雄二の憂鬱2

 真っ赤に染まった赤ワインをこぼしたかのようなカーペット。靴の先まで真っ黒に決めたスリーピースの漆黒のスーツ。

 雄二は、クラシックのコンサートに行く事がとても好きだった。この精錬とした空気に漂うピーンと張りつめた緊張感。

 そして、演奏が始まったとたん、会場が一気に静まり返り、その音に観客全員が全神経を傾ける。

その時間だけは何も考えなくてよい。

ただ、音楽と私それだけだ。

 五感の情報はしばしば雄二を憂鬱にさせた。目では助けを請う人を探し、耳では相手の音を分析し、口で人間にとって気持ちの良い音声を発し、表情は常に気を配りかすかに笑みを浮かべる。それを同時にするのは、処理能力の高い雄二にとっては些末な問題ではあったが、質を上げるとなるとそうではない。脳がどうやら混乱し、疲れを感じるようだった。


 しかし、音楽を聴いているときだけは、自身の定言命立から逸脱しほかの世界線へと向かえる、そのような気がしていた。雄二にとって音楽は現実世界からのしばしの逸脱であった。コンサートは意思疎通が出来ない言語の世界へと乗り込んでいるかの様だった。そこでは誰も雄二を侵略しない。五感も休憩し、人間である事を忘れる。乗り換えた世界線からまた戻るときもまどろみを感じ、現実と非現実の間に立つ酒に酔った気分になるのも至福であった。

 その切符の半券を受け取ると、コンサートホールへと入る。コンサートホールには、二つの形がある。一つが、ボックス型、もう一つがヴィンヤード型だ。ボックス型はよくホールで見る四角の箱に椅子が並ぶ形だが、ヴィンヤード型は葡萄畑のように椅子が斜めに並び、音響が響きやすく、尚且つ座席から演奏者が良く見える。今回のホールはどうやら後者の様だった。気分良く席を探すと、どうやら既に彼女は来ている様だ。


「桃……」

「雄二君、遅いよ!すごく楽しみだね」


は……えっ?誰だ?

 と言うやりとりを数分前繰り広げた。

 どうやら、桃子はこの良くわからない女に自分の身代わりを頼み、一緒に観劇させようと言う魂胆の様であった。そんなにラフマニノフが良かったのか。意外と桃子は強情な女のかもしれない。

 雄二は、怒るわけでもなくすんなりその出来事を受け入れる。雄二にとって、現象と本質は相反するものであった。押さえつけてきた自我が今頃覚醒する事なぞない。


「ねえ、私バッハ大好きなの。オルガンといえばバッハでしょ」


 浅い知識とともにフローラルと紅茶に甘いローズを混ぜた様な香りが雄二の鼻をつく。

 何だこの香り。クロエだ。クロエのオードパルファムだ。雄二は香水には疎かったが、この匂いだけは名前とセットで覚えている。

 女がこぞってこの香りをつける。クロエの香水はモテると巷で話題で、それに便乗した女性が、何度もこの香りを振りまく。確かに、嫌な気はしないだろう。ただそれ以上に、好かれたいという欲がすすけて見えるのが雄二にとっては心底嫌悪に至らしめた。

 それが分かりやすく好意を示し可愛いという男も多いが、どうも雄二には自分の戦闘力を上げているようにしか思えなかった。寧ろその女の子である元来の弱さを強さに変えてしまっているようなそんな不可思議さ。


「ねえ、雄二君は覚えている? チョコレート」


突然紗耶香は、雄二に話しかけた。

正直、雄二にとってこの女の印象は先ほどまで全くなかったがこの言葉で急にその記憶を呼び起こした。あのおかしな女だ。私も好きと気味悪く微笑んだあの女。


「ああ!君は、あの時の」

「ええ、そうよ。私びっくりしてその日は何度もチョコレートを見つめたわ」


見つめた、とはなんだろう。雄二はなぜ食べなかったのかと疑問がよぎると同時に自分のことを思い出した。一瞬表情を引き攣らせたが、そのまま口をつぐみ笑みを浮かべた。


「……桃子は、なぜ来なかったんでしょうね」

「愛はいつでも自己から逃れられませんから」


 紗耶香にとって、愛は自身の投影だった。他人を愛することは自己愛に何ら変わりはなかった。紗耶香が人を推すときは決まってそこに自分がある。だからこそ、他人が男性アイドルに夢中になる気持ちがあまり理解できない。どこにも沙耶香が真似したい共通点などもないからだ。女性アイドルが好きなのもその理由だ。


「僕はそう思わないね」


 しかし、雄二にとってそれは全く理解のできない事だった。母の幻影を追う彼にとって、愛とは自分とかけ離れた存在であるとどこか認識していた。愛は自身の中ではなく、女の弱さの中にしか存在しない。愛してるの言葉は自身から発するものでありながら、自己へと向かうことはないと信じていた。だからこそ、誰より強くなった彼は弱さを求めた。


「じゃあ、雄二くんは愛をなんだと思ってるの?」

「……僕は、弱さだと思う」


 雄二は心の中で桃子と母を思い描いた。

身体が動かない母、何も映さない瞳。薄柔らかな頬、血色のない唇。

 ——そして、昨日の桃子の言動。


「……それって愛なんだと思う?」

「え?」


「……ー」

 

上映前のブザーでかき消されたその声は、雄二だけにはしっかり届いていた。

その女は、徐に服を脱ぎ、女を見せた。色白の肌がライトの下であらわになる。

そしてにやりと雄二に妖艶にほほ笑むと鞄からチョコを取り出し唇を軽く舐めると口の中へと一思いに放り込んだ。そのまま照明が落ちその女の姿も視界から消えた。


 バッハ平均律クラヴィーア曲集第一巻第一曲

 赤子を包むベルベットの生地に包まれるような心地よいテンポと対比し、心が暗く染まり続ける。剥き出しの生が音楽の世界へ向かうのを邪魔するが如く、立ち続ける。雄二は必死に押し返そうとするが、影の様に実態がない罪悪感だけが宙を舞い、着地点を見失ったかのように罪悪感の煙が雄二をまく。


「それって、愛なんだと思う?」


ふと、先ほどとなりの女が呟いたものを滞りなく全てを我がものとするごとく、大きく息を吸い込む。

バッハのピアノが煙と化し螺旋状に渦巻き、音と共に迷子になるのは雄二の心を表しているのだろうか。


「愛は一種のメタファーよ」


 曲の最骨頂に近づくにつれ、先ほどの女の言葉だけが雄二の頭を鈍器で殴りつける。

破壊した不協和音の旋律が、穏やかな曲調に対比するがごとく脳裏に響き渡る。


雄二は、考える。

好きになるのは、必ず持って理由がそこに存在した。

それこそ、雄二が人と付き合う上で1番大切にした事であるし、また彼の中の一つの法則であった。だからこそ、それを真っ向から否定する彼女の言葉は、喉の奥に刺さった小骨の様にどうしても口から吐き出す事ができなかった。

だが、愛というものはそんなものではないとその女は薄気味悪い笑みを浮かべる。


「そう、愛は、小説や自分の出来事のメタファーなの」


 確かに愛は経験である。愛された事のない人間は人の愛し方がわからない。

 見よう見まねでした愛は、結局「私」から遠い存在へとなり、私は愛されないという事実に直面しさらに孤独に渦を深めるだけだ。愛についての意識は自身から発足する。それは揺るぎもない事実であることは雄二も納得できる。

 しかし結局、愛という存在は自身から逃れられず主観の中に存在するのみであるのか。雄二の愛は、自分にないからこそ求めていると思っていたが、本質はそうではなく、自己愛と変わりがないのではないか。

 そう考えると愛は、私による私小説の一部でしかないのか。


そのように考えている間に、曲が緩やかに終焉を迎え、ピアノの最後の一音がコンサートホールに溶けて消えた。

かすかな余韻を楽しむ間もなく、まばらな拍手が大きくなり囂々とホール全体を一つの生き物の唸り声と化した。

その女は、拍手するでもなく、雄二の手を一度滑らせるように撫でた。

雄二は、混乱を抑えるがごとく、足に力を入れ手をぎゅっと握りしめ膝をつかんだ。

そういえば、あの女、名前は


「雄二くん、私、紗耶香だよ」


その女は、雄二の心を見通したかごとく、にやりと笑い目を細めるとチョコレートの箱を雄二に渡し、演目はまだあるというのにもかかわらず、その場からするっと立ち去った。

 彼女の後姿を見て、雄二の頭をよぎったのはカーリーというインドの神話の女だった。血と殺戮を好み、勝利の踊りによって世界を破壊しかけたあの悪魔、いや女神か。雄二はかき乱された心で次の演目を迎えた。

バッハの穏やかな曲が、歪んだ自身を攻め立てているように感じるようなことを覚える。

 かといって、雄二は、一度決めた「見る」という決心を変える柔軟性も持ち合わせておらず、結局小休憩まで苦しむ羽目になった。





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愛しながらの戦い 珊瑚水瀬 @sheme

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