夕雨の待ち人

夏蜜

前半

 老舗の軒行灯が連なる小路を、人々が急ぎ足で通り過ぎてゆく。夕刻になって俄か雨に見舞われ、傘を持ち合わせていなかった研朗も自宅までの道のりを駆ける羽目になった。

 雨はいっそう激しさを増し、路は黒々とうねる。研朗は急ぐあまり、ブーツを水溜まりに深く踏み入れた。弾みで袴の裾が濡れ、脛に冷やりとした感覚が伝う。靴底にも水が溜まり、踏み込むたびにキュッキュッとあぶくを吐く。こういう状況に陥ると、走る速度は遅くなる一方である。

 研朗は仕方なく、舗の軒下を借りて雨宿りすることにした。格子戸から溢れる灯りによそよそしく躰を寄せ、濡れそぼった髪を額からはがす。同じく雨を避けてきた男女は、軒下に留まることなく暖簾をくぐっていった。

 ほんの少しの間だけ休むつもりでいたが、雨は一向に弱まることを知らず飛沫を上げて降り注ぐ。それにもかかわらず、夕餉の時間帯ということもあってか、料亭には来客が絶えない。大抵がパートナーを同伴してくるか会社員の団体で訪れるので、研朗は次第に独りでいることの後ろめたさを感じ始めていた。

「あいつの家で世話になるべきだったか……」

 雨空を仰ぎ、引き留めてくれた友人の判断を、今になって正しく思う。研朗はいくぶん背筋を伸ばして、誰かと待ち合わせているふうに装うのが精一杯だった。


 いつも貴方の顔を思い浮かべて待っていると、本当に貴方は僕の許へやってくる。まるで予期していたみたいに……。


 ふとその言葉が研朗の脳裏を掠める。待ち人を期待していると本当に姿を現すのだと、友人が冗談めかして話していたことを思い出した。もちろん研朗は偶然だろうと笑い飛ばしたが、こんな夕雨ならば、傘を持ってきてくれる人が欲しいと切に願う。

 雨垂れを眺めているうちに、仄暗い通りから誰かがやってくる気配を感じた。一歩一歩踏みしめるように近づいてくる人影に、研朗はもしやと胸を膨らませる。

 だが、料亭の軒行灯が照らしたのは、研朗が期待していたものとは違った。赤橙色の路面に、女物の白いヒールが浮かび上がる。彼女は暫し爪先を研朗へ向けた状態で佇み、何故か洋傘は差したまま、軒下で訝しむ青年の隣に並んだ。

 どれくらい、そうしていただろう。女は待ち合わせでもしているのか、微動だにせず雨を眺めている。少なくとも研朗が盗み見た限りでは、全くと言っていいほど動きがない。

 研朗の視線を察したのか、白百合のような傘がわずかに傾いた。女の紅く塗られた唇が目に留まる。皺がなく艶があり、しかしながら大人びた印象の口許だった。研朗が見つめていると、その唇が微かに開く。

「あ……だ……ちに……るの」

 辺りに散らばる雨音のせいか、単に発せられた声が小さかったのか、女の言葉は研朗の耳へ届く前に冷えた空気に紛れてしまった。白色のワンピースが、雨の勢いに煽られている。自分が濡れていたことを忘れていた研朗は、肌寒さを覚えて思わず身震いした。

「あなたは、誰をお待ちになっているの」

 今度ははっきりと、耳に直前吹き込まれのかと思うほど明瞭に聞こえた。芯のある声が、研朗を惹きつける。女は口の端を緩やかに上げ、目を離そうとしない研朗へ微笑んだ。

「私はね、ある人を、ずっと望んでいるの」

 研朗が答える前に、女はゆっくりと口を動かした。沈黙が二人の間に流れる。傘を真っ直ぐに戻した彼女は、降り止まぬ雨を見上げてさらに続けた。

「あの人は、いつも私を想っていると仰ってたわ。……いつも。だから、私も待っているの」

 女の話はとりとめがなく、傍らで聞いていた研朗を戸惑わせるばかりだった。そもそも独り言に近く、一体何について喋っているのかが全く見えてこない。研朗は女の顔を覗き込むように、躰を少しだけ傾けた。

「……わたしは、ただ此処で雨宿りをしているだけです。誰も待ってはおりません。貴女の待ち人は、きっと、もうすぐ来るのですね? だから、わたしが邪魔なんでしょう?」

 研朗は、暗に自分が疎まれているのだと思い、女に問いかけた。暫く反応がなかったが、女はまた研朗へ振り返る。紅い唇に、影がさしたふうだった。

「疎むなんて、そんな。だって、あなたも、あの人を待ち望んでいるのでしょう? ならば、逢えないなんてことは、あってはならないの」

 女の口調は淡々としていて表情も判らないが、どことなく憂いを帯びているのが声色に表れている。ただ雨宿りをしているだけだと、誰も待ってはいないと、そう伝えたはずなのに、女は研朗が待ち侘びている人物を知っているような口振りだった。むろん、研朗は本気でそんなことを期待しているわけではない。

「わたしは、もう行きます。雨も、……ほら、先程より穏やかになってきましたし」

 墨色の空からは、相変わらず冷たい雨が落とされている。季節は日に日に夏めいているというのに、水を含んでいる靴の中は、晩秋の河原に素足を浸しているようだった。

「いいえ、あなたは此処に留まるべきだわ。あの人が、あなたがいないと知ったら、恐らく、いえ、絶対悲しむでしょうから」

 頸を横に振った女は、再び正面に向き直って動かなくなる。研朗は投げかける言葉を見つけられず、傘の曲線を眺めるほかなかった。

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