第6話 スイセン
「あれ。なんかいい香り」
「ああ、スイセンかな。ほらそこの白と黄色の」
木の棚に並べられた小さな鉢に咲く花を指で差した。春原は「ほんとだ」と黄色の花に顔を近付ける。
開店したばかりの店内には僕と春原、そして色とりどりの花しかない。
「ほんといい香りね」
「だよね。香水にも使われてるんだってさ」
傷んでいる葉を切り落としながら答えると、彼女は「へえ、そうなんだ」と感嘆の声を上げた。
僕は右手の鋏を合わせる。しゃきん、と刃が擦れる音がして、また一枚葉が離れた。
「で、春原は何しに来たの」
「だから遊びに来たんだよ」
「なわけないでしょ」
え、と驚いたようにこちらを向く彼女に「それくらいわかるよ」と言う。
受験はさておき、発表会が二ヶ月後に控えている。そんな時期に花屋で遊んでる暇はないはずで、遊ぶタイプの人間でもないはずだった。
「……うん、もう一回見たくなったの」
自由をさ、と彼女はこちらを向いて微笑む。
その目は僕を見るというより、僕を含む空間全体を見ている感じだった。
「そっか。どうだった?」
「うん、やっぱり素敵」
花に囲まれた彼女は小さく頷いて。
今度は真っ直ぐに僕を見る。
「私ね、ほんとはピアノやりたくないの」
しゃきん、と音がする。
床に落ちた葉を拾いながら僕は「そうなんだ」と言った。
「反応うすいなあ。もっとびっくりするかと思ったのに」
「まあそんなこともあるかなって」
「これでも十四年続けてきたんだよ?」
「三日坊主も十四年坊主も、やめたくなるのは突然だよ」
その言葉を聞いた春原は一瞬きょとんとしたように目を丸くして「あはは。そりゃそうだ」と笑みを浮かべた。
「私ね、バレーボールがやりたいの」
「いいじゃん」
「大きな体育館でビュンって跳んで、バシッとアタックを決めたいわけよ」
「かっこいいな」
「そうそう、ほんとかっこいいんだよね。……でも」
彼女は言葉を切る。
手元を見ていた僕は顔を上げて、彼女と向き合う。
「お母さんは悲しむと思う。十四年ずっとピアノ教えてくれて、私がピアニストになるのを楽しみにしてるし」
だから、と微笑む彼女は何故か泣きそうに見えた。
「ちゃんとした理由もないのに、やめるとか言いだせないんだよね」
十四年。
その年月の重みは僕には想像もできない。
きっとそれは今の彼女を形作る積み重ねで、アルバイトのように替えがきくものではないのだろう。誰かが口出しできることじゃない。
「ちゃんとした理由はあるじゃん」
しかし彼女は何かを求めてこの店にやってきた。
それなら僕は、僕の話をしよう。
花には花の生き方があり、僕には僕の生き方がある。そんな当たり前のことをもう一度伝えよう。
「やりたいなら、やらなきゃ」
自分の生き方は自分で決めていいはずなんだ。
「……うん。そうだったね」
彼女は綺麗に微笑んで、踵を返した。
青空を透かすガラス扉に向かってゆっくりと歩を進める。
「ごめん。私、行くね」
「またのご来店をお待ちしております」
「うん。ありがとう」
彼女はたくさんの色に見送られ、そのまま店の外へ出て行った。
そして店には僕と花だけが残される。いつものようにとても静かな時間が戻った。
そこにはもちろん、ファンファーレなんて聞こえない。
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