桃子の苦悩

 ピンクネオンを照らす人だかり。ギラギラと着飾った女。スーツでびっしりと決めた男。

 その光の下でぼやけた影だけが本当の姿を表す様だ。

 そんなネオン街を一度抜けると、人は我関せず、自身の家の帰路へ着こうとする。左から右へ、右から左へ。視界の中から人が消えたり現れたりを繰り返す。

 桃子は、人間の様を遠くから見つめる事に慣れていた。

 それは心を守る術であったのだが、箱の中に閉じ込められた心は、鍵をかけたら遂には鍵を無くしてしまう。自身でどうこじ開けようとも月日という膨大な時間がどんどん重く伸し掛かる。いつしか、鍵をかけた事も忘れた桃子は、自分と他人の境界も曖昧になり、全てのものを客観的に捉えるようになっていた。

「いたっ」

人が桃子にぶつかる。

この物理的な痛みですら桃子は疑う。

果たして、これは私が本当に感じている痛みであろうか。私の身体と精神は、分離していてそのぶつかった現象に痛みを感じているのであって、感覚器官としての痛みは、もっぱら精神にはなんら影響もなく、脳が勘違いしてるにすぎないのではないか。つまり、この痛みは私に対してではなく、現象に対してであり、反射的にその現象が起こると痛みを感じるようにのではないだろうか。

 そうすると、この現象も知覚も全て幻で私自身は何処にももう存在していないように感じた。この世界を主観と客観に分離するという世界の紛う事なきことわりも、主観は桃子の中では閉じ込められているのだから、この世界は表象ただそれのみである。つまり、経験論者にもなりきれない。

 視界に入っているこの風景すら、目が本当に機能しているのかまでを疑うのだから。


 桃子は、ぼーっと、代わる代わる変化する表象を見つめながら、コンビニで買ったコーヒーを片手に雄二にした仕打ちをほとほと思い出す。

ーーーー私は母と同じであったのではないかと。

 感情的になったのは、桃子のこの箱の蓋を雄二の言葉がこじ開けようとしたからに他ならないのだが、当の本人はそれに気付きようもなかった。ただ、それは桃子の中では苦い記憶として後味にザラザラと残る。まるでこの飲み込むのすら甘ったるい缶コーヒーの後味の苦味の様に。

桃子は、ため息を一つついた。

私はきっと間違っていた。母の様な姿を晒してしまった自分に嫌気が差す。

思い出せば思い出すほど、寒気で身震いが止まらなかった。

私はあの女の血が流れていて、私もいつかそうなってしまうのではないかという恐怖を吸い込み吐き出すまで時間がかかった。

ーーいいえ。大丈夫。私は、そうならない。

飲み終えた缶コーヒーをダストボックスに思いっきり投げると、スマホのラインを開き、一息にこう綴った。


「昨日は帰ってごめんなさい。女らしいと言われたのが少々気に食わなかった。」

「あなたのことは大切にしたいと思っている。ただ、女らしいというのはやめてほしい」

「今度の日曜日、ラフマニノフのピアノリサイタルがあるから一緒に行きませんか」

とクマのお願いする様なスタンプを押しておいた。


 確か、雄二はクラシック音楽が好きでSpotifyにたくさん入っていた。

 私は、ピアノの曲はあまり良く知らないが、ラフマニノフはなぜか好きだった。

 幻想的な華やかな美しさ、甘美でロマンティックな叙情を湛えた作品は、私の心にまっすぐ響いた。

 ロシアの豪雪でも負けずに咲く、花々をいつも思い描く。

 私の心にも花を咲いたように、始まりを告げる朝焼けの色がつく様な気がした。

 凍りついた心に心なしか強さを得られる気がした。


「雄二にも伝わるといいな」


 そんな希望はあっけなく消え去る事は次の日知ることとなる。

 いや、そうではなく、もっと複雑な事態に巻き込まれていくのは、この時は知る由もなかった。

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