後半
土や泥の匂いが辺りに充満している。人の行き来はパタリと止み、料亭の暖簾をくぐる人も出てくる人もおらず、見知らぬ女性と二人だけという異質な状況が、研朗を徐々に不安に追いやった。だが、立ち去る気にはなれない。女が再び口を開くまで、研朗は粘り強く足を地面に着けていた。
「ほら、もう遠くないわ。あの人の匂い……。あなたも、感じるでしょう?」
女は前を向いたまま、研朗に告げる。人の匂いなど、研朗は今まで気にかけたことがない。野生の動物に似た嗅覚を、女は持ち合わせているのだろうか。それとも、直感が匂いとなって彼女に纏わりついているのかもしれない。いずれにせよ、研朗には雨がもたらす自然の匂いしか感じ取ることができなかった。
「あの人が、やってくるわ。私にかしら。……それとも、あなた?」
「あの人というのは、貴女の待っている人は、一体誰なんです? わたしは、ただ雨宿りをしているだけなんです。わたしは誰も待ってなんか……」
研朗は幾らか語気を強めた。女の言わんとしていることが判らず、多少なりとも苛立ちが募っていた。そのうえ、今すぐにでも駆けだせば済むものを、なかなかこの場から離れられない自分に対してさえ、むしゃくしゃした気持ちが湧いてくる。
「……あの人は、私の大事な人でした。いつも私を想っていると、その言葉をずっと信じておりました。だから私も、あの人を大切に想っていたのです。……なのに」
女は急に声を曇らせ、研朗に抱きついた。投げ出された傘が地面に転がる。真白なクロッシェの下からは、意志の強そうな鼻筋が覗く。呼吸は荒く、肩は小刻みに震えていた。彼女は研朗の胸許で大きく息を吸い込み、そして時間を掛けて吐き出す。
「あの人は、愛しい人の顔を思い浮かべて待っていると、その人がやってくるのだと私に話しました。だから、私も同じように、あの人を思い浮かべて待っていたのです。でも、いつからか、あの人は私の許に来なくなった。私より、もっと大切な人を想っているから」
女はふいに研朗へ口づけた。研朗は突き放すこともできず、ただただ女の行為を受け入れ続けた。女の放した傘に、雨水が溜まってゆく。雨は束の間荒れて降ったあと、音を急激に低めて大人しくなる。
研朗から離れた女は、目を伏せて頬に雫を流していた。本物の涙は、研朗の心を耐え難いほど痛めつけるものだった。研朗はすっかり忘れていたのだ。かつて愛した人の顔を、声を、匂いを。
「研朗さん、私、明日結婚するんです。だから、もう逢うことはないでしょう。もう二度と……。でも、最後に、私のお願いを聞いてもらえる?」
研朗は恋人であったその女性を目に焼き付け、おもむろに背中を向けた。言われなくても、とうに彼女の心の中を理解しているからだ。
少しの間を置いて、芳しい匂いとともに足音が遠ざかる。すでに耳には、雨の音しか聞こえない。傘は、まだ使える状態だろうか。寒くはないだろうか。無事に家まで帰れるだろうか。
研朗は、閉じた自分の目蓋から、熱い雫が溢れ落ちるのを感じずにはいられなかった。彼女の幸せを思えば、しがない物書きより、財閥の息子との縁談のほうが良いに決まっている。それゆえ、彼方の意向もあって、別れざるを得なかった。研朗は自ら身を引いたのだ。
皮肉にも、目を開けたときには辺りは小降りになっていた。優しく、音もなく、暗闇に吸い込まれて消える雨。研朗が茫然と佇んでいると、地面を擦る、別の足音が近づいていた。
「酷い顔をして、どうしたんです?」
和傘を差してやってきたのは、紛れもなく友人だった。彼は扱いに困ったような表情で、研朗に傘を差しかける。
「雨はもう降らないだろけど、研朗さんには傘が必要だね」
研朗は傘を受け取る振りをして、友人を抱き締めた。彼の躰は別れたときとは違い、すっかり冷えきっている。わざわざ傘を届けるために、跡を追ってきたというのか。
「……君に、逢いたかった」
「ついさっきまで、一緒にいたじゃないですか」
「いいんだ、いいんだよ」
「……研朗さん、今日はなんだか変ですね。貴方が泣くなんて。ほら、いつもみたいに僕に笑って」
研朗は友人に慰められてもなお、腕を解こうとしなかった。自分が望んでいたから、彼が現れたのだ。研朗は漸くそれに気付く。
顔料の香りが仄かに漂う。研朗はもう二度と忘れないよう、大切な人の匂いを思いきり吸い込んだ。
いつも貴方の顔を思い浮かべて待っていると、本当に貴方は僕の許へやってくる。まるで予期していたみたいに……。
夕雨の待ち人 夏蜜 @N-nekoko
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