は、隠れるように待っていた僕を見つけて笑顔を見せる。
いつもと同じように笑う彼女は、先刻までステージの上で華麗な演奏を魅せていた女性と同一人物とは思えない。
「正直半々かなって思ってたよ」
「行かなかったらバイトのことバラされるかと思って」
「うふふ」
「笑顔がこわい」
僕がそう言うと彼女は、あはは、と元の笑顔に戻す。コンクリートの壁で囲まれたロビーに笑い声が小さく反響した。
「どうだった? 私の最後の演奏」
「最高だった。やめるの勿体ないくらい」
「へへ、やったぜ」
嬉しそうに笑った彼女は、その笑みを少し和らげる。「ありがとね」と穏やかな声で言った。
「でも、これで最後。もう決めたから」
その言葉はどこか吹っ切れたように清々しくて。
そして、変わらない決意の色が見えた。
「そっか。じゃあこれをどうぞ」
「え、なに?」
僕は右手に持っていた紙袋を彼女に手渡す。
それを受け取った彼女は口を開けて、中に入っていたものを取り出した。
「……犯行予告?」
春原は左手に持った小ぶりな植木鉢を見つめながら訝しげに言った。
いやいや、と僕は首を振る。
「祝福だよ」
彼女の掌の上には、下向きに開いた小さな花。
真っ白なスノードロップが揺れていた。
「明日から新しい自分なんでしょ?」
それを聞いた彼女は掌に乗せた白い花を見つめて、それから僕に微笑みかける。
「……嬉しい。ありがとう」
「どういたしまして」
「あれ、でも城元くんの花屋じゃ取り扱ってないんじゃなかったの」
「取り寄せは承っております」
なにそれ、と彼女は歯を見せて笑った。
この笑顔を見たいと思うようになっていたのはいつからだろう。
「なあ春原」
「ん?」
僕はポケットからハンカチーフを取り出して、ばさりと空中で大きく広げた。
「前から思ってたんだけどさ」
そして左手で作った輪の中にハンカチーフを詰め込み、左手首をくるりと回して一瞬で花に変える。フリルのように波打つ白い花弁が揺れた。
「行動するより言葉にするほうが難しいこともあると思うんだ」
だから、人は花に言葉を託したんじゃないかな。
突然のことに戸惑う彼女へ向けて、僕は左手の一輪をゆっくりと差し出す。
「……鳩じゃないんだ」
やっと言葉を取り戻した彼女は小さい声で呟く。
「花屋でバイトしてるからね」
僕は笑ってそう答えた。
彼女も少しずつその表情を笑顔に変えていく。
――そして静かに、手を伸ばした。
(了)
ファンファーレは聞こえない 池田春哉 @ikedaharukana
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